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許すか許さないか、あるいは許せないか

 目の前の男、バッカスと名乗った彼が口を開く。もしかして、これが僕の人生の最期に聞くことになる言葉かもしれないと、いまいち現実感を伴わないままにそんなことを思った。


 ……聞き逃すつもりはなかったけれど。

 最初の一言目は、言っている意味がまるで分からなかった。

 特に心を動かされたわけでもない、ただ脈絡を捉えられなかっただけで、どうせ大したことではないと思う。


 問題は、二言目だ。


 彼が放った二言目は、あんまりにも無責任で、それがどうしても癇に障ってしょうがなくって。



 ……彼の言葉が許せなくて、僕は。






 ――――――――――――――――――――



 バッカスは思う。

 嫌いではなかった。目の前で、まるで叱られるのを待つ子供の様な顔をしていたこの男の事は、けっして嫌いではなかったのだ。


 胡散臭くて、酒癖が悪い素寒貧で、ただ見過ごすには少々剣呑すぎる技術や腕力を持っていたとしても。

 子供を見捨てなかったというその一点で、自分がこの男に構う理由としては十分だった。


 だが男の肩に刻まれていたものは、自分がサリア教団に属している以上……人間を救済する目的をもって己を定義する使徒である以上、問い質す以外の選択肢を与えない……そういうものであった。


(カイネが……俺の知る限り二人・・以外に刻印なんざ)






 ――自身が、理外の存在であると。

 水銀の魔女カイネが己を前にして宣言したのは、勇者が魔王を降した直後の事だった。


「――は? なんつった今……?」

わたくしは吸血鬼です、と……そう申し上げたのですわ。今度こそその耳は役目を果たせましたか、使徒が第五位、バッカス・ドランクス。ずっと知りたかったのでしょう? 私がどのような存在であるのかを」


 ――だから、教えて差し上げました。


 笑顔を崩さず、女はそう言う。


 ……水銀の魔女、カイネ・メルクリウス。


 どうにも不可解な、まるで予知じみた狂言を繰り。

 信徒の前ではまるで神の言葉を代弁するかのように驕慢な高位の司教たちを、己は顎で使い。

 ……あまりにも長くサリアの内部に君臨し。

 それでいながら、いつまでも若く美しい姿を保ち続けるその女。


 使徒の一員たるバッカスですらただ名前を知ることのみ許されていた目の前の存在は、まるで今日も晴れましたね、とでも言うかのように。

 いかにも下らないことで会話の間を持たせようと喋くるかのように、一大事を口に出した。


 一大事である。少なくとも、バッカス自身にとっては。

 神が定めし禁酒禁欲の教えをないがしろにするこの男、たとえ振る舞いに奇矯なところがあっても、信仰の思いは並みならぬものがある。彼の中で譲れないもの、守りたいものが、独特な形で神の教えに沿うものとしてあらわれ云々……世間一般的とは断じて言えなかろうが、少なくともバッカス自身は自己を敬虔な信徒とみなしている。他のものはみなしていない。所詮余人の思いなど些事である。


 ……サリア教では、『吸血鬼とは神の最たる敵が一つ』、とされている。


 それまで正体を秘していた彼女が、己をひとり呼び出した法王の隣に立ち、そう口に出して言う。

 その行為がどれほどの意味を持つことか……己がそれを分からない愚物であるとは、流石にこの自称吸血鬼とて思ってはいまい。


(……坊主の何人かは、お前をまるで法王に次ぐ者かのように崇めていたモンだったがな。ありゃ洗脳だったのか? ……俺がよ、なあカイネ、お前をどれだけ胡散臭く思っていたか……気付かんかった訳でもないだろう……?)


