ザナド
――かつて、法王を決める場があり、それは恙なく執り行われるよう整えられた。
今現在から見て先々代に当たる法王と、そしてカイネが待つその部屋に、三人の男が入っていった。
その部屋は、重大事を決めるに相応しいとは到底言えない……大国の最重要人物の後継を決する場とは到底思えないほどの狭さであった。
彼ら五人の他には誰もおらず、そもそもそれ以上入れば窮屈なほど粗末なその部屋であるが、しかし厳粛なる儀式に相応しくあるよう、聞き耳も立てられないよう、厳重に人払いがされていた。
十二年ごと、聖祭の日に法王は次の後継者を決める。
サリア教の聖杯……即ち法王の決定を神意として認める権限を持つカイネが、それを見届ける。
常に、候補は二人。見届け人は、一人。
まず法王がその地位を示す三重冠を持ち上げ胸元で抱える。
いくつかの問いを候補者各々に投げかけ、然る後に女を見る。
古くより生きていながら、全く年を取らない女が、それを受けて頷く。
そして、最後に法王の目線を受けた者が、次代の法王となる。
……儀式の始終は、このとおりだ。
最も重要な決定はこの場で完了し、ただ、戴冠の儀だけは、教団の者らの前で披露されることとなる。
より厳かな儀式を行うべき、また民衆の前で、あるいはせめて教団内において、盛大に披露すべき……との異論もありながら、神意は人の前で易く顕されるべきではない、と。
そのような訳で、このようにささやかなる儀式の体がとられている。
人のいない場を敢えて作った上で、この様な段取りが採用されている。
厳粛であれど異様な程に短いこの流れは、カイネが複雑な儀式を面倒くさがったが故とも言える。
彼女は退屈を何より嫌う。
そして、彼女はここ数百年を、退屈のままに過ごしていた。相も変わらず笑みを浮かべたまま。
――その日も、この儀式は過去と同様、恙なく行われていた。
法王は問う。
「人はいかようにして救われるか」
一人目が答える。
「聖典の教えによって」
法王は二人目にも同様に問い、そして答えを受ける。
「神の手によってのみ」
このように、より教団の代表者として相応しい回答を、予め取り決められたとおりに一人目の候補者は二人目の候補者に譲り続け……そして、最後の問いにも淀みなく答えた場合、後者が次代の法王となる。
万が一にも失敗すれば、一人目が後継者となるが……答えに詰まるような者は、この場に立つに相応しくない。
初めから当て馬として上手く振る舞うよう練習を重ね、そして同格の者に地位を譲るを良しとする程に見返りを約束されている一人目が、高すぎるリスクを負ってまで相方の株を奪うような真似をしたことはない。サリアの歴史の中で、一度もない。
無論、この様な場でどもるような未熟者が、本命として選ばれることもない。
この場に足を踏み入れる前に、各々鞘当ても後ろ盾の選定も、敗者の身の振り方も、全ては既に決まっている。
……儀式は、何一つ滞りなく、無事に終わった。
後は、候補者らの後ろに控える見届け人が、神意を教団の者達に伝えるだけだ。
これにより宗教大国セネカの最高権力者は、正式に代替わりする。
そう。
異変があったのは、儀式が終わる直前の事。
……普段口を開かぬ筈のカイネが、何ゆえか口を開いた。
「そちらの……そう、貴方。貴方ならば、はじめの問いに何と答えますか」
不意に声を掛けられた見届け人は、僅かに首を傾げた。
ここに呼ばれた二人と比してはさしたる権勢も持たず、ともすれば、この場に立ち会うには相応しくないとすら言われていた男だった。
ただ、生まれが多少人より良かっただけの、取柄と言う取柄を持たぬと思われていた男だった。
彼は、あるべき戸惑いをその表情に全く浮かべぬまま。
ただ、問われたのであれば答えてやろうというような、常に余人と比して愚鈍なり、という前評判にたがわぬ鈍感さのまま、口を開いた。
「人の手によってかと」
不遜とも言える顔つきをしたまま、男は答えを返した。
この場にいるのが、候補者ではなく。
手順にない事だ、しかし儀式を乱すのは……と保身を考え、神を、そして教団の意を蔑ろにするその返答に憤りつつも黙っている候補者ではなく、狂信的かつ偏執的な信仰を持つ者であれば。
もしそうであれば私刑を受けても全くおかしくない……場合によっては異端認定を受け、殺されても文句は言えない言葉を、男は平然と、しかし素直に返した。
――儀式はこれにて、『漸く』無事に、と枕をつけて終わった。
この後、その声を耳にした覚えのある者がいなくなって久しいカイネが、良く喋るようになった。
