ヒミズ
「中々、やる」
数度の敵からの……おそらくナイフを捌いた後、バッカスは呟く。
空気の流れを読んでいることは、早々に察された。
不可視であるだけでは傷を与えられないと悟ったか、速度こそ劣るものの、代わりに気配がなお薄まった斬撃が二、三度。それらの後に、足元、僅かに響く音。
これまたフェイク。
……読み切れないので、首を傾げながら金槌を振り上げる。キィン、と、甲高い音と共に刃を折った感触が得られた。
「……まだ手持ちはあるかぁ? なくなっちまったってんなら、おいちゃんが貸してやろうかあ!?」
『無用』
「おっほ」
感情見えぬ一声、その直後にまた、先ほどと同質の重さの一閃が振るわれた。
……常人であれば、死に至る自覚を与えぬうちに命を奪っているであろう斬撃を、またもバッカスは飄々と躱す。
『逃げるだけか。臆病者は貴様だな』
「顔も見せねえ奴が吠えるな。そこらの飼い犬ですら、客が来ればツラ出す程度の礼儀は持ってるぜ」
『招かざる客だろう。ましてや礼儀だと……?』
――ハ、と僅かに一息。されど相も変わらず気配も見せず。
『芥程の価値も貴様にあるものか』
「抜かせ。主を失った野良犬が」
返答は、更に研ぎ澄まされた横薙ぎの首を狙う一撃。しかし、バッカスはそれを左手で捉えた。
ギ、と見えぬ筈の手首を掴まれた暗殺者は、む、と低く僅かに喉音を鳴らした。
「ご丁寧にナントカの一つ覚え、首ばっか狙いやがって。ナメてんのか」
『……一つ聞こう。貴様は』
「オレ様が、なんだ? スリーサイズでも教えてやろうか?」
『……貴様は』
――おれを、ナメているな?
そう、ヒミズが言葉を発した瞬間。
またもバッカスの首を目掛けて……左右の両側から斬撃が走った。
「うおお!?」
今まで余裕の表情を崩さなかったバッカスは、そこで初めて焦りの表情を見せた。
背中をのけぞらせて辛くも避けるが、このままの状態ではその後の追撃を捌けぬと感じたか、右手で金槌を乱暴に薙いで牽制した。
そのままゴロンゴロンと後ろに転がる。
脚が頭を通り越した間抜けな姿勢で止まったかと思えば、どかんと両踵を床に落とす。寝転がったままの、結局は無様な体勢だ。
……左手には、先ほどまで掴んでいた筈のヒミズの手首……ではなく、おそらくはこの屋敷の誰かの者の腕が握られていた。舌打ち一つ、放り投げる。
今まで見えなかったものが見えた。それは、つまり。
「自分と、自分が接触しているモノを消す……見えなくするのがテメェのギフトか。おまけにこっちが捕まえようが能力に影響はない……と」
『……』
……無論、ヒミズは答えない。
「……どうしたい、来ねえのか? 絶好のチャンスだぜ」
『訂正する。ナメているな、間違いなく』
「そう謙遜するなよ。さっきのはちっとだけヤバかった」
『……何故ギフトを使わん』
そのヒミズの言葉を受けて、ハ、とバッカスは笑った。
「使わせてみろや、坊主。この程度じゃ野良犬から抜け出せてねえぜ」
『笑止』
挑発に乗ったわけでもなく、ただ淡々とヒミズは次の行動に移る。虚勢であろうが、罠があろうが構わない。
何故なら、バッカスが今いる場所の真上には、人を潰すに都合の良いシャンデリアがぶら下がっているからだ。
……右でも、左でも。どちらに避けようが構わない。そのまま潰されても、手にある金槌で砕いても良い。
その余分な挙動の後で、己の斬撃を避けることが出来るのであれば。
ヒミズのギフトは、先ほどバッカスが言ったとおりのものだ。そのとおりだ、間違いなどない。ただ、それが全てでもない。
手を離れると見えてしまう投げナイフでは、己の位置を悟られる。よって、ヒミズは紐を結わえた鏢と呼ばれる投擲武器をシャンデリアに放った。
過たず天井との接続部分を貫いたそれにより、重力に従い巨大な照明具はバッカスに向かって落下していく。
……右でも、左でも。前でも後ろでも。どこに逃げようが、己のナイフは敵の頸動脈を切り裂ける。
