aLice IN (uncer) wonDERlAnd 2
「……あれ」
城内の廊下を抜けてナインの元いた部屋、というか地下牢に向かう途中、私は中庭に立つ一本の木に目を留めた。
……既に枯れかけている。人間共がこの城を占拠していたとき、この桜に何をしてやったものだろう。
何もしなかったのだ。
……城内の中央付近に区画されたこの場所に日差しが入るよう、城を設計する段階でそれなりの苦労が払われた筈だ。
昔、ここに城を建てるときに、そういう事を気にしていた人たちがいたのだ。
それはきっと初代の陛下であって、その配下であって。今よりなお生存が厳しかったときに、草も生えないと言われていたこの地に、元々は今以上に人間から迫害されていた先祖達の防衛拠点でもあったこの場所に。
……ただ日々の飢えから、争いから生き延びるだけではなく、豊かで幸福な生活を夢見た先人達。
パンノキのような実利的なものではなく、春の数日間だけ目を楽しませるだけのものがここに植わっているという事は、彼らが追い続けていた夢の残滓が、一時は確かに実っていたと、そういう事で。
……丁寧に世話をしていた者らは、この元気を失った木の様子を見て嘆いていた。あいつらには分からんと、そう呟いていた。肥沃な土地に住まう奴らには、ここでこんだけ育ってくれたコイツに対する俺らの気持ちは分かんねえ、と。
私も、別にそんなに植物に対する思い入れはない。アロマ様はご自身で花壇の世話される事もあったけれど、その役目を私に任せる事はなかったし。
……あの方は、私が園芸に興味を持っていなかった事を察してくれていたのかもしれない。
だけど、今こんな状況になってしまえば、見る目も少し変わる。城が落ち、取り戻したとはいえ、変わってしまった事は沢山ある。死んだ者も、当然いた。
失ってしまったものの大きさは、人によって違う。
園丁にとってのこの木は、失ってすぐにそれと知れる、大事なもののひとつであった。つまりはそういう事だろう。……まだ彼らはこの大きくも小さくもない樹木を生き返らせる事に、力を尽くしている。
ここだけではない。城の周辺にも落葉樹、常緑樹、いずれも育てられている。育っているのだ、この貧しいアグスタの地でも。
生命の緑にあふれた様子にしよう、あるいは春の訪れを教えてくれるものを育てよう、我々が過ごすにあたり、相応しくあれと望み、彼らは己の仕事を尽くしている。
何度も植え、何度も枯れ、ようやく育ってくれたこの子達の未来を諦めてはいない。
「…………」
つまらない事を考えた。
どうでもいい。
最近は、周りには、私が無気力であるように見えるらしい。
そんなつもりはないのだけれど。
ただ、確かに空虚さを感じている。そんな考えが顔に出ているのだろうか。
……私が失ったものについては、彼らと比べる必要も、必然性もない。
それでも、彼らと共通する部分はある。だが、必死さという点においては、譲るつもりは全くない。
私には、諦めるという選択肢が端からない。
可能性がゼロだと言われても、私は。
◇ ◇ ◇
私は今日も彼の部屋を掃除する。鉄格子のはまった冷たい石床を、箒で掃く。
石の継ぎ目に沿って、丁寧に。……こんな事をしていられるのは、私が陛下の病状を知っているから。
陛下の面倒を見る事が出来るのは限られた者のみ。
だから今までのように諜報員として外の仕事に出される事はなく、かといって四六時中陛下の傍にいる事はご負担になるから……必要のあるときにあの方の元でお世話をして、必要がなければ……ないなりに。時間を潰していられる。
……ふと、部屋の隅の髑髏、彼がウィルソンと名付けて遊んでいたそれを見やる。
頭蓋の空間、そこには私が彼にあげたものが収まっている。
ふと手が伸びる。角張った手触りのそれは、未開封のカードだった。
彼がディアボロに広めたのは、悪い遊び。
面白半分に笑いながら、それでも彼は命を賭けて、陛下達に、そしてアロマ様に博打を打った。