 実際、たった今彼女から正体を聞かされ、尚更視線にこもる警戒の度合いは上がっている。この女がまともな人間であるなどとは、初めて顔を見たときから一度も思ったことはない。

 何せこの魔女は余りにも綺麗すぎて、恐ろしすぎた。あるいは首に手をかけようと思えば、出来たのかもしれない。

 下手をすればこの女、己が首をへし折ったとして、それをも笑って許したかもしれない。

 その死体は、きっと笑っているのかもしれず、そしてやはりどうしようもなく美しいままであるに違いない。


 だが、自分は今の今までそれができなかった。

 殺して死ぬたぐいの生き物か、自分はそれすら自信が持てなかった。いや、今聞いた正体に照らせば……伝説が伝える内容どおりであるなら、きっとコイツはただ傷つけるくらいでは死ななかったのだろうが、そんなことは重要ではない。


 殺してしまえば、どうしようもなくなる・・・・・・・・・・

 コイツは間違いなく生かしておくべき存在ではないが、殺せばきっと取り返しのつかないことになる。


 妄言極まりない。子供の頃に聞かされた御伽噺を信じるのも大概だ……自覚はあるが、そんな予見を感じさせ、また信じさせる不気味さがこの女にはあった。


 のみならず、女はこう続けた。


「あと、そう、余談ではありますが……私が力を分け与えた二人の使徒は、こともあろうにいと高きサリアの教えから離れました」

「はあっ!?」

「……はあはあと。貴方は犬? それしか言えないこともないでしょう? 普段の如き低劣な口調も、別に私は気にしませんが」


 ――戯言を。

 力を与えただと……これがまずおかしい。初耳だ。吸血鬼に力を求める、そんな事は背信でもあろう。いや、この女が今この場にいる事実の前では今さら過ぎるか? しかし神の敵たる、人々の天敵である吸血鬼が力を与える……それは、つまり。


「別に同族にしたでもない。この身をそんな目で見てはいけないわ。私を火照らせてどうしようというの?」

「面白ぇ洒落だが、ツッコまんぜ……お前の言う事は、一事が万事胡散臭ぇ」

「それも商売の一環でして。自分の組織とは『何』であるか。忘れてはいないはずよ……使徒という貴方の職分の設定、私も関わりましたのに」

「ほざけや。んな話聞かされちまったら、こんな地位返上しても惜しかねえよ」


 宗教をそんな言葉で汚されてたまるか。貴様如きが人々の祈りを穢すな。


「……お前の言う事を信じるつもりはねえ。なあ猊下、法王猊下様よ、一等お願いがごぜぇます……アンタの隣の女を肥溜めに突き落とせとか命じてくれねェかな。今すぐ」

「…………」


 法王は。

 ただ、顎を一擦りした。それだけだった。

 いつもの何も読みとれない、読み取らせない目をこちらに向けもせず、ただ沈思している様子だった。

 舌打ち一つ、いや足りずに二つ、バッカスはカイネに目線を戻す。女は、話の中断などなかったかのように先ほどの続きを話す。それが……人間をどれだけ下に見ているかを露わにし、そしてその自覚もあるのだろう。コイツはいつも笑っている。


「一人は、彼女」

「ニーニーナ嬢か。そういやアイツ、お前のお気に入りだったな」


 カマをかける意味でも即断してみたが――んふ、とやはり笑うだけで是とも非とも答えず、カイネは言葉を継ぐ。


「あなたがそのように思うのならそれで。いま一人も……自分で探してごらんなさい。貴方もご存じ、刻印が目印ですわ」


 そう言って、またも女は親近感の欠片もわかない笑顔を向け、その僅かに開いた口元から牙を覗かせた。


 ……コイツの言葉を信じるという選択肢はない。そもそもまるっきりの出鱈目であってもおかしくない話だ。というより、そう考える方がよっぽど自然だ。

 あるいはカイネが本当に力を与えたとて、それは本当に二人か? 二人しかいないのか。二人もこんな奴に付き従ってた奴がいたのか。

 ……そいつらは、このアバズレの下僕にされてはいないか? ……そもそも伝説の内容は真実か? 吸血鬼とやら、本当に血を吸った相手を意のままに操るとか、そんな都合の良い能力を持ってんのか?


