りめんばー
怒られる意味が、分からない。
僕がおっさんに望んでいるのは、訳の分からない感情の発露じゃない。こちらを一方的に罰する根拠……恐らく彼が僕に対して持っている正当な殺害名目の実行だ。
なのにおっさんは、更なる妄言を繰り出してくる。
「お前は誰かを慈しめる人間だろうが! なんで好き好んで死に寄りかかる! それはなお前、そいつぁなあ、お前が助けたガキ共の命すら冒涜する行為なんだぞ!」
「……はあ?」
「生きるってことを否定するんなら、人間なんざ生まれてくる甲斐もねえだろうが! 人間の営みをテメェ如きが否定すんな!」
「……何言ってんの」
……言っている意味が分からない。
僕には、今自分が何を言われているのか、彼がどういう論理でそんな事を言っているのか……なんで怒っているのか、分からない。
「あのなあ、万が一テメェがここで俺に殺されたとしたらな、いいか言うぞお前、聞いて後悔すんなよ……」
「……なにさ。言ってご覧よ」
「あの姉弟が、きっと泣くぞ」
――ああ、それは。
「そんなの嫌だろ?」
「……」
……訳知り顔でそんなことを言うおっさんには腹が立つが、確かに否定しようもない。それは愉快な想像ではなかった。
子供は笑っているのが一番いいと思う。好きとか嫌いとかじゃなくって、ただ、その方がいいな、そんな方がいいな、と思う。
でも。
「僕なんか……生きてていいもんかな……」
考えなしに口からこぼれた本音。弱音でもあったのだろうと口に出してから思う。
それを聞いたおっさんが片眉の角度をさらに上げるもんだから、思わずこちらはびくりとする。怒られるのは愉快な事じゃない。理由も分からないまま怒られるのは、たとえ相手が誰であっても心が疲労する。ただでさえ、先ほどの激情は失せてしまっている。僕は、今、心からの抵抗が出来ない。
だけど彼は、今度は怒鳴ることもなく静かな声で言葉を紡いだ。
「お前の価値なんざ俺が知るかよ。自分で決めろ、甘ったれ」
「俺がお前について知ってんのは、ガキを見捨てらんねえお人好しだってことだけだ」
「ここにきた理由、言ってみろ。ちゃんと聞いてやるから」
……思わず目を逸らしてしまった。単純に、とんでもなく思い上がった恥ずかしい言葉を僕はこれから口に出してしまうという予感があって。
だけど黙っているのをおっさんは許してくれそうになくって。
……嘘を、つきたくはなかった。この人はどうも、本音で話してくれたみたいだったから。
顔に血が上るのが分かったけれど、止むを得ず……あの路地裏でチンピラさんが言った言葉が気になってここに来て、ついさっき捕まっていた子供達全員を逃がしたことを話した。
最後まで黙って話を聞いたおっさんは、髭を一擦り。
「なら、なおさらだ。あの姉弟だけじゃなくて、泣く奴がきっと増える……お前が助けた奴らも泣くぜ。間違いねえ」
「…………」
助けた、だなんて。そんな言葉は絶対に口に出したくはなかったし実際使わなかったけど、おっさんはこちらの心の機微を斟酌せずに平気で口に出す。
この髭、絶対に女にはモテないタイプだと確信してしまった。
つい半目でおっさんを睨んでいると、おっさんは少し唸って、不意に頭頂部を見せつけてきた。存外フサフサで若々しさのある色艶、気が付けば老人みたいに真っ白頭だった僕はちょっと羨ましく思ったが、彼の行為の意味が分からないので混乱した。
だけど、すぐに理解した。彼は頭を下げている。礼儀としての意味で、僕に向かって。
「……なんで、そんな」
「ガキ共を助けてくれて、ありがとうな。子供は世の宝だ、神の従僕としてまず礼を言いたい」
「……」
「それに、さっきの無礼を謝る。俺がお前に手をあげる理由は元々なかった。悪かったな」
…………。
「謝るんですか」
曰く言い難かったので、とりあえず現在の状況について何の捻りもなく口にする。おっさんが頭を下げるのを躊躇した理由は、すぐに分かった。この人は多分、人に謝ったりすることに慣れていない。
それでも僕なんかに、頭を下げるものか。
「謝るさ。俺はお前にそうする理由がある。まだ自分で決めらんねえなら、少なくとも俺の知ってる限りのお前の行いは、この俺様がそうする価値くれぇはあるってだけ、言っておいてやる」
「…………」
挙句それか。本当に強いこと。
……頭が冷えて、少しだけ自分をかえりみる余裕も出てきた。僕はなんであんなに、さっきの言葉に反感を覚えたもんだろうか。
生まれなおせって、こんな耳に馴染みのない表現で、彼は僕に何を伝えようとしたのか。
お前の生き方は疎かだ、みっともないのだと、そう言われたも同然だから腹が立ったのか?
