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想葬

「んあー……」


 幸いにして腫れも引いた顔を天に向け、阿呆のように口を開けて空を眺める一人の男。

 誰もいないのをいいことに、ベンチに片腕をひっかけて座るそいつは、さもその小心を誤魔化そうとでもいうかのようにわざとらしく尊大な姿勢をとっていた。


 男は、色というものの存在を忘れたかのような真っ白い頭を幾度か揺らして、開けたままの口から、ようやく呻き以外の音を漏らした。



「あのチンピラさん、気になること言ってたよなぁ……」



 …………。



『頭目』が、新しい事業を始める?


 その名前は、短い期間であってもこの街にいれば嫌でも耳に入る名だ。

 破落戸ゴロツキのおかしら。真っ当な商売もしているらしいが……そっちの方は、あんな平気で人の顔を殴ってくるような素性の悪い男との関わりも薄いだろう。


 ……子供が手土産になるような? そんなお仕事を始めるって、そりゃあ……あんまり穏やかじゃないなあ……。


 非合法娼館。奴隷貿易。趣味の悪いコロシアム……。

 ぱっと思いついただけでも、世も末だと感じられるような候補ばかり。

 いや、もっと穏当な話もあるのかもしれないが、所詮はチンピラの大将だ。何より、金にさえなればそういうのに手を出しかねない男だというのは、噂話から推測できた。


 ……嫌な話を聞いてしまったものだが。朦朧とした状態で聞いた話だし、そもそも考えすぎなだけかもしれない。

 そうさ、考えすぎ……と己に言い聞かせてみても、胸騒ぎは収まらない。


「だからといって、儚いこの身。一体何ができましょう、っていうもんでしょうさ……」


 大それた考えが一瞬浮かぶが、自分を鑑みて鼻で笑う。

 何もできない。そんなことは、十分に分かっている。昨日の、世にありふれたような暴力ですら、自分は抗うことが出来なかった。

 そんな気力は、どこからも湧かなかった。


 ……人の悪意が、怖い。

 睨み付けられると、体が震える。剥いた歯を見せられると、足が地面の存在を忘れたかのようになる。


 ああいう人たちは、なんで気安く人を傷つけることが出来るんだろう。

 断じて羨ましくはない。ああなっちゃおしまいだと、何にも覚えてない自分の曖昧な理性ですら、そう言っている。


 まだ、手を上げないでいた方がマシだろう? 獣ですら、好き好んで争いやしないのに……殴り殴られ殺し殺され、一体何が楽しいもんだっての。

 僕は誰も傷つけなかった、そう言って野垂れ死に出来たなら、せめて世界に害のある存在じゃなかったと胸を張れる……と、信じたい……。


「……言い訳だな。結局、傷つくのが怖いんだ、僕は……」


 自分自身を気安く騙せるはずもない。耳障りの良い、欺瞞だらけの自己評価は、気付いてしまえば余計に自分を惨めにするだけだった。


 誰が見ている訳でもないのに、誤魔化すように欠伸を一つ、二つ。そのままゆったり瞼が落ちるに任せた。


 ……傷こそさして残らなかったが、未だに違和感の残る顔。昨日の自分はただ、暴力に……こちらを躊躇なく傷つける悪意というものに怯えていただけだ。


 ただ。暴力を忌避する気持ちだけは、本当だった。恐怖も、惨めさも除いた上で、それだけは本当だった。

 だけど、だからといって、自分がどうしようもなく臆病である事実に変わりはない。恥ずかしい、情けない。みっともない……。


 ……怖かったはずなのに。

 なんであの時自分の足は、前に進んで行ったのだろう。


 不意に、昨日からかいの色と一緒に言われた言葉を思い出した。

 怖気が走る、あの言葉。


「けぇっ……なぁにが英雄さ」


 ――英雄。

 え、い、ゆ、う。

 たった四文字の言葉で、こうも嫌悪感を湧きたてられるのはどうしたものだろうか。


 ……英雄か。英雄ってのは、なんだ。何をするにしても自信満々、腕を上げれば歓声を浴び、拳を振るえば悪漢がひれ伏す。そんな感じ?


 自分の物差しで、なんでもかんでも白に黒に割り切ってさ。

 相手の気持ちとか、事情とか。そんなもんを、大義だの正義だのとかいう怪物に一切合切浚わせてさ。罪をなすり付けてさ。自分を正当化してさ。自分に都合の悪い相手を、圧倒的な力で踏みにじるようなさ。

 こう、最終的には……人を傷つけるのも、人に傷つけられるのも怖くないような。そんな奴の事じゃないのか。

 ガキの寝物語じゃないんだ。そんな、そいつの為だけに世の中が回っているようなことが許されるもんか。誰かが笑えば、誰かが泣くんだ。英雄様、貴方が救った人の影で、同じだけの数の人が泣いてるよ……?