 様々な疑念が頭をよぎる。だが、その思考の隙間に差し込むかのように、カイネはまたも言葉を紡いだ。


「……バッカス・ドランクス。私を疎ましく思うのはいいけれど……それでもこうして正体を明かした誠意は汲んでほしいわ。サリアには貴方の力が必要なのよ、皆が平等に……温かき命を育める世界を作るために」

「っ! テメェなんぞが、気安く俺の理想を語るな!」

「おお――怖い怖い。気安く怒る、だから人間は恐ろしい」


 そう言ってなおくつくつ笑う女に怖気が走る。恐ろしい、そんな言葉をこんなに楽しげに口に出す者は生まれてこの方見たことがない。クソが、とだけ返しておいた。


 ……くだらない時間を取った。

 さっさと帰って酒でも飲んでいるほうが余程有意義だ。


吸血鬼カイネ……貴様よ、人間の天敵が何故人間に与している」


 既に心は出口に向いている。爪先もそちらに向けた。しかしこれだけは確認しておこうと思い――どうせまともな返事など帰っては来るまい、この女がここにいる、ただいるだけで致命的な矛盾なのだ――それを問うた。


 果たして、返事はあった。


「……私は、幸福に生きたいのです。本当に、ただそれだけ」

「人間じみた言葉を使うなよ、化け物が。おりゃぁ理由を聞いたんだ、動機なんざ聞いてない」

「女への詮索は良くないと聞くわ。あまり野暮天では心配になります」


 毛ほども思っていない科白を、これまた他人事のようによく吐けるもんだ。お前が俺の事なんぞ気にしているはずがあるまい。

 ゾッとするほど怜悧な顔のその女は、この世のものとは思えないほど優しげな、矛盾に満ちた顔でこう言った。


 ――貴方だって生きている。私と同じように。

 ――それなら望みくらいあるでしょう。私と同じように。

 ――優しい、差別のない、平等な世界を見てみたくはありませんか? ……私と、同じように。


 ……心の奥を覗き込まれて、穢された心持ちだ。

 それは、断じてこの女になんぞ触れさせて良い部分じゃなかったのに。


 俺は、その理想を追い求めてここにいる、そして今生きている。

 無秩序な状態が最終的に何を齎すかをかつて学んだからこそ、その実現をサリアに求めた。


 若かったな。理想だけでは世の中は回らないことを知った。

 そこらの坊主が口先で言う題目は、九割方が坊主自身信じてもいない絵空事だった。

 ……だけど、それだけでもなかった。

 汚いものも、世の中にはある。それは仕方ない。だからといって理想の追求を……その努力をやめる理由になんざならない。昔灯った埋火がまだこの体を動かしている以上は、だから、前に進むだけだと思っていた。


 なのに今、我が前に立ってニヤケ面で言いやがる己が身を寄せた組織のお偉いさんは、悪意を煮詰めて出来たような化け物ときたもんだ。


「…………」


 ……誰にも言えはしない。世界を救うという目的を掲げた教団のトップに人外の怪物が君臨しているなど。

 サリアが割れると、世界は終わる。

 世界で一番力ある宗教であるからこそ、そこに傷があってはいけない。今さらそんなことは許されない。

 サリアは、世界を救う装置として振る舞い続けねばいかんのだ。


 ……何故、コイツは俺にぺらぺら話すのか。本当か嘘か。何も分かりはしない。

 カイネが何を考えているかは知らないが、コイツは毒そのものだ。

 人間に対しての毒だ。どれだけ綺麗事を言おうが、コレは存在すべきではない。生を許してはいけない。


「…………」


 ……誰にも言えはしない。

 この女は、実のところ自分の快楽以上に重要なものを持っていない空虚な悪魔だ。衆民に存在を知られる事自体、人間の毒そのものになる。サリアの正当性を人々が疑うようになる。人々の祈りが穢される。


 だから。


 ――沈黙を保った後、バッカスは今度こそ最後に問う。


「……で? 今日のお喋りの論決はなんだ。裏切者は探して殺せって話か? そんなら名前を出さん理由はねえだろ」

「いいえ。ただ色々教えてあげただけ。この身は教えたがりなの」

「そうかい。わざわざのお呼び付け、どうもありがとうよ。ところで、捨て台詞の一つくれぇは許されるのかい?」

「あら、どうぞ?」


 ……アビスが死んだ目をするようになったのは、お前に呼び出された直後だぜ。

 その『教えたがり』とやらで、何人の人間を抉ってきやがった?