あのカイネ様が、と、皆がその様を見て驚いた。
まるで来ると思っていなかった待ち人が来た年頃の娘のように、彼女は楽し気に話し、そして笑った。
あるいは、まるで父親に会えて喜ぶ幼い少女の様だ、との評に槍を刺すものはいなかった。
誰が見てさえ、そのとおりであったから。
カイネの躁はしばらく続き、やがて収まった。
彼女の無邪気と言えるほどの……いっそ無防備と表現すべき美しい笑顔は、今はもう見られない。
ただ、かつてそれを見た者の心を縛り続けている。彼女の本心からの笑みには、それほどの毒があった。
そしてその日から数えてまた十二年後、かつての見届け人は、今代の法王となった。
そして、彼は怖気の走る行為に手を染めた。
善良な信徒が知れば、神がこんな事を許すはずがない、と言うに違いない行いを、延々と。
今もなお続けている。
……いや、あるいは。
もしかしたらサリアという存在自体が、ずっと彼のために存続していたのかもしれない。
彼は、元々サリアが作られた意義を体現しているだけなのかもしれない。
サリアという組織かつ概念は、彼の到来を待ち望んでいたのかもしれない。それこそカイネのように。
だが、最早サリアの起源を生きて知る者は人類の内に一人もいない。
そして今や、サリアと、かつてその組織を築き上げたヴァーラ・デトラは、全く異なるものとなっている。
ともあれ、今代の法王……彼は、この世界の大地の上に、今己が生きているこの時代に、救世主という存在を発生させたかった。
世界を救い得る者を、人の中から生み出したかったのだ。いかなる手を用いてでも。
――常に人の背後にあり、その生を脅かし続ける敵を打倒する。
彼は、その目的を果たすために真摯でありたかった。
それが叶うのであれば、どのような手段を選ぶことも辞さなかった。
……たとえその手段が矛盾そのものであっても。
彼を引き立てた女の正体を知っても。
悪魔、すなわち『水銀の魔女』カイネ・メルクリウスに縋るということであっても。
果たして目論見どおり、彼が法王となり、最初に示した上の方針とある提案を聞いた悪魔は大層喜んだ。
それはもう、彼をその地位に就けたのはまさしく正しかった、と言わんばかりに。
その面白い余興を喜んだ彼女は、人類の敵を滅ぼすに値する者の選別に当たって、手助けをした。
救世主を選別するにあたり、ローグは適性を欠いていた。その暴力性……己を満足させるためだけに生きる者は、救世主にふさわしくない。
ソプラノは適性を欠いていた。その性質は本来臆病であり、また人を導く積極性……自己確信が足りない。
……リリィ・スゥは、元々教団内に出自を持っており、また素質はあるとされていた。
しかし、彼女には致命的な欠陥があったため、候補から除外された。
よって彼らは早々に、その才を振るうに相応しい役職、即ち使徒という立場を与えられた。
成功例とされた者は、一人だけ。
救世主足り得ると判断された者から、相応しきとされたのはただ二人。
その二人の内、ある特殊な教育を施し、成果が結実したのはただ一人。
それが、人類の敵の打倒を望む男……現法王の息子であり、暫定的に使徒の第二位を与えられた少年……『雷魄』ムー・ザナドである。
……だが順調であった筈のこの計画も、最終的には失敗し、大幅な修正を余儀なくされた。
この失敗とは、断じて、かつてレヴィアタンでムー・ザナドが、魔王になすすべもなく敗北し、ただの一つも傷をつけられなかったから……という程度のものではない。
『救世主』を望む法王には、当然というべきか、意外にも、と言うべきか、教団内に多くの敵がいる。
……その派閥の呼び名は、余りにも内罰的で滑稽だ。
法王派が密かに呼び始め、反法王派の者らもが自ら受け入れたその名は、『愚神礼賛』。
しかし彼らの成果の一つである『勇者』サリー・スノウホワイトの働きをもって、彼らは、まずは魔王を始末した。
それは、十分な成果では?
彼に近しくない者からは、歴代で最も愚なりと評されるかの法王の地位と思想を脅かすには、十分以上に足るのでは……?
……彼は、今日も黙したまま、沈思している。
――魔王が死んだ?
人が、そして魔族らがこの世にあらわれてから、幾星霜を経たと思っている?
たかが小娘一人が死んで、一体何が変わるというか?
木っ端が消え失せたとして、だからそれがなんだというのか。
その程度では、人間の敵は滅し得ない、それは、未だにこの世に残っている――
今代の法王は、今もなお、人を救う方法を模索し続けている。