刻印
ヒミズと名乗った暗殺者を、バッカスがいつもの流儀で始末した後の事。
今夜の殺戮の舞台になったこの屋敷を検めるため、まずはヒミズ自身が口にした死体の置き場所を確認しようとして部屋に向かったところ、中で気配を感じた。
……殺気はないが、気配が弱い。生き残りか、あるいは奴が見届け人でも置いていたか……それとも全く別の曲者か。どの道、ここにいる以上無関係とは言えまい。
こちらに気づいている様子はない。であるならば、まずは先制をぶちかます。
誰だと威を込めて怒鳴りつけ乗り込んでみれば、クソなっさけない声をあげてへたり込んだ奴がいた。
「……何者だテメェ」
「……んぇ? ……あ」
乱れた髪で顔を隠したそいつは、その隙間からこちらに見開いた眼を向ける。どこか見覚えのある瞳だったが……自分はこんな女は知らない。
だが、その口元が僅かに動いたのは見逃さなかった。
女は確かにこう言った。
『ヤッベ』。
……胡散臭さが極まっている。取り調べるには十分すぎる。
「答えろ。ここで何してやがった」
「……ちょ、ちょっとお花摘みに」
そのすっとぼけた回答に、警戒心が沸き上がる。隠す気などない、その必要もない……内心を忠実に映しているこちらの表情に、相手もまずいと悟ったか、顔を手で隠しながらそろそろと立ち上がる。
「あらあら喫緊の催し物が。お部屋を汚してはいけませんので、これにて失礼。ほほほ」
「待てやコラ」
「あひん」
……そっとそのままこちらの後ろを抜けようとした女の肩を掴み、動きを止める。
取り合えず、こいつがどういう輩であれ神妙にさせた方が良さそうだ。
怯えている相手には、分かりやすい恐怖を与えれば意識が方向付けされる。つまり話がしやすくなる。
もしこいつが万が一にも不運かつ善良な一市民である場合を考えれば、最善の手段ではないことは理解している。
優しい言葉をかけて落ち着かせるという方法もあるにはあるが、この状況において自分はやらないし、出来ない。
背中を刺されるリスクを負いながら慰めたり宥めたりするのは馬鹿のやることだ。
そういうリリィのような馬鹿は、馬鹿なりの武器があるからそんな手段をとる。
自分が持つ武器は、多分暴力だけだ。だからこそ、無分別に使う事もない。
が、必要があれば躊躇はしない。
掴んだままの肩を、ギリギリと締め上げていく。大人しくしていれば痛くはしない、が、暴れるのであればその限りではない、と、その意図が伝わるように。
「らめぇ! お見逃しを、お慈悲、お慈悲を!」
「慈悲だぁ? 祈る相手が違わぁ、俺は神様なんかじゃねえよ」
たとえ使徒という役どころをもらっていようが、人の懺悔だのを黙って聞ける性質でもない。いかにも世間の想像する神の代理人じみた態度は、そういうのが得意な奴にやらせておけばいい。所詮こちとら、教役の認可は一度試験に落ちてそれっきりだ。
この女、抵抗する……というつもりはない様子ではある。だが、何にせよ事情を聴く必要がある。
そう思ったところ、口を開こうとしたこちらの内心に合わせるように、女は肩を掴まれたまま足だけの動きで僅かに絨毯を削った。後ずさろうとして失敗した様子のそいつは、苛立たし気な目をこちらに向けてきた。
「くそったれ、見りゃ分かるよこの汚ヒゲ! 頭ン中腐ってんじゃないの!?」
「んだと!? だからこの髭は――あん?」
これまでわざとらしいほど甲高かった声が、いきなり低くなる。
恐らく地声だろうそれは、どうも聞き覚えのあるものだった。ついでに、先ほど目を見て感じた疑問も、ようやく氷解した。
「お前……その声、その髪の色……まさかあの物乞いか!? 気色わりぃ、なんだその恰好!」
――まさかとは思ったがお前、やっぱりそういう趣味だったのか!? ……と。
バッカスは疑惑の眼差しを向けた。
「ほらすぐ怒る! すぐ怒鳴る! だから大人は嫌なんだ!」
――あとやっぱりって何さ! ぼかぁノーマルだよ! ノーマルだけど女装癖の人に謝れ! 意外に、うん、意外に悪くないもんだぞ! ちなみに美人の男装は凄いそそるんだぞ! 確か昔そんなん見た気がする! ……と。
男は、必死で自分の性癖を擁護する。あるいは暴露する。
「おめぇは成人だろうが! ガキみてぇな、何ふざけた事言ってやがる!」
――ふざけんのは格好だけにしろ! ……と。
バッカスは至極真っ当な事を言った。なお、男の発言の途中からは聞かなかったことにしておいたため、特に何も言わなかった。
「ほらほら! おっさんアンタね、前は僕なんかガキと変わんないって言ってたのに!」
――すぐそうやって都合の良い事言ってさ! だから大人はズルいんだ! ……と。
いい歳をしてなお甘ったれが、己の身を省みず自己弁護に終始する。