 お前が今まで何をしてきたか、どれほどの事をしてきたか。俺が何も知らんとでも……本当に思っているのか?


 ……はは。


 平等な、世の中を作るだと? 幸福に……生きたいって? 平穏平和な世の中で?

 お前が?


「お前ほどそそられん美人を、俺は他に知らん。故にな、誘うな。惑わすな」

「あらあら」


 そうして女は、うふふ、と上品にまた笑う。


 ……俺の描いた理想の中に、お前みたいな生き物は存在しねえ。


 ……間違いねえさ、保証してやる。邪悪とはテメェの事だ。その目……俺は、お前のその目が恐ろしくてたまらんよ。

 人間だからな。

 人間は、お前とは歩めん。


 馬鹿にしやがって。この小半時は我が酒浸りの人生で最も価値のねえ時間だった。


「……けぇるぜ」


 カイネのことはいつか己が始末をつける。

 そう思うことすらカイネの思惑だろう。構わない。

 少なくとも自分の勘は、あの女が悪だと囁いている。そうであるなら躊躇う理由はない。


 そう考え、背を向けたバッカスに向けて、今まで沈黙を保っていた法王は一言だけ告げた。


「ままに、為せ」


 ……御心のままにか。カイネの思惑のままにか。それとも己の信念のままに、か。

 どう動こうが構わねえってか。お前らの書いたくだらん絵図には欠片も傷がつかねえってか、ああ?


「……はん、謀略家どもが」


 いずれにせよ自分のやるべきは、今までとかわりはしない。



 ……頭目の暗殺指令が下ったのは、法王と吸血鬼との会見の直後であった。






 …………。

 悪魔の牙を受けたとしても。今目の前にいるこの男は、悪辣ではない。そうではなかった。

 子供を慈しむことが出来るなら、こいつは『人間』だ。あの女とは違う。畢竟、カイネの如くは疫病の如くだ。あの女、俺が知る限りでも相当だが、陰でどれだけ人の死に関わったものだか。きっとその際、変わらず美しく笑っていたことだろう。


 人を殺してなお美しい……そんなもんは生かしちゃおけねえ。人の世に、ホールズにそんな生き物はいらねえ。


 ……なあ。お前はアイツと違うだろう。

 過去がどうであれ……いや、過去など関係なく今生きている瞬間に誠を尽くせるのなら、まっとうな、人間になれるんだ。


 そのどうしようもないような、がらんどうの目をやめろ。

 人間の目ではない。死体の目。生きた人間が、死体の目をしていいものか。


 それがどれほどのことであるのか、お前は知るまいさ。俺だって知らん。

 だがお前、己がどれだけの命を奪ってきて――ああ、カイネと違って俺はさぞ醜かろうさ――その上でこの手を止めさせるに足る目をしてしまったのだと、なあ若白髪。お前、知る由があるまい。


 ……目の前の男には、本当に何もないのだ。


 悪意も。

 薄っぺらい死への憧憬の下に垣間見えたのは、ただの空白だった。



 ……ならば、酒も煙草も嗜むいくらか破戒の身であっても。神に仕える者としては、救わん訳にはいくまい。

 本当に空っぽになると……そうなっちまうとな、あの馬鹿女みたいになっちまうんだぞ。



「……ひっでぇツラしてやがら。なあおいお前、耳かっぽじってよく聞きやがれ」

「……は?」


 結局男に向けて自分の口から出たのは、こんな言葉だった。


「お前はここから、生まれなおせ」



 ――――――――――――――――――――


 生まれなおせ。


 そう言っておっさんは、僕の髪から手を離した。その目には、もう殺意なんか浮かんでやしなかった。




 ――それが許せなくて僕は。


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