エンカウンター
――暗い部屋の中、謎の子供から言われた言葉は、唐突過ぎて僕の意識を真っ白にした。
そんな僕の様子を見て、子供は改めて口を開いた。
「今一度言う。カイネを弑せ」
「……君、おつむは大丈夫?」
こんな事を言ってしまったのも、咎められる筋合いではないと思う。
……弑せって、殺せってことか。
少年か少女かもわからないそのヤヌスちゃんとやらが、初対面の僕に向かって、いきなりの殺人教唆。挙句、僕はその殺すべき対象も知らないと来た。びっくり剣呑。正味な話、まるで意味が分からない。
「何の話だよ。誰だいカイネって……」
ずきん。
「ってて、なんだコレ。頭痛い……」
「……今はまだ、吾の言葉のみ覚えておけ。己の役目は、いずれ分かろう」
「……まあ、いいから。いいからほら、外出よう?」
この時点で、僕は既にこの子が精神の均衡を失っているものと思っている。
人に向かって意味の分からないことを言うのは、理性が正常に働いていないときと相場が決まっている。
……なに、こんな穴倉にいたから少し疲れちゃったんだろう。適切な治療を受けて空気のいいところでのんびりすれば、そのうち自分の言葉がどんだけすっとぼけたもんかも理解できるようになるだろうさ。
そんな風に思って、優しげな眼を向ける。
「その目をやめよ。気味が悪い」
「……早くお立ちよ。置いてくよ」
変に同情したのが失敗だった。
もういい、さっさとこの子を連れだして、僕も公園に帰ろう。あそこでぼんやり月でも眺めて、自分の偽善じみた部分をせせら笑って今日という一日を終わりにしよう。
「……む」
「どしたの」
「足が痺れた。背負え」
「……あい」
……今日も今日とて厄日だな。
――ヤヌスちゃんをおんぶしてひーこらひーこら、再度階段を上って扉にたどり着いた。右手は背負っていて空いてないので、この子に扉を開かせる。
さっきも思ったことだが、差し込む光で、本当に地下は暗かったことを実感した。
……さて、先に逃がした子供たちは、無事に家に帰れただろうか。
この屋敷からは大通りまでそんなに遠くないし、あんだけ沢山いたら、変なのに襲われることもないかな。
「……もう良い。下ろせ」
「なんだい、遠慮しないでもいいよここまで来たら」
「尻に手が当たっている。この身を穢されては困る」
「人の事を変態みたいに言うもんじゃないよ。落とされたくはないだろに」
性別も分からんようなチビのくせになんだ、最後まで小生意気な事を言う。片方しかない腕で頑張ったってのに。いいよ別に。人肌がちょっと気持ちよかったけど、いいよ別に。
確かにやわっこかったけど、いいよいいよ別に。
謎子供を背から下ろして明るい場所で見てみれば、ほっぺたになんかがのたうってるような刺青が入ってるのが分かった。
何この子怖い。何さ親御さんからいただいた顔に模様なんか入れて。よろしくないよそれは。
「ゆめ忘れるな。主は汝に託した」
「今日の事は全部忘れるよ。僕らしくない事ばっかだもん」
「汝らしさなど無意味だ。ただなすべきをなせ」
「はいはい」
どうでもいい、と手をひらひらさせて。出口に向かってそのまま背を向けて歩いていくヤヌスちゃんに、こちらもなんとなく背を向ける。あの子は一人でも大丈夫な気がするし、見送りなんざいらないだろう。
……しかし、妙に浮いた子だったな。なんというか、痛々しいって意味でもそうなんだけど、それとはまた違ってこう……。
この世の者とは思えないような、少しズレているような。
そう思っていると、背中の方から声がかかった。
「……蛇の子よ。なお一つ、伝うべき事がある」
「……なんだよもう。言うだけ言ってごらん、聞くだけ聞いたげる」
マジでめんどいなこの子、やっぱこんなのガラじゃなかったかなあ、なんてちょっとグレたことを考えながら振り向いてみたところ。
「この身を助けよ」
ぷらぷらと、足が宙に浮いたままだらんと脇を持ちあげられたように垂れ下がっている謎子供。すなわち、空中に張り付けられたヤヌスちゃんがいた。
ことごとく人の想定を外していく奴だ。浮いている子だなとは思ったが、実際に浮く奴があるか。どのみち、彼か彼女かに対する僕の印象は、たった今完全に厄モノと決まった。しかし興味深いことこの上ない。
「どこまで謎なんだ君ってばさ。何それ趣味なの? やり方教えてよ、もしかしたらそれで食っていけるかも」
「捕らわれた。敵がいる」
「……あん? 敵?」
敵とは穏やかでない。しかしよくよく考えればここはやくざ者の親玉の屋敷だ、そりゃ今の状況は周囲に敵しかいないかもしれないが、それは君の事を宙に浮かべる類の……なんだ、幽霊か何かではないと思うんだけど。
「捕らわれたって、誰に」
「目を凝らせ。汝ならば見えよう」
……見えないものは見えない。
しかし、割と素直なのは僕の美徳だと思うので、言われた通りにしてみようと思ったとき。
『……質草は、二つもいらん』
……そんな声が響いた。ヤヌスちゃんを見てみるが、口を開いた様子もなく、声の調子も違う。大人の男の声だ。
あん、と不思議に思って首を傾げてみたところ、ピリッとした痛みが左の首筋に走った。
思わず手を当ててみると、ぬるりとした嫌な感触。これは……血か?
「また一つ、蛇の子に云う。まだ死ぬな」
呑気な響きのその声を聞いて、ようやく気付いた。
あれ、これ。僕、今、ひょっとして。
見えない誰かに、殺されかけてる? ……と。




