出発
さてさて、去り行く中年の背中が段々と小さくなっていき、視界から外れるのを見送れば、頭によぎるはこれからの事。
やるべき事は既に与えられている。彼との出会いで、こんな僕にも人生における目先の目標が出来たのである。
僕はまず、真人間になるべきなのだ。いつまでもプータローではいられないのだ。
地に足をつけ、生きていく。その術を得る。そして自分がどういう人間であったのか、これからどうあるべきなのかを探し、見つけて、考えていく。
これだ。うん、僕がなすべきはこれだろう。
成程、この人生目標、耳障りも悪くない、建設的でもある。素晴らしい。
理想というのはかくあるべきだ。
そして、その第一歩として、まずはこの世界がどうなっているのかをこの目で見ていかねばならない。巡礼者、成程いいじゃないか。不審者からは随分と前進している。
何せおっさん曰く、僕ってばいい歳こいてそこらの子供よりもモノを知らないらしいのだ。これはいけない。みっともない。学びとは大事な事だ、僕はこれから真っ当に生きていくに当たり、学ぶべき事が多々あるのだ。
なに、この身分なら働き場所も見つかりやすかろうさね、方々で炊き出しの手伝いとかをしつつつまみ食いなどもちょちょいとしつつ、うん、悪くない。町々でグルメツアーも悪くない。
……猫の手にもならないほどに僕が働く能がなければ、相も変わらずお恵みにあずかって生きていくしかないが、そこはそれ、実際にやってみないと分からないので今は考えない。
さてさてしかも、僕の旅先と人生の道先案内人は女性ときた。なおさら悪くない。
よくよく考えればここ最近の記憶は髭面ばかりで占められてしまっている。
色気のある話が舞い込んでくるとなれば、思わずこう、浮かれてしまうのもむべなるかな。
僕は悪くない。
……思考が逸れてきたので、改めて。
「身支度っていってもね」
この町を出る準備と言っても、所帯もない僕には何をすべきか今一つ思いつかない。
精々が挨拶回りくらいだろうか。
とはいえしかし、僕のような社会不適合者が顔を見せるのは、それだけで相手の迷惑になりそうだ。そもそも知り合いもほとんどいない。物乞い仲間は入れ替わりが激しいし、なんか憐れみを受けやすかったらしい僕は、結果お恵みを頂戴する機会もそこそこあり、結果として縄張り意識の強い彼らには疎まれてもいた。
お互いに嫌な顔をして終わりそうだ。やめておこう。
……後は、精々。
「ドレス、ボロボロになっちゃったけど……このまま返すのもなあ」
黙ってお金だけ置いていくのも不義理だよねえ、それに正体不明のお金の怖さは重々理解している。
であるなら……とそこまで考え、ため息が出る。その怖いお金で僕は償おうというのだから、不誠実にもほどがある。
目線を寝床の方にやれば、あのちびっこ姉弟のおっきい方に借りたドレスがきちんとたたんで置いてある。
酔っ払いながらも借りものを大事にしているこの精神、我ながら育ちの良さを感じさせる。
きっと躾の良い親元で育てていただいたのであろう。
現状を省みれば、我が身が尚更情けない。
ごめんなさい、顔も知らぬお父さんお母さん。明日から本気出すから。
嘘です、今日から頑張ります。
そんな思考の逃避も最早限界。
どうやって返そう、いや、どんな顔してご挨拶に行けばいいだろう、菓子折りの一つでも買っていくか、いや、この懐のお金は満額お渡しするべきだ、何せ僕は今腹ペコである、食べ物なんか買ったら絶対つまんじゃう。
自分ほど信用できないものもそうそうありはしない……。
あー、うー、あー。
「よし」
決意の言葉一つ、僕は先行き見通せぬまま、取りあえず土下座のイメージトレーニングだけは怠らぬようにしつつあの姉弟の家に向かって歩いて行った。
なに、なんとかなるだろう。なせばなるのだ。
案ずるより産むがやすし。
男の僕は子を産む機会もない、流石に産むより辛いことなど起こりえまい、大丈夫大丈夫、僕なら出来る、意外と世間はチョロイもんさ……。
◇ ◇ ◇
結論を言うならば、足元を見ずに歩く者がどうなるか僕は昨夜学んだはずなのに、全く活かせていなかったという話だ。
あのドレスを受け取る際は、丁度入れるのに良い袋がなかったとのことなので、頭目の家に行く前に宅の前でこっそり、まるでそれこそ密売をするかのように引き渡されたのだ。
ちびっこが身の丈に合わない服を持ち歩いていれば不信に思われようし、夜中に子供を出歩かせるのはまったく論外であるので、仕方がないと言えば仕方がない。時間もなかったし。
