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シンプルクエスチョン

 絨毯の引かれた床にキスをした。熱く切ないキスをした。

 燃えるような熱さが、ぶつかった唇から湧き上がってくる。どくんどくんと、心臓が高鳴っていく。こんな感情、初めて……。

 これが恋? ……であるならば。今、僕は――本当の恋をしている。


 無論嘘である。


 唇というか顔が熱いのは思いっきりぶつけたからで、こんな気持ち悪いポエムが頭の中に流れてきたのは、むしろ自分にとって拭いようのない恥であった。一刻も早く忘れたいものである。


 ……ここまでの思考全てが、現実逃避でしかない。

 心臓がイヤな悲鳴を上げているのは、今もなお僕が床への口づけを続けている理由そのものであり、断じて勘違いなんかじゃなかった。


 先程こちらに掴みかかってきた髭親父は、口こそ悪いが割とお人好しというか、とにかくこちらに本気の悪意を向けてくるような性質ではないと短い付き合いながら勝手に思っていた。

 何故ここにいるかという問いに上手い答えを用意できなかったのは自分のミスかもしれないが、口が裂けても言いたくないことだってある。いっそ殺されても、自惚うぬぼれた言葉を僕は言いたかない。


 ……つまり、僕はこのおっさんをナメていたので、あんなふざけた態度を取ってしまった。そしてそれは、致命的な失敗だった。

 どんなでっち上げでもいいから、おっさんを煙に巻くべきだった、いやむしろヤヌスちゃんをガン無視して逃げ出すのが正解だったのではなかろうか。もし命が惜しかったなら、何が何でも僕はさっさとこの屋敷を出るべきだったのだ。


 今この瞬間を鑑みて、どうか。


 顔を上げてもいない、つまり僕は相手の顔を見ていない。それでも感じる、肌を泡立てるほどの……この感覚。心臓が委縮するほどの、この圧迫感。

 彼が抱いているのは、悪意であろうか。あるいは、それをも孕んだ警戒心であろうか。いずれにせよ、こちらに対して好意的なものでは全くないとの予想は、絶対に外れてはいないだろう。


 チンピラを退治した後に僕をからかっていた時の、あの一種好々爺じみた空気は全く感じられない。

 今ここにいるのは、疑いなく人外並みの暴力機能を持つ、正体不明の何かしらだ。そしてそれに停止っていう洒落た機能なんか備わっちゃいない……対応を間違えれば、彼は僕を殺すことに、躊躇など一切しないだろう予感があった。


 それは正しかったようで、おっさんは四つん這い以上に体を起こさないこちらに焦れたか、髪を掴んで無理やり立ち上がらせて視線を合わせてきた。正面からこの人を見るのが怖くて、すぐに逸らした。

 それを咎めるかのようにその手に籠められている力からは、頭皮ごと僕の頭を引っぺがすことも一切辞さないだろうことが伝わってくる。


 顔が近いだの、酒臭いだの、そう言った軽口が言える空気は微塵もない。彼は、いっそ殺意すら感じるほどの威を籠めて僕の事を睨み付けている。


 ギリギリと食いしばられた彼の歯の隙間から、一つの質問がこぼれた。


「お前は、何者なんだ」


 先ほどと趣旨は同じ、だが込められた深刻さは比べ物にならない問い。……何しに来た、でもない。何故ここにいる、でもない。本来重要であるそれらを無視した、ただこちらの正体を明かせというシンプルな質問。


 これを明確に問われた時点で、僕の死は確定した。


 だって、それは一番回答に困る類の問いだ。僕の事は僕自身が知りたくて、だけど必死になれるほど興味も持てなくて、ただ自分がここにいることを自覚してから見て見ぬふりを続けてきた。一番自分が興味を持つべき自分という存在に対して、僕はそれを今の今まで怠ってきた。


 ……僕の事なんか、知っても何にもなりゃしない。僕に価値なんかない。

 お前なんか、最初っからいなければ良かった。

 この世の中で、ただ一人お前だけは、はじめっから生まれてくるべきじゃなかった。


 そんなことを、頭の中にいるもう一人の自分が延々と小声でささやき続けている。この街で目が覚めてから、今この瞬間に至るまで、飽きることなく延々と。


 それを気にしないでいられたのは、もっともな話だと僕自身疑わなかったからだ。

 いや違う、違ったな……疑う事が出来なかったんだ。

 理由は分からない、何故と思う事もなくただそれを確信できた。

 つまり、僕は多分、元々がどうしようもない人間だったんだ。頭がパッパラパーになった今、残ってた良心が僕の事を罵倒してるんだきっと。

 僕ってば、余程迂愚で悪辣な人間だったに違いない。


 ……今の今まで死ななかったのは、積極的に死ぬ理由がなかったからだ。惰性で、この街で流されるままに人から憐れみを受けて生き延びてきた。きてしまった。

 そしてそうした怠慢こそ、今、僕が命を失う原因となるだろう。だから死ぬ。僕はきっともうすぐ、この人に殺される。


 ……僕は、あの化け物から逃げていた時、死にたくないと思っていたのではなかったか。それがどうして今、こんなにどうしようもなく命を諦めることに前向きになっているんだろうか。


 ……それは、きっと二つ理由がある。


 一つは……もう目の前のやるべき事が済んだからだ。言葉にしたくない。意識に上げたくもない。ただ、みんな怪我をしないで家に帰れたらいいなと、ぼんやり思ってすぐに頭からかき消した。


 もう一つは。きっとこの人が、僕の一番ムカつく類の人種だからだ。きっとこの人は、人を助けて生きている『なんちゃら』って奴で、そんなこの人に殺されるなら、僕は悪党って奴なんだろう。


 だとすれば、是非もない。

 自分が殺されることに正当性が貰えるのならそれは、ほんの少しだけ嬉しい事だった。


 ……価値はないかもしれないけれど、さっきまでとは違って、僕の死に少しでも意味が生まれるのなら。

 それは、悪くないかなって思った。

 刻印ってのが何かは知らないけれども。彼の言を信じるなら、とりあえず僕の体には、僕が生きていちゃいけない根拠があるらしい。

 なら、僕は今ここで死ぬのが正当なのだろう。



 ――だから、へらりと笑ってみた。



 別にそうしようと思ったわけじゃない。ただ、顔の力を抜いたら、自然にそんな表情になった。


 ――そんな僕の間抜け面を見て、目に力を込めたまま、髭のおっさんが口を開いた。

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