Cartagra3
「嘘だ」
否定の言葉が、口をついて出た。
口の周りを吐瀉物で汚したまま……痒さが来る、それは知っている。
拭わなければ、不快なそれが確実に待っている。不快な臭いも漂っている。
だけど、汚れを拭くことなんか考えもつかずに、まず自分がしたのは、彼女の言葉の否定。
返って来たのは、否定の否定。
「嘘じゃないわ」
「……嘘だ」
「あの子は、自分の持っていた全てのパイを、見ず知らずの女に差し出したのよ。その相手こそが……」
――ああ、なんて運命的なんでしょう、マリア・スノウホワイトその人――
吐く際に思わず突き飛ばしたその柔らかな身体を、彼女はまた寄せてくる。汚れを気にも留めずにこちらの体を抱きしめ、恍惚とした表情でうっとりと囁く。
囁いているのに、その筈なのに。彼女の小さな声が、その一言一句が、耳に過たず入ってくる。
「嘘、……う、げぇ……っか、はぁ、はあっ! はあっ! 嘘だ……よせ、もう黙れ……」
発する言葉がボクを傷つける事を確信していながら、それを喜ぶかのように彼女は笑った。笑っている。いつものように。揺るがないんだ、彼女は全てを喜んでいる。
他者の苦しみをも、喜んでいる。
……でもボクは、彼女の言葉の、何に一体苦しんでいるんだろう……?
「……貴方も、そういう風に生きたがっていたわね。誰かの為に生きて、そして死ねたならいいな、なんてね。……素敵よね、そういうの」
うふふ、と。彼女の口角は蠱惑的に上がっている、上向きの角度を保っている。
きっと、どれだけの力を籠めても、どんな悲喜があっても、ボクの想像しうる程度のものでは、彼女の表情を変えることは出来ない。
残酷だ。
彼女はボクの無知を、無能を、無力を嘲笑い続けている。ああそうさ、きっと楽しみだったんだろう。
一回目もそうだった。彼女は笑ってた。
そして今、二回目だ。温めていたんだ!
ボクをどうやって傷つけよう、どれほどに傷つけようかと……楽しみにしていたに違いない。
なんでこんなに的確に、ボクの心を覗くかのように……バラバラの話題から、バラバラの言葉で、人を刻むことが出来るんだ。
……不意に、気付いた。
収束しないように見える彼女の放言は、その全てが、ボク自身を傷つけるために働いている。
だけど、ボクを苦しめる本質は、彼女の言葉そのものじゃない。
気付いていたこと。それが沢山あったんだ。見ないふりをしていた。
そこを彼女は、ボクが気付かないままでいたかったところを、彼女は、抉り出してきている。
だからこんなに辛いんだ。
人々の暮らしを脅かしてきた魔族はどんな存在だった? 邪悪か?
……そうだとは、ボクはもう、言い切ることが出来ない。
魔王は聞いた。生まれてきてはいけなかったのかと。
ボクは答えた。そうだ、と、確かに答えたんだ。
……魔族を殺してきたことに、意味はなかった?
いいや違う、確かにボクは、目の前の魔族の暴虐を防ぎ、人々の暮らしを守ってきた。それは否定できない筈だ。
……だけど。
……英雄になりたかったんだ。
別に褒められなくても、いい。
自分の行いが、人々の為になればと、ただそれで良かった。
……愚かな自分が考えていた以上に、それはとても、とても難しい話だったんだ。
殺すだけで、たくさん殺すだけで、そんな存在になれるはずもなかった。
……邪悪じゃない魔族の子供たちがいたんだ。
彼らは孤児で、そしてボクは、これまで、どれだけ彼らの様な境遇をこの手で作りだしてきた……?
