Cartagra
セネカの首都、シュリ。
そこにある大聖堂の奥まったところにある、自分には使いみちが分からない部屋。
この建物の中でこれまで過ごした時間はさほど短いものでもなかったが……こんな所があったのかと、アビス・ヘレンはぼんやり思考する。
夜分の寒気が厳しい時間、ここには窓もないから見えないが、外はちらちらと雪が降っている事と思う。僅かに換気だけはなされているのか、微かな風の流れだけは感じる。
鍛えた肉体には負担にならないものの、その冷たさはやや居心地悪く、ここが自分にとって長居したい種類の場所ではない事を明らかにはしてくれている。
誰もいない、夜であればなおその寂しさを増すこの小さな部屋へと、使徒が第十二位である彼は『水銀の魔女』カイネ・メルクリウスに呼び出された。
部屋の中にあるのは、机と、向かい合って置かれた椅子、そして机の上に置かれたランプだけ。 薄黄色に揺らぐ明かりは、暖かく安心を与えるようでいながら、人の心の不安を照らし出すようでもあり。
要はここに来る者の気分次第、心持ち次第でこの場所の印象はいくらでもなんとでも変われようが、単純に狭く、見えるモノは風もなく明かりの所為で揺らぎ、勿体ぶった話をするにはあまりにも貧弱な場所であることに変わりはない。
僅かな時間、それこそ本当にちょっとした内緒話をする。それくらいにしか用途はない……と思う。
いかにも安っぽい……大聖堂に存在する事自体がそもそも不自然なこの部屋で、高貴と言われるあの魔女殿は、自分との対話を望んでいる。
「今日は……彼女は、何を話すつもりだろう」
――魔王討伐の日から、彼女に呼び出されるのは、これが二度目だった。
一度目は、ディアボロでの死闘から帰還した直後のこと。
ロットン・ガム――彼の事は、世話になっておきながらこう言うのは不義理を承知で言うが、神医という称号に相応しからぬあの剽軽な格好と態度がどうも苦手だ――その治療を受け目を覚ました自分は、その傷も癒え切らぬまま、あの水銀の魔女からの召喚を受けた。
そして聞いたのだ。
あの城の中で、マルハトカが……あの人狼の少女が何をしたか。何を、させられたのか。リリィ・スゥが面倒を見ていた、あの人懐っこい少女が、どうなったのかを。
バッカスから聞いていた話とは違っていた。
決して危険な目には合わせないと、直接ディアボロの者達とは関わらせぬと、彼はそう言っていたのではなかったか。
ただ人質として、こちらが侵入するに当たり、こちらの優位を見せつけるのみに扱うと、そう言っていた筈ではなかったのか。
……問い詰めたバッカス自身もが、驚きと憤りを露わにしていた。彼はその事実を知らなかった。それなら、誰の手によるものか。
……決まっている。あの魔女だ。
何故彼女を使った。何故に見殺しにしたのか。
思わずそう詰めよれば、彼女は淡々と、うっすらと口角を上げながら、子供を諭すようにこう言い放った。
『何故……? そう問うなら答えてあげるわ。この身は教えたがりだから』
『貴方達が心配だったからよ。貴方達だけでは、ディアボロの娘達の動きを拘束しきれるとは限らなかったからよ?』
『ええ、ええ、気の毒な事になってしまった。あの少女の犠牲を知ったリリィの嘆きが、今も耳に残っているわ。可哀想にねえ』
でも、と彼女は、言い訳をしているつもりはさらさらないと言いたげに続けた。
『役割分担は……重要ですわよね。貴方達は毒薬。あの少女は、それに先立つ送付状……封蝋付きのお手紙。二つ合わさって初めて、勇者と使徒は無傷で城内に入り込むことが出来たの』