他の人に聞かれないよう。アロマ様と、込み入った話をするためだけに。
『アロマさんと二人っきりになれる機会がほしいんです。お茶会をするように落ち着いて、安全にね。今のままじゃ、絶対彼女は応じてくれませんし』
『こんなまだるっこしい事してでもね、是非とも一度腹を割って話を聞いてみたい。……ええ、してみたい、ではないです。僕の話なんて聞かせても面白かぁない』
『……これからやる事は博打みたいなもんです。多分、成功率は低い。なんとなれば、アロマさんは僕の首を飛ばすかも知れません』
『だから遊び半分なくらいで丁度いい。僕の首にはそんぐらいが相応しいでしょうし。必要な手を打つのが博打なら、博打を契機とするのは洒落が効いていて悪くない……え? 面白くない?』
『……なんにせよ、彼女の罪悪感をさらけ出してあげたいんですよ僕ぁ。ねえアリスさん、貴女も納得した筈でしょう? 僕が彼女を愛する事に』
愛する。彼が言うそれは、おぞましい。私達の言う愛と、彼の言う愛は、違う。
……私は、彼の計画に正直乗り気ではなかった。アロマ様を裏切るのは、辛かった。
あの方を、私の悪魔に捧げるのは苦痛だった。
私はかつて、アロマ様の目だった。
だけどアロマ様から見た彼がどのようなものに見えるのか、知ってみたくもあった。私と同じように見えるのか、それとも。
……自分はもうあの時から彼の目でもあり、彼から見たアロマ様はどんな存在かを知ってみたくもあった。彼の言うアロマ様の『罪悪感』が、どんなものに由来しているのかを知りたかった。
ただの妄言とは思えなかった。
だって彼には、私達とは違うものが見えている。私の幻術も効かない……そういう意味に限らず、だ。
彼はきっと、いつもこの世から離れたどこかを覗いている。
そうして得たであろうあの暗い闇夜の目で、人間を、私達を、世界を見ている。
……余人の目の届かぬ場所で、私達のように、あの魔人の目にさらされたアロマ様がどうなるのか。
知らない方が良い事もあると知った。あの時、ピュリアは早々に追い出され、だけど私はこっそりと扉の外から彼らの話を聞いていた。きっと彼は、それを許した。
許さなかったのは、蛇の方だ。
――聞こえてきたのは、アロマ様の秘められた出自。
アロマ様の罪。
アロマ様の望んでいたもの。
アロマ様が陛下に感じておられたもの。
彼が、手をたたく音。
……アロマ様が『こっち側』に落ちたその瞬間の。悲鳴のような、父を呼び、すがる声。
……前は、彼の言う『愛する』という意味が分からなかった。
今は、ちょっとだけ分かる。私だけ、他の人には分からなくても、私だけには分かる。
「……不義理な子よね」
悩んだあげく、協力する事にした私が用意してあげたイカサマのカードは、結局封を切られることがなかった。
彼は真っ当にギャンブルが得意だった。やっぱり碌な男じゃない。
使われる事のなかったそれは、彼の地下の寝床にこうして、今もそっと置かれたままだった。
捨てるでもなく、突っ返すわけでもなく。あの子は貧乏性。
……いえ、小心者。私に向かって、『必要ない。返す』の一言が言えなかっただけ。
「言ってもよかったのに。別に傷つかないわよその位で。そっちの方が、まだ誠実に見えるのに。そういう風にしてくれた方がまだ、アンタが何を考えてるか、考えてたか、分かりやすかったのに」
……彼がいなくなってから、彼がここで過ごした以上の時が過ぎている。
暗い地下から、外に出てみれば、時刻は昼過ぎ。
雪は、僅かに溶けている。今日の日和は悪くない。
心に陰りが残ったままでも、そ知らぬ風にお天道様は昇って落ちる。優しくも酷薄。私たちの営みも心の機微も、天上は気にかけない。
いつだってそんなもの。
「……そう言えばあの子は春の生まれだっけ」
長い冬。まだまだ寒い日が続く。
……それが過ぎれば、季節が変わる。
ナインがいないディアボロに、また春が来る。