……多分違う。それはそのとおり、僕には今大事なものが何もなくて空虚なんだから否定しようもない。
……ただ、じゃあその言葉を拒絶したのは、『今の僕』じゃないのかもしれない。昔の……今の僕が知らない『僕』が、『生まれなおす』ってのを嫌がったのかもしれない。
こんな僕にも、否定できないような、なかった事にはしたくないような……大事にしたかったようなものが、あったのかもしれない。
……なんか、それならしっくり来そう。
――生き汚さを忘れちゃ駄目よ。……貴方のママだって、生きのびろと言った筈――
――無事に帰ってこい。そうしたら、お前の居場所が、どっかにあるかもしんねえからな――
「……」
聞いたことのない言葉が、不意に頭を掠める。
……不具合だらけの頭の中で、かちりと何かがはまった音がする。大事だったのかもしれない何かが一瞬浮かんでは、思い出せないところに逃げ去っていく。
詮無い……本当に言われた事かどうかも分からない、虚ろな……だけど胸が熱くなる言葉が響き続ける。そして、消える。すぐそこにあったのに捕まえられずに、言葉は表層意識から飛び立ってしまって……また、不分明で曖昧な領域に落ち込んでいく。また僕は忘れてしまう。
――ねぇお兄ちゃん。あたし良い子にしてるから、だから、ちゃんと帰ってきてね――?
つい、懐に手が伸びてまさぐり、数少ない僕の所有物を漁る。
……アレだアレ、あのひらひらしたのどこやったかな……あった。
取り出して目の前に掲げてみる。
(君も、僕に生きろって言ってる感じ?)
相も変わらずひらひらした羽根は、好きにしろと言いたげに、やっぱり投げやりに揺れているだけな感じだった。だけど一瞬、こくりと頷くかのように、風もないのにこちらに向かって倒れて、戻る。
頭の中で、声は続く。
――私だけを見なさい……今は口だけで良いわ。ハイと、そう言え――
――お前はね、私の玩具なのよ――?
「……ん?」
――ウチはもうアンタのモンやけど。アンタかてウチのもんなんやからな――
――ウチと出かけんの、そんなに面倒? ウチ、アンタにとってただの都合の良い女――?
「んん?」
――自分は君が欲しいんだ。女にこんなことを言わせるとは、君も中々罪作りだな――
――き、君、何を考えている。まさか……夜這いか――!?
「んんんんん……?」
――今日の夕飯はお姉ちゃんが作ってあげる。何が食べたい――?
――ほんと、いつまでもお姉ちゃんがいないとダメなんだから。アンタは頼りないからね――
「え、ちょっと待ってちょっと待って何これ」
……僕には姉さんがいたんだよね。きっとそうだよねそうに違いない。
だってそうでなきゃさあ。これ、ちょっと倒錯的すぎない……?
まさかそんな、これ、そういうプレイじゃないよねえ……?
――パパは、――のパパなのに……。あの子、今までずっとパパの傍に居たのに、ずるいもん――!
――ねえパパぁ……悪い子な――のお尻を叩いて……?
「えー……? うそほんとなにこれぇ……?」
「……おい、どうしたブツブツと」
……幻聴だよな。その筈だよな。
まさか僕子持ちだったとか、そんなことないよね……?
それに今の声、なんか、そこそこ大人っぽかったような……。
――オレの事は、二人っきりの時なら母さんって呼べ――
――ちげえだろ? ……お母さん、だろうがよ……。ここには今、他に誰も居ないんだぞ――?
「……はは、まさかそんな、嘘でしょう……?」
「おい、おい。なんだどうした、怖えよ独り言は」
……き、きっと複雑な家庭環境の中で義理のお母さんとの心の触れ合いがあったんだ。最初は反発してたけど、とあるきっかけから距離が縮んで本当の親子にとか、そんな感動スペクタクルなだけで……。
……そういうプレイじゃ、ないよねえ……!?
――這いつくばれ――
――余の脚を舐めろ。それをもって、忠誠の証とする――
――どうした? ――の脚は舐められても、余の脚は舐められんか――?
――余が呼んだらすぐに来い、椅子にしてやるからな――
「うわあああああもうやだあああああ!」
「ぅお! ど、どうしたいきなり」
「嘘だああああ僕こんな、こんな……!」
「こんな……?」
「僕はこんな変態じゃなぁいいいいいい……!」
「……女装してる時点で十分変態だろ」
「方向性が違ううぅ……節操も無さすぎるぅ……やっぱり僕は死んだ方が良いんだよぉぅおうぉう……」
「……げ、元気出せよ。大丈夫だって。まだやれるって」
おーいおいと嘆く僕。驚いてそれを見下ろすおっさん。
もう、何も思い出せない。思い出せないが、背徳的なシーンが入れ替わり立ち代わり延々と脳内で上演されたことだけは覚えている。
僕はしばし、悲嘆にくれた。