倦怠
「落ち着いたか?」
「はい……無様をお見せしまして……」
「ほんとにな」
「ぐぅ」
おっさんは全く容赦がない。ぐうの音しか出せない。
だけどそのおかげで、僕はさっきまで考えていたことを思い出せた。
……僕はさっき、彼の言葉を許せなかった。
……何が?
今までの全部をなかったことにしろって、その部分だろうか。
……今までの、って。それが何かを僕は知らない、知らないはずなのに。
それなのに、どうしようもなくこの胸を灼くこの感覚はなんだ。
忘れても忘れ切れない何かが……もしかして、こんな僕にもあったっていうのか?
……でも。
「……僕には……今、大事なものが何にもないんです。そんな僕が、生きるべき理由って……」
「グダグダ言わねえで探せよ、だったら。そんなツラしちまうまで欲しいモンが、お前にもあったんだろ?」
「それがどんなものかも分からなくて……失くしちゃったかもしんないのに?」
「だから探すんだろ?」
「…………」
「いいじゃねえか。前にテメェが言った『保証』の答えの一つだ。お前が自分にとって大事なものを見つけたいと思うなら……それこそが『自分』だって胸を張って言え。自分でそいつを認めて、自分をそれによって保証してやれ」
「……ああ。そうか」
……『今は回答がないこともある』。それは確かに、そういうこともあるだろう。
そしてそれ自身が一つの答えでもある。正答を探し求めて彷徨うにしても、それはさして悪手ではないだろう。
彼の言う事は、ひどく納得のいくものだった。
……だけど、この期に及んで僕は、このおっさんに言いくるめられたというか、このおっさんの所為で恥を晒したというか……そんな思いが消えなかったので、一つ仕返しをしておくことにする。
……彼がどう感じるかは知らないし、他の人には誉め言葉にすら聞こえるかもしれないが。
人を……僕すらをも助けることを恥じない彼には……そこに僕のように不分明な罪悪感を覚えない、強く鈍感なこの男には、言ってやろうと思った。
「なんともそれは、英雄の言葉ですね」
揶揄だという事に、気付いただろうか。
強くある人が、その裏に潜む意味を読み取れるだろうか。ただでさえ、このおっさんは鈍そうだけど。
胡乱気に、だけどこのおっさんの底をあわよくば暴いてやろうと、じっと見てみる。
さて、なんて言葉を返してくるか、あるいは何も言わずに済ませるか。
「……ふん」
おっさんは、懐をいきなりまさぐったかと思うと、取り出した酒を一口。
「英雄なんてのはいないさ。ホントのとこな、この世にそんなもんはいねえ」
「……ふうん?」
……思っていたよりふわふわした回答が返ってきた。
「……じゃあ、おっさんはなんでここに? 悪党退治に来たんじゃないの?」
「そうさな、神の……」
「神の思し召し?」
「……いや。神の声を曲解した奴らの尻拭いさ」
そんな事を言いながら、おっさんはまとめられている死体に目を向け、十字を切った。
「くだらん銭勘定の果てに死んだ奴らだ。正直憐憫の情も沸かんが……なんせ仕事柄なあ、供養の準備もしないといかんし」
おっさんはブツブツ言いながら、そこにいる人数を数えて、取り出したメモに記帳を始めた。
よく考えたら、僕は未だに彼が何者を知らない。
人に尋ねておきながら礼儀知らずのおっさんである。
「仕事柄……ところで貴方は何者なので?」
「言えねえ」
「何それ。人には聞いといて」
ひーふーみーと指を折っているおっさんは、目線もむけずに切り捨ててきた。
無理に聞く必要もないかもしれないが、ぞんざいな扱いを受けるのは業腹である。思わず失敗したと天を仰ぐ。若い娘さんにやられるのはお金を払ってでもお願いしたいところだが、こんなヒゲにそんなことされるのはむしろお金を貰いたいくらいだ。
……とは言え。暴力を売り物にしている様子。変に絡むのも止めとこう。
さしあたり、これから自分がどう生きていくのか、その辺りの方向性が見えてきただけ、今日は有意義であったと信じよう。
さらばヒゲの人。もう会う事はないでしょう。
……黙って消えると、怒られるじゃ済まないかも。一言ぐらいは言っておこう、そう思っておっさんの方に目線を向けると。
「あれ?」
「ん、どうした?」
「……あ、いえ……なんでも」
「……ふん、全部さっきの野郎の太刀筋だな。少なくともここの死体を作ったのはお前じゃねえ、か」
背中を向けたまんま、それでも僕への警戒を完全には解いていない様子。意外と老獪なおっさんだ。
しゃがみ込んで詳細な見聞に取り掛かってしまったが、こっそり逃げようとしないで良かった。
……それにしても、死体の山を見て、改めて気づいてしまったことがある。
「今更だが、あんまりじろじろ見んな。いいもんじゃねえ」
「……」
「もうちっと待ってろ。部下に引き継いだら、聞きたいこともある」
「はあ」
こっちの脱走の意図に感づかれたのかそんな事を言われたが、それに空返事をしながら、死体の方に視線を向け続ける。
……不意に気付いた事があった。
色だ。
色が見える。
……今の今まで見えなかったものが見えている。
ついさっきまで……ヤヌスちゃんと話していた辺りでは気づけなかった、というか、見えていなかったと思う。僕は、色という概念を知っていて、だけどこの街に来た時に同じ乞食さんと話をして気づいた……僕は、そこら辺の区別がついていなかったはずなんだ。
……不思議だったんだ。確かに世界は、色というものが存在していたことを僕は知っていた。
きっと昔は、色を理解できていて。ついさっきまで忘れていて。そしてまた、今思い出した。
思わず、真っ赤だな、とぽつんと呟いた。
おっさんはそれに返事をせず、ただ、「お、頭目発見」とだけ零した。