「ウゼぇ! うるせェ! まとまらねェ! とにかくなんでここにいんだよ! 言え、場合によっちゃタダじゃおかんぞ!」
ともあれ、遠慮する必要のない相手であったと分かり、バッカスの手に力がこもる。
それによって、掴んでいない側の服の亀裂が僅かに進み、そちらに目が向いた。
「いたいた痛い! やめてってばさ! 痛くてホントにおしっこ漏れる!」
「抜かせ馬鹿やろ……っ!? ……お前、ソイツぁ……」
思わず手を離したため、男は逃げようとした勢いのまま、地面に顔から突っ込んだ。
「あふん」
……そんな間抜けな声も耳に入らぬほどに、目に映ったものに衝撃を受けた。文字通り目を疑った……いや、今この瞬間も疑っている。
この男の肩に刻まれているもの、それは。
「カイネの刻印……お前、それをどこで……」
――吸血鬼。
それは魔族や獣人、人に似た姿の敵が実際に存在するこの新世界において、酷く曖昧な『何か』だ。
人の中にはその実在を信じる者もいて、あるいは鼻で笑う者もいる。
人間にとって、子供を寝かしつける為の物語の中に良く出てくる、悪役に関わるモノ。
魔族らの一種として、しかし『悪い子』でいるならお前もそうなってしまうぞ、と、いかにも子供を躾けるには都合の良い存在として、『悪しきもの』の代名詞として……幼い頃から良く聞かされるモノ。
都会で気安く『実在する』などと口にすれば物知らずな事を笑われ、田舎では年寄りが、出会ってしまった時の対処法を酒臭い息とともに教示する類のモノ。
……魔族らが、人間以外をも食することができると知られてから……ヒトの血液や花の精気によってのみ食事を構成するという吸血鬼の不自然な生態は、ひどく馬鹿げているものにも見えよう。いかにも胡散臭くわざとらしい、作り話の賜物だとも断じ得よう。事実、そういった人間は増えてきている。何故って、稀に……安全な位置から見かける一般的な魔族らと異なり、自分の目でその存在を確認したことがないから。
……されど、それでもやはりその上で、実在が根強く信じられているモノ。
……教団における最高秘匿の一つとして、詳細については厳密に、人の目に触れないように封印されたモノ。
……全て、初期のサリアがかつて人々に、そして自らの組織に仕込んだことだ。
旧世界が滅びた後、彼女がサリアに入り込む前に、とある誰かがこの新世界に打ち込んだ一本の釘。それは、このような御伽噺という形で、何百年という歳月を経てなお残っている。
その意図は、次のとおり。
吸血鬼の存在を忘れず、しかし恐れないように、と。
――恐怖存在……ヒトにとって余りに都合の悪い彼女という存在が、この世界に実存していること。その事実を忘れず、しかし人間の敵であるあの娘を恐れないように。人が前向きな人生を送る為、恐怖によってその足を止められないように。
……ねえ君、だけどもさ――。
……人々は吸血鬼にまつわる様々なストーリーを耳にしたことがあるだろう。だが、これらの感動的であったり陳腐であったりした物語にはいずれも例外なく、人々が打倒し得ないあの怪物に対する唯一の……悲観的で絶望的で、どうしようもなく消極的な、それでもなお唯一の処方が示されている。
そう、旧世界においてサリアとは、元来医の追求者たちであった。
吸血鬼の存在を後世にかくのごとく伝えた物語は、正しく処方箋というべきであった。
……新世界において綴られた吸血鬼を扱った物語は、誰かが幸せになったり、不幸になったり、生き延びたり、死んでしまったり。また、吸血鬼も絶対者として君臨していたり、けったいな弱点ーー白木を心臓にさせば嫌な顔をする、ニンニクを食べれば三日は見かけなくなる、十字架を見せれば罵声を浴びせて姿を隠すーーを晒していたりと様々な過程と結末が用意されているが、一つだけ共通する要素がある。あるいは、その要素を取り入れることを拒んだ物語は、異端として焼き捨てられたともいえる。
なんにせよ、その要素とやら、結論はこうだ。『吸血鬼は殺せない』……例え、どれだけの弱点が用意されていたにしても。
これは、吸血鬼が登場する物語の存在が許容されるにあたり、厳格な制約、絶対的な条件としてサリア教団により措定されている。
最早この常識を疑う者は、僅かな例外を除きこの世界、この世代の人類には存在しない。しかし今なお、これは犯すべからざる禁忌である。
……『吸血鬼に手を出してはいけない』という、人類にとって最も重要な教訓を残すため、『吸血鬼は殺せない』という、不可解な言い伝え、あるいは知恵、もしくは事実は、厳然として在り続ける――。
……バッカスは、瞬き一つせず、見開いた目で女装男の肩を見つめ続ける。
その物乞いの肩に浮かんでいたのは、人類最大の禁忌が一つ、忌まわしきかの『吸血鬼』に関わるモノであった。