魔族を殺せと言い、今更別に殺さなくても良いと言い。
魔王を殺せと言い、別にその生死に意味はないと言いたげに、どうでもよさげに……そうさ、ボクを今、ここで悩ませる方が余程重要だとでも言いたげな顔をして。
……人々が、魔王の手で苦しむ以上に、何が重要なんだ。法王が言う、『人々を救う』とはなんだ。
救うのは、神の行いではなかったのか。サリア教団の行いは、神意を果たす為ではなかったのか。
カイネの大義とはなんだ。老人とは誰の事だ。
それはお前らの都合だ、なんで神の意志が、お前らの欲望にすり替わっている。
神はどこに行った。
揺るがない、変わる事のない無二の正義は、どこに行ったのか。
……神は。どこに。
分かってた。
だけど直視したくなかった。
耐えられなかったんだ。
全てが曖昧で不確かで。リリィの所にいた子供たちに会った時から、本当は気づいていたんだよ。
魔族を殺すことに正義なんかなかった、どこにも正義なんてなかったって。
あるのはただ、誰かの都合だけで。
ボクはこのままじゃ、ただ……苦しむ誰かの為に全てを捨てて、愛する誰かの為に死んだ彼を殺しただけの道化じゃないか。
人々は魔王を倒しても救われないのか。そもそも倒れているかどうかすらボクには確信がない。
何もない。何も確かな事が。
今までやってきた事にも。サリーと命懸けで果たした成果にも。あの少女の死の意味にも。
ナインを殺したことにすら。
なんで教えた。なんでそんなことを教えた。知りたくなんかなかったのに。
ボクは、ただ。このまま世界が平和になって……サリーが幸せになってくれればと……それなのに。
それすらも、ボクがナインを殺した事で無為に帰したと、そういうなら。
何もできない、何も果たせていない、ただ、ボクは敵と言われた誰かを殺してきただけの存在だというのなら。
生まれてこなければよかったというなら、それはまさか、余程、ボクの方じゃ……。
……まだ彼女は笑っている。
確信できる、彼女は邪悪だ。
たった二回の邂逅でも分かるくらいに、それほどに彼女の笑みは隙が無くて……完璧すぎて……。
残虐さを最早隠しもしていないのに、余りにも彼女は綺麗すぎる。
こんなの人間の表情じゃない。
なんでこんな邪悪な存在が、サリアにいるんだ……?
「ナインは、マリアの為に人生で稼いだ全ての対価を捧げ、そしてクリステラの為に命をも捧げた。言い訳も、自らの命乞いもせずに。勇者を殺さず、彼女の母親の居場所をも教えた……つまり、彼はサリーが誰であるか気付いていたでしょうにね。恩を仇で返された、そんな恨み言もなかったそうですね」
「やめろ……」
「……それに引き換え貴方は魔王も殺せず、ただ、そんな彼を殺した……まあ、こう言うのも意地悪かしら。……ええ、そう。アレはただの人の敵ですわ。今更何に罪悪感を覚えているのかしら」
「もうやめてくれ、聞きたくない……! 聞きたくない! もう何も! 何もボクに教えるな!」
「……彼のような振舞いをした者を、人間はなんと呼ぶんでしたっけ……そうそう、『英雄』。そうよね。知っているわ。私は知っている。そして貴方は、それに憧れていたわ。そうでしょう?」
やめてくれって……言っているのに……。
……分かってるさ、本当は、ボクはやめろなんて言えない! そんな権利はない、ボクは偽善者だ!
でもここまでされるほどのことはしてこなかった!
助けたかっただけだ! 拾われて、才能があるって言われて、血反吐吐くまで努力して!
なんでだ。
カイネ、なんでそんなことをボクに教えた。
……完全な悪人なんてそうそういないさ、知ってるよ。
でも、ナインだけは。人間全部を裏切ったナインだけは絶対悪でなきゃおかしいだろう!
なんであいつがそんな事したんだ!
アイツこそ偽善者だ!
ズルいぞ、先に死にやがってカッコつけて!
卑怯者め、のうのうと殺されやがって!
