aLice IN (uncer) wonDERlAnd
もうちょっと。あと少し。
……いつだって強欲なのが、私でした。
――アリスの日記、その前書きより抜粋――
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見慣れた城の中の一階、午前で終わってしまった仕事に「お疲れ様」を告げたこの私――子狐のアリス・クラックスは、そこの通りをぼんやり歩く。
無骨ながらも清潔さは維持されているこの場所だが、衛生意識というものは、アロマ様が宰相に就かれてから下々にまで徹底されるようになった、らしい。
以前も不潔だったわけではないとの事だが、その辺りの発想はいかにも女性的だと思う。
まあ、私はアロマ様に拾われてこの城に来たわけだから、昔の事は知らない。慣れたといっても自分は所詮、五年かそこらしかこの場所で働いてはいない……出張もそこそこ経験していたし。
そんな私ですら、この城に感じる違和感。小綺麗なこの建物に感じる小さな不自然。いや、城下に行ってすら同じ感覚を覚える。
『何か違う』
古参の者達がそうやって口を揃えて言うのは、得心が行くものだ。
彼らに比べればぺーぺーの私も感じる、居心地の悪さの原因は分かっている。
この城は、一度落ちた。
ほんの僅かな期間であっても、人間の手が入ったというだけで前との空気の違いが感じ取れるとは、不思議な事だと思う。
城が人間たちに奪われたのは、およそ一年前。
取り返すまでに掛かった時間は、たったの半年弱。
再び我々の行政拠点として稼働し始めたのは、つい先月から。
……随分あわただしいものだけど、この城はやはり魔族の、獣人の……なんというか、象徴なのだ。
立地も建物も設備も上等、ならば利用しないで遊ばせておく手はない。つまりはそういう事で、みんな違和感を飲み下しつつ、また慣れていこうという感じ。
……流石に、人間が入った所為で穢れただのなんだのって騒ぐ奴はいなかった。曲がりなりにも伝統のある場所だし、そもそも勇者とやらを陛下が招き入れた経緯もあったし。
……彼がいなくなって、一年ほどが経った。この地方では、春夏という温かい季節は南部に比べて極めて短い。長い秋を過ぎ、長い冬がまたやってきた。
息を吐けば、うっすら白む。とは言え、城内は元々風通しの良い造りをしている。この程度の寒さで不満の声を上げる者など、そうはいない。
――おお、さむさむ。ねえ、最近とみに冷えてきましたが、体調は大丈夫――?
彼がこの城から消えるほんの少し前。おどけながら、だけど労りを交えながらあの子はそんな事を言っていた。
こちらからしてみれば、心配される筋ではない、尻尾の一つも持っていない癖に、寒いのはアンタの方でしょうが、アンタは人の事言ってる余裕なんてないんだから……という心持ちで。
そのまんま口に出せば、あの子は一本取られたとでも言わんばかりに舌を出した。そのまま横着にも出したまんまの舌で乾いた唇を舐めとる仕草に目を取られて、だけどすぐに青褪めた唇の方に意識が向いた。
へらへら笑っていたあの子の寝床事情を思い出して、毛布を慌てて差し入れたのは、そのすぐ後。
かつてお店で無地のものを選び、二晩かけて刺繍を入れたもの。恥ずかしくて、渡せないまま部屋の隅にほっぽっといたそれ。売り物に負けないくらい丁寧に縫ったのが災いしたか、彼は狐模様のそれを出来合いのものと思ったらしい。と、信じたい。
息切れしつつのぼやけた頭でようやく気付いたのは、いくらなんでもその製作物は重すぎるってことだった。
なんだ私は。今となっては己の見境なさが怖すぎる。ヤバい。
気持ち悪いと思われは……しないだろうけど、客観的に見て自分がちょっとヤバい。
いや、すごくヤバい。
自らの恐ろしい気質、それを直後に自覚した私は、あの子の勘違いを訂正しなかった。
……彼が私からの贈り物を喜んでくれた。それだけで十分すぎた。
ていうか、あの子、自分で買えばよかったじゃない。なんで寒いのに石床に直で寝てたのよ。
まさか、待ってたの? 知ってたの? 私が渡そうとして、出来なかったの。
私が恥ずかしがるのを知ってて、気づかないフリをしてくれたの?
だからあんな、わざとらしい話題の振り方をしたの?