そう確信し、ヒミズは追撃のために駆け出した。
――――――――――――――――――――
――『神の御心をあらわすための神の従僕の手による孤児育英基金に基づく社会福祉制度』というものがある。
いかにも長ったらしくいやらしい名であるが、戦災孤児や自然災害孤児が、『サリア教団の手によって』救われるという大変分かりやすいものでもある。
……この基金は、敬虔な信者たちが清らかな労働の対価として得た収入から寄付を募ったものであるから、決して間違いではない。
事実、この制度によって両親を失った気の毒な子供たちが健やかに成長し、社会の一員として羽ばたいていった事例も数多くある。
ただし、例外も無論ある。
サリア教団は、『ギフト』……通常持ちえない異能を持つ人間たちに、言ってしまえば偏執的なほどにこだわっていた。
その理由はいくつかある。
一つ、教団の権威を、分かりやすい奇跡を示すことによって知らしめるため。
一つ、教団に敵対する者を排除する尖兵とするため。
一つ、教団の敵となりえないよう、懐に入れておくため。
故に、才能ある子供たちは、およそ『天才』と呼ばれる者一般と同様に――周辺の者から畏怖されるか迫害を受けるかは別として――人の噂にのぼるものであったので、教団の手によって保護されるのが常であった。
……それらの者の代表例としては、『白炎』ローグ・アグニスや『怨音』ソプラノ・プラムがあげられる。
彼らの様な存在を手に入れる名目となることも、この制度の意義の一つ。
前代の法王までは、そうだった。そして実際この制度は適切に運用されており、かつ社会的にも大変有益なものであったのだ。
変わったのは……今代の法王の手によって。
そしてその内容は、上層部ですら僅かな者しか知り得ない、知ってしまえば家族や財産を人質に差し出し更なる忠誠を誓うしかない、それでもなお運が悪ければ粛清を免れない……そういう性質のものになった。
――これらの事は、余談である。余談であるが、今現在使徒を殺害することを喜びとしてバッカスに刃を向けている男は、そのこぼれ話の犠牲者であった。
君の双肩に世界の安寧がかかっている、と勇気づけられた身寄りのない少年は、そう言われた数年後、教団自身の手によって暗殺されそうになるという悪夢を味わった。
だから彼は逃げ出した。そのまま住処を転々とし、ほとんど人と関わらずに生を過ごした。ただ僅かに食を得るため、かつての技能を用いて……人を殺すことには長けていたから、それを手段に金を稼いでいた。
名誉欲は、さしてなかった。金銭欲もさしてなかった。教団で教えられた禁欲の教えは、男の生を縛り続けた。
昔の名は……孤児に皆与えられていた洗礼名は既に捨てた。身を千切るほどの不安と絶望の中で、初めて人を殺して金を得たときに、ようやくそれだけは捨てることが出来た。
男は、自らをヒミズと名付けた。
……成長したヒミズは、暗殺の対象となった相手が教団と繋がりのある者だと知り、憎悪した。
依頼した頭目自身も教団に深く関わっていた故に、憎悪は彼にも等しく向いていた。殺すには僅かの躊躇もなかった。ただ、順番を守っただけだ。その方がやりやすかったから。
依頼を受ければ、二人殺せて金も入る。
依頼を受けねば、運悪く自分などに目を付けた頭目一人を殺すだけで、金も入らない。
殺して金だけ奪うような野盗の真似事は御免だった。殺しなどを鬻ぐ身であるからこそ、譲れないものもあった。
が……僅かに鬱憤を晴らせた、そのような些事以上に大切な事があった。
己が暗殺した男が持っていた、頭目への命乞いに用いうる情報……使徒が来る、という内容のそれに、ヒミズの中で久しく忘れていた感情が蘇った。
歓喜だ。
殺せる。
今なら、奴らを殺せる。サリアの象徴を踏みにじれる。
恨みを晴らせる。
そう信じて行動した結果、今がある。