殺せ
――最初に、自分の毛が逆立つのが分かった。
あんまりにも突飛な言葉で、だからその言葉を僕は理解できてもいないうちだった。まるでどこかの誰かが頭に住んでて、僕より先にヒステリーでも起こしたかのような、そんな感覚。
僕は今、自分の感情が理解できていない。
目に映るのは、野卑な髪、荒い顔つき、汚い髭。年齢の割に引き締まった体、腰元に納まるトンカチに刻まれているのは、僕でも知ってる有名な宗教のシンボル。
どうでもいい情報ばかりが頭に入ってきては、淘汰される。
今僕が考察すべきはこの感情の正体だ、というのはなんとなく分かった。
どくんどくん、頭の血管が波打つ音が聞こえる。炉に火が入ったかのような、だけど僕は人間であって、そんなもん入れられても困るというか、熱いというか、耐えられないというか。
つまりは不快感だ。これは駄目な奴だ。嫌で、一刻も早くこの感覚から逃れたくて、この感覚はどこから来たのかと言うとさっきのおっさんの発言が由来であって。
……生まれなおせ? つまりはそれってばさ。
「どういう意味ですか? まさかとは思いますけど、ねえおじさん。ねえ、おじさん?」
僕の事を殺してくれる筈だった彼の手から、目線を腕に沿って昇らせる。肩。首。髭。酒臭い口。鼻。
……目。
初めて彼を、正面からちゃんと見た気がする。
「……なんて目つきで人を見やがる。……いや、さっきに比べりゃまだマシか」
敵意がない。殺意がない。さっきまであった、剣呑な匂いがどこにもない。辺りは血の匂いが充満しているのに、このおっさんはその空気に似つかわしくない様子に成り下がってしまった。
……こいつ、僕の事殺さねえって事?
ふざけんな。折角腹をくくったのに。
「……殺さないん、ですか?」
だから確認のために聞いてみる。間抜けな対応かもしれないが、まず先立って、事実関係の確認ってのは大事だと思う。この世のあらゆることにおいて。
最初の一文字、その発声が震えたのには、我ながら酷く腹立たしい。
……おっさんも僕を見返しながら口を開く。
「ああ」
返ってきたのはその一言。だけ。
だから安心しろ、とでも言いたげに、おっさんは腕を組んだ。おい髭。お前がそんなポーズ取ったって威圧感しかないんだよ。
いや、それはどうでもよくって。
「なんでですか」
「死にたそうな顔してやがったからさ」
「何それ」
死にたそうな顔って……どんな顔だよ。いや、それもどうでもいい。
仮にそんな顔してたんだとしたら、そんな奴殺してやれよ。目の前に殺されたがっている奴がいて、じゃあなんで殺さない。なんでそんな回答が出てくる。
それって、矛盾だろう。お前、人を殺せる人なんだろ。
気に食わないけど、おい、なあおいおっさん、殺されてやるって言ってんだよ僕ぁ。
殺せよ。焦らすなよ。なあ、さっきまでの気合入ったツラでさ、一撃だほら、やっちゃえよ。
抵抗なんざしないぜこの獲物は。やり甲斐はねえかもしんねえけどさ、貴重な機会だろ。逃げない相手を殺せるってのは。逃すなよ。
「死にたがる人はいないでしょう」
「例外もあるかもしれん。事実、お前は俺にはそう見えた」
例外を定める真理なんざない。
――また死にたがりごっこ? 騒々しいと思ったらまたトラブル……相も変わらず手のかかる子ねえ、いい加減に寝かせて頂戴――
誰かが眠たげに囁く幻聴、そんなものすらどうでもいいのだ。
「死にたがる人はいません」
「でも、お前は死にたいんだろう」
「……」
どうだったっけ。そうだとしたならなんでだっけ。
僕は死にたかったんだっけ。惨めなまま死にたくはなかったけど。……ほんとは、生きたかったんだっけ。
実は、本当はどうでもよかったんだったっけ。どうでもよくなるような……理由が。あったんだっけかな。
……大事な何かがあったんだっけ。でも、それを守れなかったんだっけ。
……ウゼぇな。思考が散漫だ。めんどくさい。ウザい。これ止めてくれ。
おっさんさ、余計な事を思い出そうとするこの頭をそのトンカチで潰してくれ。さっさと。早く。
……生まれなおして、僕にどうしろって言うのさ。こんな僕に。どうしろって。
「ねえ、殺してくださいよ」
「イヤだね」
最早楽しげにすら見えるおっさん、獰猛な顔つきだ、歯を剥いているのは笑顔か威嚇か。
どうでもいい事ばっかりだ。
「殺せよ」
「断る」
「殺してみろよ! 殺せって言ってんだろうが!」
「命令すんなクソガキが。仕事でもなしに殺すのは趣味じゃねえ、そうである以上神さんの定めた命の始終を俺に言うのは筋違いだ」
「僕なんか殺す価値もないってか、生殺与奪は俺のもんってか、ああ!?」
「神のもんだとは言ったぜ。少なくともただのやけっぱちを殺すつもりはねえよ、得物が汚れる」
「は、大したクソったれだあんた、バカにするのもたいがいにしろ!」
するとおっさんは、僅かに片眉を跳ね上げた。
「馬鹿にしてんのはテメェの方だ! オレがクソッタレなら、テメェは甘ったれだ! 幼稚なのも大概にしろよ!」
そこで初めて彼は、僕に向かって怒鳴りつけてきた。