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チキン

 ……浅い傷、だと思う。だけど、緊張からか、ずっくんずっくんと首筋の痛みが増していく。体の内側から鳴る鼓動音に合わせて、少しずつ血が溢れだしてくるのが分かる。

 ああ、この服借り物なのに、汚しちゃってあの女の子には悪いことしちゃったな、なんて、どうでもいいことが頭をよぎる。


『あまり動くな。苦しむぞ』


 ……そんな、虚空からの声が聞こえてきて。

 あまりの恐ろしさに、僕は真っすぐ後ろを目掛けて逃げ出した。


「臆病者め」


 かすかに聞こえた、ヤヌスちゃんの声に耳を塞いで、すぐそばにあった階段を駆け上る。




 ――右に――




 ……なんとなく、ヤバいと思って、右端に移動しながら走る。後ろの方で、カツンと金属が階段の蹴上げにぶつかる音がした。

 空々しい音だ。あんな安っぽいのが、僕への殺意への発露だという。当たればきっと死んでいた。

 死にたくない。こんな、訳も分からないままで死にたくなんかない。


 ……何もないって思ってたけど、いつ死んだっていいだなんて思ってたけど、自分はやっぱりどうしようもない腰抜けだった。

 いざ死の危険に直面してみれば、こうやってなりふり構わず逃げ出すしょうもない人間だった。


 ……子供が捕まってるっていうのに。僕は、何をしてるんだ?




 ――別にいいのよ。生き汚さを忘れちゃダメって……嬉しいわ。私の教え……思い出してくれたのでしょう――?




 走る、走る、走る。逃げ場は、外にこそあったはずなのに。僕はなんで、態々袋小路目掛けて走ってるんだ……?



 ――いいの。いいのよそれで。だって、相手は質草と口にしていたから、あの子はきっと殺されることはない。本当は分かっている癖にねえ――


 ――だって、そうやって逃げればきっと、相手は貴方を殺すために追ってくるから。そうすれば――



「い、いやだ。死にたくない……」


 考えなんて、何もなく。僕は無様に階段を上り続けた。



 

 ――そうすれば、獲物が来るのを待ち構えて舌なめずり……狩場を先に押さえられる。何よりむざむざ逃げ場を与えずに済む――


 ――そうでしょう? だって貴方は狡猾だから―― 


 


 ――――――――――――――――――  


 


『また避けた? ……ともあれ、留まるのはまずい、か』


 止むを得ん。

 そう呟いて、子供を抱えたままにヒミズは謎のの後を追った。


 暗殺の対象でもない一般人の女を殺すのはあまり趣味ではないが、二人を餌にするのは意識が散漫になるだけだ。一匹いればそれでよく、子供の方が同情を誘える。

 地下から出てきた様子であるなら、己の知らぬ頭目の愛人か何かが子供に同情でもしたのであろうか。……まあ、良民の稼ぎを不当に得たこともあるだろう。ここで命を散らすのも自業自得というものだ。偶々ガキが一匹残っていたから良かったが、全員を逃がしていたならどの道奴を人質に使っただけだ。もしも、などを気にする必要もない。


 ……外に逃げるのであれば追わず、今日は撤退を決め込んだかもしれないが。人質が手に入った以上、中でウロチョロされては邪魔だ。殺しておくほかはない。


 幸い、今日の会合に女は来ていなかった。娼館でのお楽しみが待っていたというから、その事情によるものだろう。気取った頭目たちの心遣いに自分の矜持は僅かに助けられていたという訳だが、あの女も運がない。諦めてもらうとしよう。


『お前は大人しくしておけ。役目が終われば逃がしてやる』

「……」


 騒ぎもしないのはこういった場合珍しいが、好都合だ。多少は筋力強化の心得もある、さして荷物になるでもない。

 使徒が追ってくる前に、あの女は始末する。


「蛇は、勇気の象徴ではない」

『……?』


 震えもせずに、腕の中の子供が分からぬことを言った。

 ……特に独り言に対して相手をする必要もない。たかが女一人の始末、暴れさえしなければ自分にとっては十分なのだ。


「蛇は知恵ある者。禁断の実からではなく、むしろ蛇の行いから人は知恵を学んだ。ただ蛮勇を働くのは人の行い。いずれにせよ、あれは……人であって人でないもの」


 ――見極めさせてもらうとしよう。


『……』


 妄言は、そこで止まったが。

 不気味なガキだと、そう思った。

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