バッカス・ドランクス
……陰鬱なところだ。
サリア教団の使徒バッカス・ドランクスは、軍事国家フォルクスの小さな地区、その一角を歩きながら、己の今いる場所をそんな風に評した。さして見当はずれな感想という訳でもない。どこの国でも、経済的に困窮した者が集まった地区というのはそういうものだ。スラムというほどではないが、この辺りは裕福な者が集まるところではない。
珍しくもない光景、そこに対してむしろ、未だにそんな感慨を覚えた自分に違和感すら覚えた。
……聖祭、それはサリアに連なる者にとって、記念すべき日である。
その日も近いというのに、露店の一つも出ていないこの辺りの寂れっぷりが、本来そういうものに頓着しないはずの自分の気持ちをささくれ立たせているのか。
自身、さして裕福な生まれでもなかった。この地区の子供らの幾人かが恐らくやっているように、スリなどの汚れ仕事に手を染めたこともある。
しかし、そんな自分の幼少期ですら、祭りの日となれば近所の人間がこぞって楽しそうに道を飾り立てていたのを思い出した。
翻って、あれから三十年以上、今ここにいる者たちの活気のなさはどうだろう。
「…………」
そこまで思い至ったとき、まるで、今の自分が彼らよりマシだと……そして自分は昔より上等な仕事をしているとでも言わんばかりの傲慢が自分の内心から現れていたことに気づき、嫌悪感すら覚えた。
青臭くはあるが、それでもこのような感慨を捨てることもしたくはなかった。
昔、それは喧嘩くらいはしたものだが……人殺しなどは忌避していた。それは、自分やその仲間の間では、当然の認識であったのだ。
そんなことを気安くする奴は、皆先に死んだ。
その点、まだ自分は恵まれていた筈だったのだ。親はいなかったが、それを恨んだこともなかった。両親が死んだのは物心つく前の話で、そんなことは当たり前として受け入れ、似たような育ちのものが支えあって生きてきたから寂しくもなかった。
……自分は、恵まれていたのだ。
そんな自分が、今は敵の血肉を散らすことで生活の糧を得ている。
後悔はない。ただ、自分にはそういうことをする才能があり、サリアという宗教団体がそれを見逃さずに拾い上げただけのことだ。
……暴力が、平和の一助となる。この世界では、当たり前のことだ。
たとえ、そこに種々の差別矛盾があろうとも。
だから、今の自分を軽蔑するでもない。しかしただ、一つの後悔があった。
そこいらにいる住民たちでも当たり前のようにしていることを、自分はしていない、そのことについて後悔していた。
このような生産性の低い……と一般的に言われている者ですらしていること、彼らが絶えることなく存在している証明。
……家族を作る、そういったことを自分は五十路目前になるまでしてこなかった。
だからこそ、子供が父の手を引き駄々をこねる様子を見るのは、好きだった。母に甘える様子は、胸の裡から憧憬を引き出した。
そのような様子が、この地区ではあまり見られない。それがどうも、気に入らなかった。
まるで何年経とうとも、人間は成長もせず、世界は困窮と不安に淀んだままだと突きつけられているようで……というのは、考えすぎだろうか。
取り留めもないことと分かっていながら、しかし愚痴を言いたくもなる。
顎周りの髭をさすりながら、バッカスは口元をやや隠しながら近くに誰もいないことを確認した上で、ぽつりとこぼす。
「……魔王がいなくなってもこれじゃ、甲斐がねえな。ニーニーナ嬢め、横着しやがって……」
この、教団内部では一年前から周知の事実が、未だに世間に(噂話としては流布しているものの)公表されていないのも、結局魔王の首を得ることが叶わなかったからだ。
衆民は聡く、愚かだ。
目に見えるものがあれば疎かなものであっても飛びつき、目に見えなければどれだけ確からしくても疑う。
だからこそ、魔王がこの世から使徒の手によって葬られたという事実が、目に映る形で必要だったのに。
……魔王が没した。そのような証拠なき朗報は、たとえ公表していたとしてもその直後に起きたイスタのティアマリア陥落という絶望によって全く信憑性のないものとなっただろう。
サリーとアビスは責められない。ティアマリアの防衛にあたっていた『先生』も。
『先生』は多少なり疑わしいが、それでも彼らは己の職責を全力で果たしたのだろうから。
しかしニーニーナなら、魔王が本当に力を失っていたのだとしたら、その首を持ち帰ることなど造作もなかっただろうに。
上層部は当然訝しんだものの、結局彼女を処罰するでもなく、ただ魔王は滅びたという報告を受け入れた。
……自分が同じ立場で同じことをすれば、恐らく許されまい。
一体彼女は上層部とどんな取引をしたのだろうか。あるいは、どんな弱みを握っているというのか。
……あるいは。
……やはり詮無い話だ。
バッカスは、変に目立たぬよう態々選んだ安物の葉巻を取り出して吸い口を切り落とし、先を軽く火で炙りながら気持ちを切り替える。
「まあ、いいさ。所詮人間、出来ることを一つずつ……ってな」
黒ずんできた葉にようやく火をつけ、二、三度吸い込んでようやく、今回自分がここに訪れた理由に思考を向ける。
……この近辺で幅を利かせる、『頭目』と呼ばれる男がいる。
バッカス・ドランクスは、その男が異端者であるか否かを調査し、もしそうであれば殺害することを目的としてこの地に足を運んだのだ。
いいや、こう言う方が正確だろうか。
その男は、これまでは教団に違法な薬物の売買で得た利益を上納金として納めてきた。
その男は、最近になって教団に金を流すことを渋り始めた。
その男からこれまで不正な利益を得てきた上層部の誰かが、彼に存在価値を認めなくなった。
その上層部の誰かと政治的対立をしている別の誰かが、その収賄の事実をもって彼の地位を奪おうとしていた。
誰かは、重要な資金源を失った故に揉み消す費用を惜しんだため、また自分に逆らう愚か者に思い知らせてやるため、そして手っ取り早く賄賂などなかったと弁明するために、贈賄者を消すことを考えた。
……短絡に表現するならこうだ。
教団に都合の悪い人間がいるので、暗殺しに来た。
「……しかしまぁ、くっだらねぇ」
正直、政治の話はまったく好みではない。そもそも自分は、このような類の話を政治と表現すること自体が馬鹿げていると思っている。
しかし今まで手を出せなかった薬物売買組織の一つを潰せるのであれば、特に仕事を断る理由も見当たらない。
折角だ、自分好みの部分だけを重要視していこう。楽しさというものは重要だ、仕事にせよ何にせよ。
自分はクズ野郎を潰す。そうすりゃ少しは、この町のガキどもがまともに育ち暮らせる可能性も上がろうってモンだ。
……現状、気になる点は一つだけ。
これまで従順にサリアに従ってきたチンピラの頭が、何故今になって反抗するような真似をしたのか。
そこについて、気になる情報が入ってきている。
『頭目』とやらは、最近腕の立つ暗殺者……兼、用心棒を雇ったらしい――と。
「……用心棒、用心棒ねえ。随分とまあ安っぽいな」
こんな場末にいるその用心棒とやらが、教団に歯向かいうる要素になるとでも思っていたのだろうか。
まさか奴さんも使徒……教団の権威を守る暴力装置、言うなれば死の具現が出張ってくるとは思いもよらなかっただろう。だが、チンピラごときでは想定のしようもない鴻鵠の志……皮肉を除けばくだらない上の事情で態々自分が出張ることとなったのだから。
そう、折角だ。徹底的に潰してやるとしよう。
口にくわえた葉巻が、軽く持ち上がる。
その笑みは、獰猛であった。