お前だってボクを、ボクをあの時殺せた筈だ、それなのに!
……なんで殺さなかった? 恥をかかせて、馬鹿にしやがって!
……馬鹿に、しやがって……。
……はは。
ははははは。馬鹿だな。
ボク、どうしようもない馬鹿だ。傲慢で、勝手で、ひどい……醜い……。
自分の汚さがあんまりにもあんまりで。
耐え難くて、瞼を落とそうとした。もう目の前の存在を見たくなかった。
……初めから分かっていたかのように、それこそ瞬きより早く彼女はボクの頬に両手を添えて、親指で優しく、丁寧に、閉じた瞼を押し上げてくる。
細まった視界が、また広がる。彼女がまた、すぐそこにいる。
逃げられない。
この女からは。
それでも願う。もう、放してくれ。
放せ、もう、解放してくれ……。
「そう睨まないで頂戴な。ああ、子供のようで、とても、とても怖いわ。……殺しなど初めてでもない癖に。殺していい相手といけない相手を区分するのが、貴方の正義?」
「……正義だって? カイネ、貴女が……はは、そんな言葉を」
正義……?
分かっているだろうカイネ、分かっていながらそんな事を言って、なんて奴だよ。大概だ。
なかったじゃないか、正義なんて。ボクの正義は、まがい物だったじゃないか。
魔王を殺せば、みんな幸せになるって信じて、そんな簡単なものじゃなかった!
魔族は、ただ邪悪なだけの怪物だって! 貴女方がそう言っていたくせに、今さら……!
あの魔族の子供たちは! 温かかった! 人間と変わらなかった!
ボクは!
何かを殺すのが楽しかったわけじゃないのに!
「何が正義だ……英雄だ! 貴女はさっき、僕の事を英雄と呼び、そして彼をもそう呼んだ! 人間の敵をも称賛して、その上でボクを辱めるのを喜んで! ……貴女は、最低だ……」
「こう言って欲しいの? 貴方の方が最低……って。言わないわ、そんな冷たい事。だって貴方」
――分かりやすい痛みが欲しいだけでしょう? どうしてもと言うのならば、甘やかしてあげるけど。
ほぉら、ママの胸においでなさい。ふふ、うふふふふ――
魔女は、嗤い続けた。
(……カイネ。サリアも。なんでボクを、騙したんですか……?)
――無思慮のまま、殺しと正義を結び付ける事が出来るほど、アビスは鈍感ではなかった。
殺害という最も下賤な行為に正義が宿るという矛盾を見過ごせるほどに、彼は、愚鈍ではなかった。
……自分の精神を安んじるため、妥協することが出来ないほどに、アビス・ヘレンは潔癖症であった。
故に、虚ろな目をしたまま、アビスは呟く。
――呟く。
助けて、神様、と。
悪魔は、それを喰らう。
「なんで貴方は、神様に縋るの? いつからそうなったの?」
「……いつ、から」
いつからだろう。
そう。家族を失って、故郷を失って、自暴自棄だったボクを、バッカスさんが拾ってくれて。
誰かの為に生きる事が、幸せで。
ボクの力で、誰かを救えると教わって。
だって、神様の声が聞こえたんだ。皆を守れって。
頑張って。
頑張って。
……褒められて。皆の笑顔が、嬉しくって……。
英雄になれば、もっと、もっと……。皆も幸せで、ボク自身も。
不幸だったボク自身が、幸せになれるんだって、そう信じてた。
だって、お伽噺の英雄は、格好良くって……彼の周りにいる人々は、みんな笑顔で、彼の凱旋を称えていたじゃないか。
選ばれしものが英雄だってさ。
神様が選ぶんじゃないか。そう教えたのは、貴女方じゃないか。
貴方達サリアが、神様の御意思だとそういって、正義の形を教えてくれたんじゃないのか。
それを信じたよ。死んだ父さんも。死んだ母さんだって。あの時一緒に死んだ弟も妹も、それを信じていたんだぞ。
