蛇と子供
「ありがとう、お兄ちゃん!」
「あいあい、静かにお帰んなさいね。歯ァ磨きなさいね」
……その後、幸いにも誰に出くわすこともなく、無事に子供たちを建物から脱出させたはいいけれど。まだやるべきことが残っていた。
あの少年の言う事にゃ、あと一人捕らわれの王子様だかお姫様だかがいるらしいので、またあの陰気な階段を下っていく。さっき通った廊下を通り抜けると、確かに奥に一つ扉があった。
……そう都合よく、こっちの鍵もボロくなっているとも思えないけれど。物は試し、と思って取っ手の辺りを探ってみるが、どうも何もない。鍵穴らしきものもない。
まさかと思って取っ手をひねってみれば……そのまま開いてしまった。いったいどういう事だろうか。
好都合と言えば好都合だけど、意味が分からない。こんなところに閉じ込めときながら、鍵も付けないってのは……まさか、拘束でもされてるんだろうか。
「おうい、誰かいる?」
そう声をかけると、狭い部屋の隅の方から、僅かな身じろぎの音が聞こえた。
……先ほど以上に光の届きにくい場所だからか、その音で初めて何かがいるということが分かり、そちらに目を向けてみると。
「我が名はヤヌス」
胡坐をかいたままこてんと倒れていた人影が、ひょこりと転がって起き上がる様は中々可愛らしかった。
その可愛らしい小さな影から発された声は、いかにも子供の声で愛らしいものであったが、何故か重っ苦しい響きを併せ持っていて違和感が著しい。
とりあえず助けるべき最後の一人ってのは、この子ってことでよろしいんだろうか。
……で、なんて名前だって?
「アヌス?」
「ヤヌス」
「ヤヌスヤヌス……ヤヌスちゃんかー……言いにくいからア」
「……目覚めはまだか。好都合だが」
「あーん? ご挨拶だなこの子ってば、ちゃんと起きてるよ」
寝ぼけたような面してるかもだけど。そっちだって寝ぼけたようなこと言うもんだ。
「僭越。人を肛門呼ばわりする方が余程だ」
この……少年? 少女? どっちだこの子は。うっすら見える布の広がりから司祭さんみたいな格好してるのが分かるけど、ところどころオリエンタルというか、妙にもったいぶってる感じ。
おまけにフードまでかぶってて分かり辛い。
ちっこいナリしてるくせに、喋り方までえらく古風というか。
「待っていた……吾は汝が来ることを。待っていたのだ、本当に待ちわびた……蛇の子よ」
「はぁん? へび……?」
「蛇に寄り添う事を望まれた子。蛇に捕らわれ蛇を喰らう子。この世で最後の蛇の救い手。聞け、汝が……」
――カイネを弑せ。
――――――――――――――――――――
――ヒミズは、足を前に出すために前傾したまま、動かなかった。
いいや、動くことが出来なかった。
『こ、れは――!?』
ガシャンと照明具が床にぶつかった音が響き、当然肉のつぶれた音はその中に混じっていない。
自分は、絶好の機会を逃した。機を逸したことが分かる。であるなら、仕切りなおす必要がある。
向こうがこちらの正確な位置を捉えられないとしても、敵は鋭敏な感覚を持っている。足を止めるのは愚行以外の何物でもない。早く、一刻も早く位置を変える必要がある。しかし、足は床に縫い付けられたかの如く動かない。
「おいおいどうした、こんなもんでオレを殺せると思ったか? なんで来ない? ……まあ、来れねえよなあ」
転がって避けた後、のんびりと立ち上がった敵が金槌を一振り。次いで、肩のあたりを柄でとんとんと叩く。
――不意に、足が動くようになった。慌てて後ろに飛び退ろうとしたが。
『――!?』
脚の踏ん張りがきかない。がくりと折れた片方の膝が、地面にぶつかる。予期しない感覚により、不覚にも居所を示す音を出してしまった。これは、危険だ……!
「……そっち、か」
間違いない、位置を気取られた。
ふらつきながら立ち上がり、やむを得ず、不自由な体のまま迎え撃つことにした。
相手の得物は、鈍器だ。であるなら、致命傷を与えるためには攻撃の際に振りかぶる必要がある。
こちらは刃。突くだけの一挙動。武器のサイズから、間合いはほぼ等しい。大丈夫だ、腕に影響はない、まだ有利が取れる……!
