旅支度2
「おっさんはどこにいんのかな」
さて、いちにのさんし、と体を伸ばし、温めながら考える。
この公園にいるのは知ってるかもしんないけど、いつ何時にいらしてくださるもんじゃろか。
何、無職である以上時間に拘束される身分でもない。今までどおり、子供と戯れながら待ってようかな……と思ったところ、件の髭はやって来た。
「よお、起きてたか」
「おはようです。昨日はお疲れさまでした」
「おう。裸踊りは楽しかったか?」
「二度とその話題は口に出さないでください」
「うっせえ馬鹿。下のモンに服まで取りに行かせてよ、着せるように指示してやったのは俺様だぞ。人が便所行ってる間にふらっと消えやがって、一瞬冷や汗かいたぜ」
「ほーさよけ。ようやったようやった、あんがとさん」
「お前な……」
「だって覚えてないんですもん。僕が酒に弱いって知ってるくせに、あんだけ飲ませたのはアンタでしょう。むしろお恨みいたしますぜ。あんなのはもう二度と御免です」
こちらの言葉に眉根を寄せながら、後ろに向かっておっさんはひらひらと手を振った。
それを受けてか、遠目に誰かが公園から出ていく様子が見える。
……見張られてたのか。まあ、おっさんの言う事が本当ならしょうがない。
彼曰く死生の善悪定め難き不審者が、面倒見てやると言われておきながら酔っ払ったまま姿を消せば、そりゃあ気にもするだろう。
服まで貰っておいて不義理かも知らんけど、昨日の醜態の半分はこのおっさんに責がある。
僕は謝らない。神様とやらに感謝は済ませたんだ、このおっさんの立場からすればそれで十分でありましょうや。
ねえ、聖職者様。
「……準備な、済ませとけ。思ったより早く例の件の手配が進んでな……明日の朝にゃ出発だ」
「おや、お早い事」
わりかし真面目な話が始まったので、こちらも背筋を正して臨む。
昨日の事だ。まだ僕の頭が正常に動いている間の話。
彼からの「案内人を一人つけてやるから、暫くはソイツと一緒に行動しろ」というありがたい申し出を受ける事にした僕は、ねぐらに帰ってからすぐに旅支度に取り掛かり、五秒で支度を終える事を約束した。
いやそこまでは言わん、と言われ、左様で、と返した。
そしておっさんは、僕に延々と酒を飲ませた。
散々酔っ払った結果、五秒で、との約束は守られなかったが、反故にしたのは彼からであり、そして彼自身が元からその必要性を認めなかったので無効である。
僕は嘘つきにはなりたくなかったので、この結果は助かる。
……これだけ早くに話を進めたのは、僕の都合であった。
善は急げやれ急げ。というか時間を置くと気持ちが冷めてビビリの虫が顔を出して、結局この街にずるずる居続けちゃう、なんて思った自分は、「いや、そんなに急かすつもりはないが」というおっさんの言葉もなんのその。先の案内人の話に飛びついた。
「いやもう、本当にありがとうございます」
「急に真面目な顔で言うなよ、調子狂うな」
「心からの感謝には、そういうのも必要でしょ?」
「お前がやると、なんかいちいち胡散臭ぇんだ」
「……それもやっぱり」
「言われたことがある気がする、か? ……折角の巡礼の機会だ、おいおい思い出していけよ。自分を見つめ返すっつーのは、その本義にも沿ってる」
そう、一応僕の身分は巡礼者と言う事になるらしい。
旅程としては、ここフォルクスの首都からは逆方向……北東にあるセネカの方角に向かって進んでいくとの事。
ホールズに存在する国についてはなんとか覚えてはいたものの、なんで態々国を跨ぐ方に進むのか聞いたところ、フォルクスとセネカはあんまり仲がよろしくないらしく、またサリア教団の本拠地はセネカであるため、そちらに向かう方が便宜が図りやすいとの事で。
僕なんかの為に色々考えてくれるもんだね、考え無しっぽい顔して。
そう言ったら殴られた。
「痛いよう……歯ぁ折れてないこれ? 大丈夫? 顎がガクガクするんだけど」
「気難しい奴だからな。あんまり案内人にはそういう事言うなよ」
「無視かよ」
「年上に対する礼儀を教えてやっただけだ。むしろ感謝しやがれ」
「殴られて感謝って。僕、マゾじゃないし……同性愛者でもないし……」
「……ほんとに、そういう事言うなよ? フリじゃねえぞ、冗談の通じねえ奴だからな。……後、一つ朗報がある」
「なんです?」
「案内人はな、女だ。手なんか出すなよ、俺らは曲がりなりにも聖職者だからな。ま、ちとトウがたっちゃいるが」
「女性! そりゃあいい! 助かった!」
「お、なんだこいつめ、このエロ小僧が、いきなり顔色かえやがったな?」
「いやだってほら、そりゃ女性の方が良いですよ。例えば貴方みたいなのと二人旅してごらんなさいよ。間違いなく、そりゃもう他の人から見たらそういう趣味だと誤解を受けて……」
「いやもういい、言わなくていい。ってか黙れ。お前と関わってこっち、そんな話ばっかしてる気がすんだよ」
――男の戯言にバッカスは付き合ってはいるが、無論、そういう意図で案内人を選定した訳ではない。
知己であり、信用でき、そして腕も立ち、すぐこちらに向かえる者……そんな都合の良い人選が出来るものかとバッカスも自信がなかったが、偶々近くに賊退治で派遣されていた戦闘班の中に丁度いい人材がいたのだ。