ともあれそういう次第であったから、お宅の場所は知っていたのでふらふらと出向き、素直にドアをトントンノックし、出てきた奥様の顔を拝見し。
そしてその顔は、はじめよそ行きの母親の顔から、段々何か汚いものを見たようなものに変わっていき、そしてこちらの格好に目を止めて海から山羊が這いだしてきたのを見たような顔に変わった。
成程奥様、この白髪頭に見覚えがあるようで。ええ、ええ、お見込みのとおり。
そこな公園を根城にしておりました物乞いでございます。
今はこんなナリですが、ご安心ください。
中身はさして変わりゃしません。相変わらずの空っぽ頭です。
人に頼って生きる身分です。なんなら托鉢で食っていく所存です。
そこは据え置きです。
……お嬢ちゃんが出て来てくれればありがたかったが、穏当な返却……『はい、ありがとう。お返しします』……それが出来る前提は既に崩れている。
綺麗なまま、傷一つつけずにお返し出来たならそれでよかろう。しかしこの度は生憎そうではなかった。そうではなかったのだ。奥様の一張羅は、ボロボロの襤褸切れになってしまったのである。
いずれにせよ、僕は勇気を出して、珍妙なものを見る目付きの奥様に対して納得の行く説明をしなければならない。
相手の精神衛生の為にも、手早く要件を済ませようと僕は口を開いて何事か告げた。
いや、告げようとした瞬間、思いとどまった。
僕は何を言おうというのか。こんな感じか。
『落とし物ですよ』
落とさねえよなあ。
じゃあなんだ、こんな感じか。
『こちら、お宅のお嬢様からお預かりいたしました。実はこの度、なんとも身分に釣り合わぬパーティーにお呼ばれをされるってな奇異なる稀有なる機会にあずかったものでしてね、ところがほれ、このとおり財産の無い生き方をしてきてしまっていたもので、着ていくものがありませんでねえ。はて、ご招待くださいました方の面目を潰すことも出来ぬと弱り果てていたところを、そちらご立派な、ええ、お子さんは大変賢そうに育ってらっしゃる、教育が良かったのでしょう……いえいえ世辞でなく、はい、話が逸れまして、まあともあれお嬢様とご縁がありましてね、あたしに任せろと言ってくんなすったもので、お任せしたところまさかまさかの、はい。奥方のこの立派なお召し物をね。ああ、どうかあの子をお叱りにならないでください。あっしが全部いけない。叱ってはいけない。何せしかし、他に頼る術も時間もなくってね、ええ、ええ、肌触りが気に入りました。昨夜はね、楽しい時間を過ごせました……そうですそうです、奥様のご察しのとおりです。着ていったんですよコイツをね、今は昔のこのドレス』
流石に無理がある。
百歩譲って僕が女だったとしても、自警団かなんかを呼ばれる案件だ。
千歩譲っても、僕が男である以上はまったく事情を斟酌する余地がない。牢屋行きだ。
真人間になる第一歩が罪の償いであるのは確かかもしれないが、しかしいくらなんでも牢屋からのスタートはいただけない。
折角はからってもらえた案内人を待ちぼうけにさせるというのは許されまい。
鳥が視界の端から端まで飛ぶ程度の時間は待ってくれるかもしれないが、社会的に罪を償い終わるまでは待っちゃくれないだろう。
そんな事になれば、あれだけ面倒を見てくれたバッカスさんをいきなり失望させる結果となる。
それは僕としては望ましくない。できればここは許していただける方向に持っていきたい。
……このドレスを借りたのは自分なりに事情があっての事だが、流石に昨夜の事情を話すことも出来ない。しかもお嬢ちゃんが叱られてしまうような事があっては可哀想だ。
さて、何かいい名目はないだろうか。
……前半は悪くないかもしれない。
今の僕は司祭服だ、幸いにも教団の方に取り立てられる機会がありまして、なんて感じにしてみればどうだろう。
『まったく奇縁でございました。門前の丁稚ではありませんが、偶さか聖典の一節を唱えてみましたところこのようなね、ご覧の通りの身分を授かりまして。ところが洗礼に係る式には見栄えの良い女を連れてこねばいけないと、きついお達しがありました。ええ、とんでもない所です教団ってのは。禁欲を謳っている組織の方々ってのはやっぱりどこか歪んでおられますねえ。まあやれ仕方あるまい、世知辛いが仕方あんめえとね。ですがね、手前ごときで捕まえられる女性ってのも、まあ猿にちょっとおめかしをしてやったくらいのもんですが、せめて見栄えのいいおべべでも着せてやろうって心遣い、いや甲斐性くらいはみせてやらねえと。そう思った次第でね、そこでお宅のお嬢様をね、騙くらかしてね、おめえの母ちゃんの綺麗なヒラヒラを持って来いと、ええ、脅しつけてやりました。どうかあの娘を怒らないでやってくださいね。あっしが全部悪いんで。御覧なさい、お蔭で昨晩は燃えに燃えて、ただの猿が毛の抜けた猿程度には見れるようになりましてね、ほれここに残る赤い痕、そうですとも、血が出ちまうまで頑張りました』