相手との距離は、己の身の丈五つ分。大丈夫だ、何度もやったことだ。己なら、奴の首を取れる。
そう思って、爪幅ほどの間合いのズレも見逃さないよう、相手の動きに注視した。
相手が一歩、動いた。
普通の、歩行の挙動だ。この幅なら、間合いに入るまで十一歩、もしくはもう一つ。
――と。
「ぼんやりしてんなあ。いいのか? そこでちんたら待ってても」
……安い挑発だ。ここは待つのが有利。ただでさえ不可解な足の異常がある、こちらから動く道理はない。
……敵は二歩、三歩、近づいてきて――。
金槌を振りかぶった。
『――な』
遠すぎる、筈だった。そんなところで何をする。投擲か、いや、この距離なら避けることはできる。
そう思った瞬間、ゾッとした感覚が背筋を這い上がる。今まで、自分を生かしてきた勘だ。慌てて頭を下げれば、自分の直上を横薙ぎの一撃……間違いなく当たれば頭蓋が砕かれる威力のそれが通り過ぎた。
「おお、センスいいぜやっぱり。偉い偉い、よく避けた」
全力で避けた後。音を立てないよう、必死に、四つん這いの姿勢にまでなって距離を取る。そして、やや深めに呼吸を取った。
……先ほど自分が投擲した鏢のように、何かを結わえて振り回した様子でもない。届かないはずの距離だった。であれば……。
『幻術……これ程高度なものであれば、魔石を使ったか。距離感を狂わせたな……』
……距離を見誤ったのは分かったが、足を止められた理由は不明のまま。
これが、奴のギフトだったのか? いや、早計。まだ情報が足りない……。
「……お前は優秀だよ。体臭も丁寧に消してる。この状況で、音もほとんど出さねえ。声の出どころもうまく隠してる。そこいらの奴じゃ、影も踏めねえだろうさ」
『……』
「ただなぁ、『不浄』。お前の失敗は、オレの敵になったこと」
『……き、さま』
「知らなかったってんなら、改めて教えてやる。才気に溢れた酔っ払い、『気酔』バッカス様たぁオレの事だ!」
――ヒミズは、『不浄』という蔑称を耳にして、頭が煮え盛るような怒りを覚えた。
使徒やそれ以外の……教会に有益と期待された集団からの脱落者。それが『不浄』。蔑称の最たるもの。
しかし、そのように呼ばれたことによる憤怒の中でも、彼は次のように判断した。
……現状、一対一の正攻法でこの敵を降すのは難しい、と。
で、あれば。別の方法を考える必要がある。
『……保険を使う』
「なんだ。まだ出し惜しみがあったか」
手先を僅かに操作する。先ほどの鏢の刃先が、敵の足元にある。それを音もないほどに優しく、優しく……警戒など起こらないほどに優しく敵対者の靴先に触れるよう、引き寄せた。
その瞬間。
「おお!? なんだなんだ見えねえ、何が起こった!?」
……ヒミズのギフトは、先ほどバッカスが言ったとおりのものだ。そのとおりだ、間違いなどない。
己を、他者の視界に映らなくするというもの。ただ、それが全てでもない。
接触した者の視界を奪う。それも、己が使い慣れたモノを介して行うことも可能。
まさか初めて出会った使徒に、己の切り札を使うことになるとは思っていもいなかった。体への負担も大きいが、自分の技術と合わせればこの上ない効果を発揮する己のギフトの絶技。
……要は、意識だ。ギフトとは、意識の持ちよう、慣れや訓練で更なる進化を促すこともできる。人外に至りうる能力、これらギフトは、断じて教会の犬どもの専売特許ではない。
己を裏切った神の従僕とやらがなんと言おうが、そして神の御心にかなわなかったらしい己の身であっても。
未だにこの身に超常の力が在り続けているのがその証左。
『中座する。追いたくば追え』
「て、っめえ! 萎える真似すんじゃねえ!」
ヒミズは、背を向けて走り出した。向かうは、己の正面にある廊下を進み、何度か曲がった奥、壁にしか見えぬよう細工が施された扉。
……効果時間は、僅か。直ぐに追ってくることだろう。直接接触して行えば数日失明させることも可能であったが、敵の技量の底が見えない。万が一を考えて、頭目の用意していた商売道具を使わせてもらうこととしよう。
……それでも勝てぬなら、少なくとも今日は退けば良い。
顔は覚えた。向こうはこちらの顔を知らぬ。常に暗殺の恐怖に震えて眠ることとなろう。
『さて』
奴が集めたガキ共は、地下にいたか。