「…………」
――彼と関わりのあった者は、こんな事を言う。
『あんちくしょう、結局勝ち逃げしやがったなァ……宰相殿が博打をお目こぼししてくんなすったのはアイツがいた時くらいだった』
『アイツ以外が賭場なんか開いた日にゃ、俺たちゃ全員首がひな壇の上に乗っちまう。つまんねえの』
『今度やったら洒落じゃ済まねえな、最近はまた鉄の女に逆戻りだし……まあ、無理もねえか。陛下のご容態も……』
最後の者は、私の姿に気づいて「おっと」の一声で言葉を切った。
……懐かしい話。あれは彼が、そして私がリール・マールに行く直前だったか。アロマ様を、こちら側に引き込みたい。
彼はなんの表情も浮かべずに、ピュリアの部屋で、彼女を膝に乗せながら、私に向かってそんなことを言った。
……いや、正確には、「こちら側に、来てもらいたい」……だったと思う。
私は必死にお願いした。アロマ様だけは許してください、あの方だけは、かけがえのない恩人なんです、あの方だけは、と縋った。
彼のズボンの裾を引き、哀れを誘う声で許しを請うた。
同情を引く目的でそんな惨めったらしい真似をしたが、それは勿論私の本音だったので、演技の時に流す冷たい涙とは違って匂うような熱が目頭に籠っていた。
……酷い屈辱感を覚えたものだ。いいや、今でも思い出したらムカつくもんだ。私にあんなことさせて。
だけど。
いっそ清々しく彼は、「じゃあやめようか」といかにもわざとらしい声音でピュリアの肩を抱いて言った。言いやがった。許せない。
……そしてやっぱりナインは、毒となる言葉を私の心に染み込ませたのだ。
――でもさあアリスさん。アロマさんと貴女、このままじゃあ……いつかきっと、ねえ。
アロマさんは陛下の事が大好きだからねえ。
僕の所に君がいる。陛下の所に彼女がいる。
……分かるでしょう? アリスちゃんってば、アロマさんの事が大好きだもんねえ。
それなのにアロマさんってば、陛下の事が一番大事だもんねえ。
……分かるでしょ? アリス・クラックス。そちらさんにとっても……これはチャンスなんですよ。
貴女が真実欲しいものに近づける、最初で最後の、唯一の、さ――
……ああ。アロマ様。
貴女はお美しくて、あまりあからさまにしないけれども大変にお強くて……そして普段は表に出さないけれど、ひどくか弱い。
陛下の為に、貴女がどれだけ苦労をされていらっしゃるか、知っています。
貴女がどれだけ、陛下の事を大切に思っていらっしゃるか、私は知っていたんです。
……アナタがどれだけ陛下を妬んでいるかも、知っています。
アナタが陛下を恨めず、それ故にか、己を呪っていることも。貴女を一番見ていたのは、私です。
みな知っています。
……私じゃ貴女の一番にはなれない。私を拾ったのも、畢竟、陛下の為に動かす手駒が欲しかっただけ。
知っています。
それでもよかった。そんなの知ってた。
「…………」
……あのまま。ナインが私たちの一生に関わりがなかったのならば。
彼がこの城に来なければ。こんな選択肢は現れなかった。
言うまでもない事だけれど、私の前にも、貴女の前にもです。
でも。
(……救われたかったんでしょ? ねえ、アロマ様……?)
陛下のもとで仮面をかぶって生き続けてても、きっと貴女は救われなかったよ。
だから私は、私の為に……私の敬愛するアロマ様の為に、貴女をこちらに引きずりこむことに決めた。
だってナインは言ったもの。こっちもそう悪いもんじゃないよって。私は、自ら望んでその言葉に騙された。
……所詮は言い訳かな。私は自分にとって都合のいい言葉だけを取り入れて、行動した。ただそれだけ。
真実を孕んだその大いなる嘘で自分を騙し、アロマ様を騙し、そして今は。
……ピュリアはもう、覚えていない。他の人もきっと。
私だけが覚えている。
そう。彼が禁断の森の中で私に見せたのは、あまりに綺麗な絶望だった。
私は、アレ以上に美しいものを自分の人生で手に入れられる自信がなかった。
私のそれまでの……親に嫌われ、裸に剥かれて競りにかけられ、アロマ様に救われ、彼女に捧げたこの人生は、それでもアレより断じて不幸ではなかった。
アロマ様。貴女に拾っていただけて、この子狐は幸福でした。
(……だけど、あの子は)
……ナインの不幸は、ナインの優しさそのものだ。
ナインが不幸になったのは、あの子が優しすぎて、それ故に弱すぎた所為だ。
あの子があれほどに優しくなければ、弱くなければ、あの不幸は世にいくらでもあるただの悲劇で終わったものだったはずなんだけど。
……あの子はあまりに優しすぎて、だから……小さな村に咲いていた僅かな人間の命を……ふふ。
私達、人間以外の種族の命運丸ごとを天秤にかけるほどに、彼は思いつめちゃった。
比べようもないものを、あのインチキな天秤にすがって、平等に見做そうとした。
……アレは契約って言ってたけど、等価値でないものを秤にかけてどうするつもりだったんだろう。不均衡なものは、不公平なものはいつだって歪むのに。
その位の道理、私だって知ってる。
……ナイン、貴方は知らないでしょう。
あの蛇が私たちに掛けた呪いの本質、貴方、本当は知らないんでしょう。
……惨めだよ……?
今でも私は貴方を許さないけれど、それでも愛おしく思うその理由を、貴方はきっと知り得ない。
貴方が愛と呼び、私たちが貴方から離れられなくなったその原理は……本当に……目も当てられないくらい無惨なものだったのに。
……他の誰も気が付いていないと思うけど。
そう、私だけが知っている。
……アロマ様についてだけじゃない。あの子の事も、私が一番よく知ってる。
だって私は弱いから。
あの子と私は、よく似てるから。




