蛇と日不見
――見えている、はずがない。己のギフトは完全に機能している。
ヒミズは、目の前の女に対して、警戒心を強めながらも自分の能力の完全性を再確認する。
体臭もない、足音も消している。
……しかし、異常聴覚持ちである可能性もある。発声していないときにこちらの位置を捉え、あまつさえ顔の位置まで認識した以上は、己の呼吸音を探った可能性も捨てきれない。
……ただの、使徒でもない人間相手に自分の位置が見破られるなど、業腹の極みではあるが。だとすればなおさら、こいつを生かしておく理由はなくなった。
だが先ほど、己の武器を……鉄でできた鏢を口で捕らえ、挙句噛み破った原理については、まったく正体が掴めないままだ。
生憎、魔力やマナの変化について自分の感覚はあまり鋭敏ではない。魔力を用いたものではあるのだろうが……。
(人間にしか見えんが、隠棲していた魔族の類か……? いや、構うな。なんにしても、使徒が来る前に始末せねば)
最早、声も出しはしない。息を潜め、背後に回って首を掻っ切る。
一瞬だ。一瞬で接近し、一瞬で背中を取り、一瞬で殺害する。例え魔族であっても素人相手であるなら、子供を抱えていても強化したこの肉体であれば難なく行える。
そう思い、呼吸を止めて一歩足を前に出そうとした瞬間。目を疑う事態が起きた。
ただの獲物であるはずの女は、こちらに向かって真っすぐに駆け出してきた。
その速度は尋常ではない。
『な……!』
(動きが、変わった……!?)
慌てて回避したものの、相手は二度三度首を捻り、そして明らかにこちらを認識した様子で、視線を再度向けてきた。
(み、見えて……いるのか?)
……細めた目でこちらを確認するような様子から、ギフトの影響は受けているのだろう、完全には見えていないらしい。だが、確実におおよそ見当をつけられている。
それが理解できた瞬間、ヒミズの背に冷や汗が流れる。
「……あなたさあ。ヤヌスちゃん返してよ。折角お外に出したげたのに、なんでまた捕まえるの。おかしいでしょうよ、それ」
『…………』
当然、返事などしない。呼吸まで止めているというのに、そのような間抜けな事はしない。相手が聴覚でこちらを捉えている場合なら、それはなおさら悪手だ。例え出所を消したとしても、精密な耳を持っていれば痕跡を辿られるかもしれない。
「……かくれんぼは終わりだよ。目の前にいるのに捕まんないなんて……ルール違反じゃないか」
最早、手加減の必要などない。手段はまるで分からないが、相手がこちらの場所を認識できているのだとしたら、ギフトに頼らず殺すだけだ。
自分とて、正当な殺人手段を極めた者だ。たとえ目の前の相手が己を捉えていようと、真っ当にやり合えば負ける筋はない。
しかし、一つ確認しておくべきことがある。
……す、と子供を抱えていない方の手を僅かに上げてみる。空気も揺らさず、関節の軋みも消し、袖も擦れぬよう静かに。
すると、やはりというべきか、敵はこちらの動きに反応した。
『……音では、ないか。貴様、何故おれの位置が分かる?』
万が一にも、今後の仕事や使徒の殺害を行うにあたって自分の技に傷があるのだとすれば。折角の機会だ、修正するのが得策であろう。
正直に言うとも思えないが、殺す前に一応問い質しておいた方がいい。そう思っての発言に、相手は数瞬の間をおいて、言葉を返してきた。
「……ねえ、あんまりじゃんかさ。酷すぎるよ」
『……?』
しかし、その内容は意図が読めないものだった。
『……答えろ。おれをどうやって捉えている』
「こんなに人が死んでる。供養もしないで、ゴミを掃き捨てるみたいにひとまとめにして。あなたがやったんでしょう? せめて、尊厳くらいは残してあげれば良かったのに」
『質問しているのはおれだ。答えろ』
「……これじゃ、ただの肉塊じゃないか。良心の呵責もなかったのか。こんな風に、見せびらかすみたいにさ。あなたがちゃんと後始末もしないもんだから、僕はあんな……あんなおぞましい……お前の所為だ、お前が悪いんだ……」
話にならない。こちらの言葉を、まともに聞いていない様子だった。
『……気狂いが。もういい、最早時間も惜しい。お前はここで果てるがいい』
僅かにも役に立たぬのなら、もうこれ以上生かしておく理由もない。
そう考え、ヒミズは懐からナイフを取り出した。
「……お前も僕をそう呼ぶのか。……コイツがあんな真似しなければ……あんなもん見せなければ、僕ぁまだまともでいられたっていうのに……」
が、その瞬間。女はぶつぶつと囁いていたかと思うと、こちらに再び向かってきた。
好都合だ。こちらにもう慢心はない。首だ。獣のように来るのであれば、獣のように仕留めてみせよう。
ヒミズは、女の頸動脈を狙い、ナイフを突き出した。
が。
(――!? はやっ……!?)
己の顔を隠すように右手を掲げた女は、そのひらめく袖口でナイフを防いだ。そのままでは無論勢いを止めるには至らず、しかし避けねば当たっていた筈のナイフの刃先には、一切の感触がないまま。
すぐさま手を引こうとしたが、撫ぜるように降りてきた右手が己の肘に触れる。
その感触はあまりにも優し気で、殺し合いに似つかわしいものではない。親指と小指でわずかに関節を絞るように握る感触は、力こそまるで入っておらず、しかし悪意に満ち溢れていて。
――その温度差に己の第六感が反応した。
『……っ!』
慌てて、今こそ先程すべきであった行動をとる……腕を引き抜いて、飛びのく。己の口から洩れたのは安堵の溜息。女は右の手のひらを上に向け、首を捻っていた。
ぷらぷらと手先を揺らし、人差し指をペロリと舐め取る。ほう、と服に空いた穴に惜し気な目を向けていた。
「……逃げちゃった。ドジョウみたい」
子供のように指を一吸いして離し、残念そうに唇を尖らせている様子は奇妙な色気こそあれ呑気なものにも見えたが、腕を引かねば洒落にならない事態に陥っていたことだろう。
あのまま……肘が伸び切ったまま挫かれていれば、腱ごと破壊されていたに違いない。これから使徒を相手にするどころか、治療をしても今まで通りの動きが出来なくなるかも怪しい。いかにも極悪な折り方だ。
しかしそれを片手で、しかも武器を持った相手に行う……? 真っ当な格闘では見たことがない。己の知らぬ異国の、それも高等技法か。
あまりにも正当から外れた動き。だが、魔力強化による膂力にただ任せた素人ではないことは明らかになった。なおさら、警戒の度合いを引き上げる。
『……侮っていた。もうただの女とは思わん。全力で始末する』
そう声をかけると、相手はぐりんと首を傾げて、こちらを下から覗き込むようにして目線を向けてきた。
「あっは、ちょっと嬉しい」
『……? 何を……?』
「やっぱり僕今、ちゃんと女の子に見えるんじゃんね」
『……貴様、男か。何故そのような格好をしている』
「失礼。趣味です」
――ひひひひひ、と。薄気味の悪い笑い声。
女改め謎の女装男は、髪で隠れていない右目をいかにもわざとらしく笑みの形に歪めて……それは、あまりにも邪悪に見えた。