……父さん、母さん。何故ボクより先に死んだ。
なんで、こんな嘘を教えたままいなくなったんだ。
ここでは、誰もこの酷い欺瞞を訂正してくれなかったよ。
だから……取り返しのつかないところまで来てしまった。
顔にある穴のすべてから、液体が流れ出ている。この惨めな顔を貴女はどう評す。
また笑うのか。その悍ましい笑顔をボクに見せるのか。
人々を救う英雄を目指して、今こうして惨めに泣くボクを嗤うのか。
……彼女は、その表情を見せない。背中を向けて、また言葉の中に、柔らかで、だけど返しのついた棘を含ませて投げる。
「とことんつまらない子よ、貴方は。誰かの為に、誰かの為にと。馬鹿の一つ覚え。両親への恨み言すらもその程度……八つ当たりも出来ない不具の子。根っこから偽善が染みついちゃって、救いようがないのよ。神様はね、それを喜びはするけれど、憐れみはしない」
「だって……神様は、言ったんだ。その拳で、皆を守れって……」
「剣ではないのよ。なら、何故拳か。殺すなと、そういう意味だったとは思いもつかなかった?」
「……欺瞞じゃないか、そんなもの……」
「……貴方が薄っぺらな理由を教えてあげる。全部が借り物だからよ。あの男と違うのはそこ……貴方は怒りも恨みも、保つことができなかった。良い子でいることに依存した。周囲が与えた良識で肥えた。サリアに自分の正義を仮託した」
――足りないの、と彼女は言った。
「何が……? 何が足りない?」
「決まっているでしょう、本当に物分かりの悪い子……」
――惨めさが足りないのよ。
そう、カイネは言った。
「神が貴方に接触する要件は、たった二つ。心からの苦しみと、心からの救済を祈る気持ち……」
――それだけなの。そして貴方には、それが足りなかった。
だって、貴方は強いから。耐えられる人間だったから。
取り繕ってしまったから。
神は自らを救って欲しいと、それ以外は聞き入れられない。
貴方は、貴方自身を救ってくださいと、そう願う以上のことは許されない。
貴方を救えるのは、神に願う以上は、貴方だけ。
貴方は、貴方以外を救うことは出来ない。
そう、貴方は、心から縋らなければいけない。
お父様は……神は、その声を拾い上げる存在だったから――
「自らの罪を認めなさい。正面から向かい合いなさい。貴方は生まれながらにして罪人で……そして今、これまで重ねてきた罪を自覚した」
――今こそ貴方は、貴方自身の為に、その罪の重さから救ってくださいと……そう祈らなければならない。
真摯に。
真剣に。
許してくださいと、そう言いなさい――
――カイネの言葉を受け、アビスは口を開いた。
「…………ボクが」
――ボクが悪かったから。全部悪かったから。だから……。
――許してください。もう、許して……。
――ええ、貴方は許される。神は、そんな貴方を見捨てはしないわ。
サリアの思想……そう、疑っているでしょう? 疑わしいものは、信じられない。
もう心を預ける事が出来ない。
人の組織に、神の意向を委ねるなんて傲慢は、もう貴方には出来ない――
――お父様は、けして貴方を見捨てはしないわ。
老人の呪縛からは、もう離れなさい――
―――無理なのよ。勇者など、英雄などと、人の身では。
だからね。救世主こそが必要なのよ。
こっちにいらっしゃい、アビス・ヘレン。慰めてあげる――
そして悪魔の晩餐が始まり、すぐに終わった。
人の理外に生きる証明である刻印が、また一つこの世に増えた。
これは神の許しの証だと、そう伝えられ、彼は悪魔に誑かされた。
漸く自らを省みる機会を得た愚かな英雄は、自覚もないまま、赤子の様に吸血鬼の餌となる。
アビス・ヘレンは堕落する。