論外だ。
……変にこねくり回すから駄目なんだ。もうちょっとシンプルな内容にせねば。
『昨夜こっそりね、駄目ですよ奥様、あの手の鍵は開けやすいんです。そう、忍び込んだって寸法です。奥様のおべべを拝借しやして、これこのとおりボロボロの有様でござい。へへ、久方ぶりなもんで興奮しちまって、なに、洗濯は済ませておりまさあ、安心してお使いくださいどうぞ。まあ外に出るにはちと刺激的かもしれませんが、そこなお目にかかれる男どもは眼福でさあ、ほれ奥様、まずはあっしにそれをお召しになった艶姿を一つ見せちゃくれやせんかねえ……』
これはいけない。シンプルと言うか、単純にまずい。
というか、なんでこんなにゲスい話しぶりがパッと出てくるかな。
ああ、もう。どうしようどうしよう。あの娘を話に関わらせるのはどうにもまずい……。
「あの。ウチに何か御用でしょうか」
「これ、盗みました。ごめんなさい」
……結局口をついて出たのはそんな言葉で、僕は深々頭を下げた。
◇ ◇ ◇
姉弟の母君は、ご近所さんなだけあって何度かお見かけしていた人だったが、だからといって向こうはこちらの顔など覚えてもいないだろうし、右や左の旦那様、と道行く人々にお恵みを授かろうと頭を下げていた僕の事など覚えていたくもなかったことだろう。
つまりはそんな相手に対して、遠慮などがある筈もなく。
……申し訳ない事をした。悪いのは僕であり、かの母君にあんな口汚い罵り言葉を言わせたのも僕である。
これで手打ちにしてください、とお金を全部差し出して必死に謝り、なんとか牢屋行きは免れた。
しょんぼりしながら踵を返すと、丁度あの姉弟が家に戻る最中の様子。
ぱっと花開いた様な笑顔を二人揃って見せてくれたが、こちらを警戒しての事だろう、とぼとぼ歩く僕を追い抜いた母君はその二人の手を引き、足早に家に戻っていく。
心配げにこちらを振り返る二人に対して、母君は全く常識的な対応をした。
曰く、「関わっちゃいけません、ああいうのには」「すぐ街を出るっていうから堪忍してあげたけど、ろくなもんじゃないわ……」
……何か察した様子のお姉ちゃんの方は、口をパクパクさせていた。
僕は、ただ、自分の口元に人差し指を当てて、それを見た少女は結局、パクパクした口から言葉を発さないでいてくれた。
弟君の方は、僕が街からいなくなる、と聞いた瞬間、クリッとした目をパチパチさせて、潤ませていた。
「さよなら。元気でね」
聞こえない程度の声で、そっと呟いて、背中を向けた。
視界から二人が消える寸前。胸の前で、二人ともがゆるゆると手を振ってくれていた。
お返しにこちらは、垂らした指先を僅かにひらひら。
……君らが無事でいてくれたお蔭で。
今、君らがお母さんと手を繋いでいるのを見せてくれたお蔭で。
ここにはいない、あの屋敷に閉じ込められていた子供たちが、君らとおんなじように家族の所にいるって想像してみるだけで。
自分がちゃんと成長すれば、もしかしたら、誰かを助けられるような人になれるのかもしれないって考えるだけで。
ちょっとだけ、頑張ってみようかなって思えたんだ。
だから、二人とも。ありがとうね。
ばいばい。
◇ ◇ ◇
不愛想な教団の人に連れられて、僕はほんとに簡単に、街の外に出られた。
話しかけても何も返事をしてくれないその人は、不意に街道脇にある小屋を指さし、そのまま身じろぎ一つせずこちらを感情の無い目で見つめてくる。
行け、という意味なんだろう。つまり、案内人さんはあそこで待っているという事だ。
頭を軽く下げてみたが、全くの無反応のまま。
一言も口を利いてくれなかった彼は、きっと職業意識が高い人なんだろう、職務に忠実なだけなんだ、と思っておくことにする。
……へんだ、いいやい。
案内人さんは、あんなにつまんない人じゃないといいなあ。
そう思いながら、僕は小屋の扉を開いた。
……中には何もない。休憩所だと思うのだが、ここにはほんとに何もなかった。
ただ床敷きが敷いてあるだけのその小屋の中、隅に居たらしい誰かが、こう声を掛けてきた。
「廃人が。恥ずかしげもなく、まだ生きていたか」
それが、案内人さんの第一声であった。