バックトゥザ
「……なんで逃がしちゃったんだろ」
見えない誰かが出て行った後、残された部屋で、ぽつりと呟いた。
――まるで、ソプラノの時の焼き直しね。折角の獲物だったのに、貴方はそんな事ばかり――
……間抜けに突っ立ったまま開け放たれたドアを見て感じるのは、虚無感だ。
ヒリヒリした空気がいきなり平常に戻った所為か、空気が少し冷たく感じる。
――理解できないものに直面したら、人は好奇心か恐怖心を感じる。そしてそれらは、いずれも人を殺すもの――
――あの場での唯一の正解は、逃げる事。あの者は、きちんとそれを選択できたのに――
……だって、あの人きっと泣いてた。そりゃ、あんだけ好き勝手やられたからムカついちゃいたけど、泣かれちゃしょうがないよ。しょうがない。だって、あんまりにも気の毒じゃないか。許してくれ、だなんてさ……。
――ああ、折角逃げられたのに、哀れなモグラは絶息してしまった。可哀想に――
――まあ、役には立ちましたけれどもね――
……取りあえず、もう危険な時間は終わったんだ。じゃあ……あれ? どうしよう。
そもそも何であんなことになったんだっけか……ああ、思い出した。ヤヌスちゃんが人質になってたんだった。そうそう、あの子は無事かしら。
ええと確か、彼が脇に抱えてて、その後放り投げられて……変に執着すると弱味だと思われるからほっといて。そんで。
そうだそうだ。縛られた状態で捨てられちゃったもんだから、顔から落ちてそのまんまあっちの方に……。
「……そろそろ助けよ」
「あ、あ、ごめん。忘れてた」
慌てて駆け寄り、ヤヌスちゃんの拘束を解いていく。
乱暴に扱われてやしなかっただろうかと、無事を確かめるためにペタペタ体をまさぐっていると。
「……この身を穢されては困ると、そう言ったはずだが」
「だからぁ! まるでこっちがいやらしいことしてるみたいに言わないでくれる!? 怪我がないか確認してるだけでしょ!?」
「手つきがいやらしい。目つきもいやらしい」
「生まれつきィー! 手つきはまだしも、目つきは生まれつき! 多分!」
「存在がいやらしい」
「そんなん言われちゃ言葉もないよ!」
「くふふ」
「初笑いがそれ!? 君の初めての笑顔、こんな形で見たくはなかった!」
ぽんぽんとお尻を叩いて立ち上がった謎子供は、頭から落ちかけたフードをかぶり直してこちらを見上げる。
「……完全な覚醒には程遠い。しかし、一定の成果は見込めた」
そして相変わらずの謎ワードを放ってくる。
覚醒ってなんだよ。僕、なんかに目覚めるの? 謎子供と出会って謎パワー手に入れちゃうの?
……そんな都合のいいもん、世の中にそうそうあるかい。
「禍々しき在り様ではあったが、汝はこの身を助けた。ならば、資格は失われていないという事」
「視覚? ……ご覧のとおりの有様だけど?」
折角整えた髪の毛は乱れに乱れ、左目がないだけじゃなくて、その周辺が火傷痕とかでボロボロになっている様子は見えていることだろう。変装する為に包帯はつけらんなかったし。
しかしヤヌスちゃんは、呆れたように黙って首を振るだけだった。失礼なやっちゃ。
そもそも、助けた?
……誰が、誰を?
(……?)
一瞬感じた、足元の揺らぎ。
……いや、違う。これは目眩……?