『あの子の事、褒めてあげてくださいな。貴方は、あの人狼の少女のおかげで大義を成し遂げ、そして今もこうして生きて、私に食って掛かることも出来る』
そして最後にこちらを見やり、言うのだ。
『……で。貴方、誰に向かって、何を怒っているの?』
……お前の無能が、彼女を死なせたと。そう言わんばかり。
なのにその目には、軽蔑の色すらも浮かんでおらず、むしろ気遣わし気な温かみすら備えていて……ああ、この綺麗な女の人は、本当に理解の範疇の外にいる存在なのだと。
それが分かった。
「ディアボロの者達は、仲間を見捨てる事はなかったでしょう……魔王が殺されたとしても、たとえ彼女が我々の使者であっても、クリステラを倒したボクらならともかく……彼女が殺される事はなかったのでは!?」
……分かっているくせに。何で彼女が舌を噛んだか、心当たりがある癖に、言い縋った。
馬鹿だ。
自分でも分かる道理を、目の前の魔女が理解し得ない筈がないのに、それでも言葉に詰まる姿を求めて、自分は浅ましくも。
……そんなボクに、態々言葉を返してくれたのは、優しさか。
それとも哀れみか。
『……彼女は役割を果たした。そして、教団の内情を多少なり知っているあの娘がディアボロに残れば、貴方達が今後危険にさらされることになる。彼女はきちんと自分の事を理解していたわ。自分が、拷問はないとしても……尋問に耐えられるほど、懐柔に耐えられるほど、魔族達に情が残っていない訳ではない』
『自ら死ぬ必要性を理解した上で、自分から志願したのよ。貴方達の大義を果たす事が、自分の幸福だと。死ぬことなど惜しくはないと、そう言ってね』
自分は生まれて初めて、自分より上の地位にある目の前の女性を睨み付けた。胡散臭い女性だと思っていた。だけど、敵だと思ったことはない……。
「あの娘は、死ぬべきではなかった。死なせるべき存在ではなかったのに」
こちらの、……自分は何を伝えたかったんだろうか。ただ、その時に思った事だけが、そのままに口から飛び出した。
……揺らがぬ笑みだけが、答えだった。耐えられずに踵を返したが……そう、正直に言うなら、ボクはそこから逃げ出したんだ。
……他の人質は、無事だったと聞いたが、だからと言って手放しに喜べるわけでもない。他の魔族の子供たちは、リリィが皆連れ去ったと聞いた。
自分が彼らについて知っているのは、ただ、あの優しい目をした子供たちが、自分たちと同じ言葉で、リリィを純粋に慕っていた事実。
恐る恐るこちらに近づいてきて、ボクに危害を加えるつもりがないことが分かると、人間の子供のように無邪気にはしゃぎ、共に遊ぼうと誘ってくれた時の、その仕草。
……柔らかい、皮膚の温もりを伝える毛皮。
人と違う場所に生えた耳が、嬉し気に震える様子。
喜びを素直に表す、よく振られる尻尾。
人と変わらぬ、可愛い笑顔。
そんな彼らを、神が見捨てるというのは……考え難かった。
彼らは人と生きる事が、可能なんじゃないのか。
たとえ彼らの同族が自分の故郷を滅ぼしたと知っていても、それでも自分は、信じた。
そんな気持ちが芽生えたからこそ、魔王と……ナインを前にした時に、自分にあのセリフを吐かせた。
当時の扱いについては、詳しくは聞いていなかったが……どうも不穏な予感はあった。
今彼らはどこにいるものか。
それから暫くして、自分はサリーと共に彼女の母君と対面し……そして。
「……」
……サリアの大義とは、なんだろうか。
思い返せば、やはりカイネの言葉には矛盾がある。彼女は、あの人狼の少女には魔族に情が残っていると言っていた。ならば……自分が教わってきた魔族らの撲滅こそが大義、というのはおかしいのではないだろうか。それを聞いておきながら、自分たちに協力するというのは……やはりおかしい。