……本来なら、少なくとも当分は自分がコイツについていたかったが、今日の朝一番に教会で気になる情報を耳にしたこともあり、そしてそれが聞き逃せない内容であったから止むを得ない。
カイネは現在セネカにいる筈だ。いくらアイツでもこれだけ早く動けば対応も出来まい。
……カイネ様は同時に大陸の端と端で目撃された事がある、あの方はありとあらゆるところに常在できるのだ、流石はカイネ様、奇跡の顕現もお手の物か……なんぞ眉唾物の噂もあったが、いくらなんでも冗談だろう。狐狸に騙された馬鹿共の与太話だ。
そんな真似ができる奴が居るはず……。
(ニーニーナ嬢がいたな、そういや。あいつのギフトの詳細はイマイチ分からんままだったな。ただの瞬間移動でもねえみてえだし……いや、それだけでも十分なんだが)
こんなもん可能性に入れてたらキリがねえ。
アイツも疑わしいが、アイツ自身はカイネに気に入られてる割に、嫌ってる感じがしたし……考えても詮無い事だ。そもそも何よりにして、奴はこれから捕まえに行く相手そのものなのだ。上手い事確保出来れば、いくらでも問い質せばいい。
鷹揚なあの女の事だ、対応を間違えなければ、即座に逃げられるなんて事もないだろう。なんならカイネについて自分よりは詳しいだろうし、そちらについても情報が得られれば僥倖。
……どのみち、早く動くに越したことはない。
そう考えれば、コイツが早く街を出たいってのは渡りに船だったのかもな、と、そんな判断もあった。
バッカスは一つ首を鳴らし、空を見上げる。
雲一つない快晴、気持ちのいい朝日が目の端に映った。
「さて。そんじゃ、俺はここでお別れだ」
「へ? なんか急ぎのお仕事でもあるので?」
「ああ、ちっとな。探してる奴がいたんだが……ソイツの情報が入ったんだ。掴みどころのねえ奴でな、取り逃がしちまうと面倒だからよ」
「あらぁー……じゃあ、バッカスさん」
「あん?」
……そういえば、こいつにはあまり名前を呼ばれなかったな。ここに来て一体なんだ、と思って見てみれば、先ほどのワザとらしい真面目顔ではなく、心配そうな表情が浮かんでいた。
「お気をつけて。お酒、飲み過ぎないように。あと……」
「……ばーか。百年早ぇよ」
「年寄りを心配して何が悪いんですか」
「うっせ。年寄り扱いすんなっつったろ。生意気言いやがって、俺様に腕相撲で勝ってから言えってんだ」
こほん、とわざとらしい咳込み一つ。
男はこちらを、真剣な顔で、隻眼で見つめ、再度口を開く。
「……バッカスさん。本当に、色々お世話になりました」
「おう。借りは返せよ。貸し借りにゃ利子ってのも付くんだ、覚えとけよ」
――じゃあなクリス。お前にも神の御加護がありますように、だ。
そう言って、ひらひらと手を振って、振り返りもせずにバッカスは公園を離れていった。
じっと背中に突き刺さり続ける視線は、角を曲がって漸く切れた。
(こっちもお前にゃ借りがあるんだよ。聖職者である以上は)
……ただ子供の無事を想い、そして実際に行動する。
そんな当たり前の事を、アイツは当たり前に行った。
あの男の行いは、神の国に最も近しくあるものだ。
自らの手が届かない部分を、補われた。この世で神が救えない者を、お前は救った。
……たとえ助ける力があっても、助けるべき者がそばにいなければ救えない。
自分の無能の、ケツを拭ってもらったんだ。少なくとも俺はそう考えている。
――本当に。本当に……奴の事を、どうか、神さんよ。見ててやってくれよ。
アイツは、子供が笑っていればそれで良いっていうような、飛び切りの馬鹿なんだ。
どうか神よ、クリスを……あの小僧を見捨てねえでいてやってくれ。
――己の強さに確信を持ちながらも、これまでの人生で、既に自らの手の届く範囲の狭さを自覚してしまった中年。どれだけ強かろうと、彼はただの使徒であり、ただの超人であり……神ではない。
だからこそ彼は、自らの器量を超えて他人の為に動いたあの純粋な物乞いを見捨てられず、また僅かに憧れた。
……バッカスは、人の最後の寄る辺は超常的なところにあると悟っている。
最後までその目の奥に宿って久しい、長い人生で蓄積した疲れを悟らせぬまま、自嘲混じりに若白髪の前途を祈った。
一瞬の瞑目の後、そこには既に先程の思考の残滓は影もなく、ただ鋭い眼光だけが浮かんでいる。
(最近はあの昼行燈のジジイ……チャイルドもなんか企んでるみてぇだし、その腰巾着のピエロ野郎もヴェーダに侵入したっつー話だし……ここ最近、急にキナ臭い事が増えた)
あのイスタ攻めの前後だ。全てが、あのあたりから変わった。
情報が必要だ、その為にもニーニーナは捕まえておく必要がある。
……この世界で、何か大きな事が始まろうとしている。
であるならば、隠居を決め込むにはまだ早い。
手が届かぬならば、届く所まで近づいてぶん殴る。
自らの無力を知っていようが、なおも強くあらねばならない。
己は使徒という地位を、祈る人々の剣であり、嘆く人々の鉄槌であると解釈した者であるのだから。
……たとえ教団自身であっても、人々の安寧を脅かすのであれば。どいつもこいつも、ぶん殴って矯正するまで。
この世を平らかにするまで、己はこの手を振るい続ける。
思惑を諸々抱えつつ、なおバッカスは自らの信条をゆるがせにせずそこに立ち返り、彼らしく胸を張ったままにこの街を後にした。