――そろそろ限界かしら。まあ、この子にとっても負担が大きいから仕方のないこと――
……僕は、自分が死にたくなかっただけだ。僕には誰も助けられやしないよ。助けたっていうなら、精々が縄を解いた事くらいだ。
一体何回この言葉を繰り返させるんだ。僕には、なんもないんだよ。
守るべきもんすらないんだ。所詮は僕だ、一人ぼっちの惨めな物乞いだぜ。そもそも、そういうのは嫌いなんだよ。趣味でもないし、僕らしくもない。というより、むしろ対極にある感じだろ。
……おええ、気持ち悪い。頭がぼーっとしてきたのもそうだけど、すっごい嫌な事を考えてる所為でもありそうだ。
誰かを助ける……そんなのは、物語の中の正義の味方とか、そう、口に出すのも怖気が走る、英雄だとか……。
――それでは、この身はまたしばし眠りにつきます。ですが――
――子供め、思いあがった事を言う。この子はか弱い者や泣く者を見捨てられないだけ。傷つけられないだけ。例え使徒や、刃を向けたあのモグラであってもそう――
――まして、私に対してすらそうだったのだから。お前の様な幼い身ならば尚更――
――だからこそ、強く、そして泣くこともなかったアビス・ヘレンや……リリィという女は――
「黙れよ」
「うっきゅ!?」
ヤヌスちゃんがビクリと飛び跳ね、それでこちらもつられてビクリ。
その衝撃で、ぼんやりとしてた頭がいきなり覚醒した。
「あ、いや違う。君じゃない、君に言ったんじゃない。ごめんごめん」
「……そうか。では、今の文言は誰に?」
「え?」
――今宵はこの辺りまでとしておきましょうか。久しぶりで、私も少し疲れましたし――
――我が子よ、貴方にも健やかな眠りあれ。それでは、また、ね――
……誰、って……誰にだ? ってーか僕、なんて言った?
あれ? そもそも、僕、なんでこんなとこいんの? さっきまで……あれえ?
そもそもなんでこの子が目の前にいんの? ……いや、たった今まで確かに僕は、この子となんの疑問もないままに話をしていたような、気がする、けど。
キョロキョロ辺りを見回してみると、なんか自分の記憶と景色が全然違う。
「ねえヤヌスちゃん、ここどこ?」
「……館の三階だが。汝は何を言っている」
「ええ?」
再度周囲を小動物のようにキョロキョロ。
「……あっれー!? おっかしいな、僕、さっきまでなんかよく分かんないのに追っかけられてた気がするんだけど!」
……ヤヌスちゃんが宙にいきなり浮かび上がって、で。怖くなった僕は逃げ出して階段をのぼってった筈なんだけど。
えええ、何これ。なんだなんだ、あの見えない化け物はどこ行ったんだ!?
確かに覚えてる、何かを投げつけられたり、殺意が自分の体を取り巻いて、体が重くって、ぜーひー言いながら逃げ出したことはちゃんと覚えてるのに、その後……なんでだろ、思い出せない。
……何がどうなったの?
「って、ヤヌスちゃん逃げられたの? 無事? どこも怪我はない?」
ペタペタ触ると、ヤヌスちゃんは嫌そうな顔をしてこちらの手を振り払った。
「触るなというに。折を見て胸元をまさぐるのはやめてもらいたい」
「そんな事してないじゃん! 安否確認じゃん!」
「先程も触った。それは既に済んだはずだろう、なのに今も。いくらこの身が幼いとはいえ、少々気遣いの不足がすぎる」
「……さっきって、地下から出た時のこと?」
そう言うと、ヤヌスちゃんは酷く不可解なものを見たような顔でこちらを覗き込んできた。
……まるで、話がちぐはぐで、噛み合っていないかのように。
「……覚醒の弊害か。面倒かつ面妖な」
まあいい、と一つ溜息を吐いて、ヤヌスちゃんはこちらにくるりと背を向けた。が、かっこつけた動作をした癖に躓いてよろけた。
可愛らしかったので思わず吹き出したが、振り返りつつの一睨みを受けたので慌てて口を右手でふさぐ。
「用は済んだ故、この身は一度鳥籠へ戻る。カイネが笑って許すうちに」
「……だからさ、カイネってのは一体どこのどちら様?」
「……今一つ、教えておく。カイネはメルクリウス――即ち烙印の流浪者故、温度を持たぬ。よって背信の蛇は奴を捉えること能わず。奴のみならず、この身をすら識ることも最早叶わず。であるからして」
――汝が為せ。天意を果たせ。
……最後まで人の話を聞かない不思議なお子ちゃまは、そう言い残して去っていった。