実際、リリィは、それを確信したからこそ教団を離れたはずだ。
おかしい。
何かが明らかにおかしい。
自分は言った。
断られこそしたものの、確かに、魔王に対し恭順を求めたと、正直に自分は報告したのだ。告白でも、懺悔でもあったのかもしれない。もしこの身が断罪されるのなら……サリーには何の咎もなく、自分のみに罰を与えるよう言い含めた上で。
それを耳にした者は顔を顰め、追っての処分を待てと、そう言った。
しかし処分など何もなかった。今に至るまで、ただの一つも、地位の剥奪どころか注意の一つもなかったのだ。
「……上層部は、一体何を考えている?」
自分には分からない。
魔族の絶滅を求めるのがサリアではなかったのか。
リリィの思想は、認められないのではなかったのか。
マルハトカは、何を聞かされ、自死を伴う使命を全うしたのか。聡い子だった。脅しを受けたでもなく、浅はかな甘言で動いたというのは少々考え難い。
……何故自分は、魔族の恭順を求めていながら、裏切り者として処分されていないのか。
どこかに矛盾がある。いや、その内容は明らかだ。
……思えば、前からおかしかった。魔族とは、人が作り出した生命だと、そう聞かされていた。
命を冒涜した行為とその証明が世に残り続ければ、いずれ同じ行いが繰り返されると、そう言い聞かされた。
……奴らは悪辣だ、残虐だと、故郷を滅ぼされた自分は、生まれながらの罪人である彼らを殺せと、その言葉を考え無しに受け入れた……。そう、考え無しにだ。少なくとも、自分と触れ合った子供達は、断じて邪悪な存在では……。
矛盾はここにある。
彼らを殺す事に、利益はある。彼らは現状、人間の敵だ。
だけど、絶滅させる必然性は……? これでも世間を広く回った身だ、魔族らが人間に由来するなど、そんな事を言っている者は一人もいなかった。サリアだけだ。サリアの中枢だけがそれを把握している。他に誰も知らない。
……サリアの残した情報は真実なのか?
聖典にすら、そんな事は書いていない。
自分が聞かされた、旧世界の人間の罪とやらは、真実なのか?
魔族を絶滅させる事が、サリアの本当の目的なのか?
なら、それを阻もうとした自分が罰せられないのは、おかしくはないか?
それとも、自分如きの言動にはそれほどの力はないと、侮られてのことか?
それとも。
「待たせてしまいましたわね。こんばんは、アビス・ヘレン」
……不意に思考が途切れる。相変わらず冷たく、鋭く、なのに甘い声。
猛毒の声を持つ女性だと、初対面の時から思っていた。
「……立礼にて。失礼を」
「構わないわ。狭いものね、ここ」
コツコツとヒールの立てる音が、自分の前、横、そして後ろまで響く。
部屋の奥にまで進んだ彼女に向かい合おうと体ごと振り向く直前、それを留めるように彼女は口を開いた。
「何か考え事でも? 怖い顔をしていたわ。夜中に、女の誘いを受けておきながら」
「御冗談を」
くつくつ笑う彼女。あのような言葉を言われては、こちらの表情を見せる事がどうも憚られて、結局背中を向けたままとなってしまった。
無礼であっても、彼女は怒りはしないだろう。
態々あんな事を言った以上、自分のこのような考えを思いはかっているだろうから。
彼女は、悪魔的だ。自分の考えなど、全て見透かされているに違いない。
「早速本題に……と言いたいところだけど。気になるわ。さっき何を考えていたのか聞かせてくださるかしら」
「……サリアの」
「ええ、サリアの?」
「大義とは、如何なるものであるかを」
「それは、どちらの?」
……どちらの?
「私のものか。老人のものか。どちらを聞いていらっしゃるの、坊や?」
「……何を」
彼女は、何を言っているのか。
人の世にあって、人の言葉で示された神の意思とは何かを問うているのに。
神意が、二枚舌であってたまるものか。どちらのとはなんだ、それのみで不敬な物言いでは。
……私とは貴女の事か、カイネ・メルクリウス。
老人とは、一体誰を指している。
……貴様、まさか神を騙るか。
「ああ……貴方は勇者のお守りですものね。なら、老人の意に従うべきでしょうか。そうなれば、私としては、少々寂しい」
「何を……仰っているんです……?」
「……貴方は、バッカス・ドランクスに拾われたのでしたね。なるほど、では……前代の派閥の者から教育を受けた、と。なるほど」
わざとらしく、きっと相変わらずの笑顔で、いくつか頷いているに違いない。
こちらには、何一つ意が伝わっていないというのに、何がなるほどだ。
「魔族を滅ぼせと、ボクはそれこそが、神の御意思と」
「あら、剣呑な事を。古いわ。若いくせに」
「……は?」
「それは前代までの法王の意思。あるいは、老人の。あるいは、お隣の。いずれにせよ、神の御意志? ……まさか。それこそ冗談が過ぎる」
含んだようにそう言って、くふ、と彼女は笑う。
……彼女の言っている意味が、飲み込めない。理解が出来ない。
「……都合が良かったのかしら。酷な事をする。まあ、そういうのがいてもいいのかも」
「ふざけるな! 何を言っているんだ貴女は!」
「あらあら……困りましたわ。激昂された殿方と二人きり。私、心の準備ができておりません」
ふざけるなと言われ、なおその態度か。いい加減にしてくれ。
俯いて思わず拳を握り締めると、彼女はこちらの背中を、軽く指で突いてきた。
「必要だったのよ、貴方みたいな者も。魔族が恐れる代名詞というものも。無礼者のバッカス・ドランクスもそう、第九位の『先生』もそう。貴方もそう。例外はムー・ザナドだけ。だからそのまま、古い思想の者は捨て置かれていた。舞台装置として」
――昔はね。そういうのが求められて、そして事実必要だった。その思想には、まだまだ需要があった。
――でも、クリステラが生まれた。ヴァーラ・デトラの正当な後継者が現れた。だから時間切れ。現れた事実があるのだから、その流れももうお仕舞いにしていいのよ、別に。
――今代の法王はね。彼は、別に魔族の生死に拘ってなんかいませんわ。どうでもいいと……そう考えておられますの。
――彼の望みは、もっと別の、高い所にある。人を救うために何が必要かを、いつも考えていらっしゃるの。
――そして、それは私の望みと通じるところにある。だから私、彼のお手伝いをしているの。
「このお話は、これで終わり……思ったよりつまらないことで悩んでいるのね、貴方。どちら以前の問題ではないですか」
「待って、待ってください。まだ何も」
何も分からない。
聞きたいことが聞けていない。
「古い講釈に付き合っても、面白いことなど何もないわ。羨ましいことに貴方、まだまだ若いのだから、先の事を考えればいいのよ」
「……魔族、を、滅さねば……平和は訪れないと……」
「魔族の教えは、その逆ね。野蛮な事……古臭い事。聞いていると耳に黴が生えてしまいますわ」
「……平和は……僕は……今まで、何を……」
「別に今後の仕事に変わりはありません。危険な魔族や魔物がいれば、行って滅ぼせば良い。目の前の人間達を、守り続ければいい。そして守りたい者の中に人外が含まれたとて、私は別に咎めはしません……続きが聞きたければ、また今度にして頂戴。つまらない話が続くと私、眠くなってしまいます」
……魔女狩りの歴史を持つ教団において、魔女を自称するこの女性は、何者なんだろうか。何を何処まで知っていて、何を考え、何を目論んでいるのか。
神の御意志は……教団の頂点が代替わりするだけで変わるほど、そんな、安っぽいものであっていいはずがない。
リリィもか。彼女もなのか。彼女も、こんなうつろわしい思想に左右されて、そしてここを出て行ったのか。
……ははは。正解。正解だったんじゃないか? それは正しい判断だったんじゃないか?
僅か二回だ。彼女と二人きりで話したのは。
なのに、彼女の話を聞く度に、ボクは、自分の正義の根元を削られていく気がする。
――ねえ、そろそろこっちを向いて頂戴? 折角のこんな良い夜よ。もっと面白い話をしましょう?
そう言って、彼女は笑った。
こちらが、どれだけ今の話で心を疲弊させているのかを気にかける事もなく。