 ――クズだ。まったく救えない。誰かを助けるために誰かを傷つける、そんなのそれこそチンピラと目くそ鼻くそだ。ああ気持ち悪い。人を傷つけるのは悪徳だ、理由の有無で善し悪しが変わってたまるもんか。

 ……殴られれば、誰だって痛いはずだ。殴った拳だって痛いだろうに、その痛みを忘れられたから……そんぐらい殴り慣れちまったから、そんな真似ができるんだろう。


 あの髭親父の感性がおかしいんだ。


 あの子らから見て、昨日の僕は、断じてそんなもんじゃなかったはずだ。僕は一回も殴り返さなかった……殴れなかった。

 いくら僕が何にも持ってない浮浪者の身だからといって……ああ考えるだけで虫唾が走る、僕はもっとずっと惨めで、だけど無害な生き物でありたい。そうあれかし。英雄だなんて、そんなのは大それたクソだ。んな風に言われる筋合いはない、ご遠慮ご遠慮。


 ……昨日の僕はただ、子供の泣く声が耳障りだっただけだ。かえりみてみるに、所詮自分は余裕のない人間だ。自分の為にしか動けないだろうし、結局昨日も動かなかった。

 たまたま脚が誤作動を起こして動いたにつけ、ポンコツなサンドバッグが一体その場に現れ出ただけだ。


 ――英雄だあ……? いくら宿無しの身分だからって、そんなもんに成り下がるほど、自分は落ちぶれた存在か……?


 こっちが手を上げなかった分、僕はそんな安っぽいカタに嵌められる理由なんかないだろ。だろ?

 せめてただの浮浪者として生きる方がよっぽどマシじゃないか、そんなの。やめてくれ、僕をそんな存在に貶めないでくれ。


 やめてくれ。許してくれ、そんなもんになれるはずないじゃないか。――みたいな存在になんて。だってほら、やっぱり腕相撲勝てなかった。悔しかった。けど、ちょっとだけ嬉しかった。どこか似てるんだ、知ってた人に。


 ……やめてよ。ひっくり返したって、僕からは何も、何も出てきやしない。だからそんな目で見ないでよ、僕は強くなんかないんだから。謝るから。許して。僕は、強くなんてなれなかったんだ。


 ……許して? あっは、これじゃまるで、昨日のお嬢ちゃんみたい。そうだろ? ねえ、許してって、どんだけ泣いてこいねがっても、誰も許しちゃくれないよ……?

 本当さ。だって、誰も僕を許しちゃくれない。世間の誰も、僕だけじゃない、誰かを許すことなんかできない。だってその権限を持ってないから。


 ……だけど泣くなよ、その声は苦手なんだよ。……じゃあ、せめて僕だけは、と……。


 ――英雄。誰かの希望。……そんなものにはなれやしない。分かってるだろ?

 本当は憧れたのに。だけど無理さ。もう無理だ。


 だって僕は結局――を――なかったんだから――。


 ――を、――たんだから――。


 ごめんなさい、ごめんなさい。


 ごめんなさい――



「……あん?」


 ぱちりと目を開ければ、そこには少しだけ雲が動いた空が見えるだけ。


「……あれ?」


 思わず首を捻って、瞬き一つ二つ。


「何考えてたんだっけ。思い出せない……」


 ……馬鹿みたい。


 いつの間にか潜り込んでいた散漫な思考の海から上がってみれば、散々欠伸したせいか、目元が湿っていた。

 ふと気づいた。意味の分からない不快感がある。なんというか……。


「……なにこれ」


 ……罪悪感みたいなのが、ちくちくと胸を刺してくる。嫌な気分だ。まったくもって最悪だ、が。

 その感覚が目覚まし代わりになったものか、どこか頭がスッキリした気がする。やるべき方向が見えてきた、そんな気が。


 理由など分からない。

 記憶も定かでない自分には結局、確かなものが一つもなかったのだけれど……それでも今は、二つだけ分かることがある。


 なんにせよ、『英雄』。この言葉が、僕は死ぬほど気に入らない。

 もう一つ。

 ……自分は子供が泣いているのが、どうにも我慢ならないらしい。


「……まあ、別にいいか。分かってたことじゃんか……どうせ、失うもんなんかはなっから一つもないんだ」


 ……本当に空手で身軽。僕にあるのは、不自由な体と、風を僅かに防いでくれる襤褸ぼろ切れだけ。


「あ、もう一つあったか」


 ごそごそと胸元を探って、そこから一枚の羽根を取り出す。


「……どうみても……ゴミかなんかなんだろうけど」


 僕がこの街で気が付いた時には、既に懐にあったそれ。捨ててしまってもよかったはずなのに、僕の指につままれたままヒラヒラしているこいつ、何故か手放す気になれなかった。一度風に持っていかれた時には、自分でも気付かぬうちに必死こいて追いかけてようやく捕まえていた、そんな始末だ。


 ……ひらひら、ひらひら。

 揺らいでいるこの羽根も、好きにしろとでも言わんばかりだ。うん、だからそうしよう。きっと僕は、そういう人間であったのだ。


 ……何をすべきか。腹は決まった。善は急げというのなら、偽善も急いでみせようさ。

 後は、どうやってやるか、なんだけれど。


「あ、おじ……にいちゃん」

「おじにいちゃん」

「お兄ちゃん」

「ん。昨日は無事に帰れたの?」

「うん、ありがとうございました!」


 ……改めて、さてどうしようかと考え込んでいたところに、昨日の少女がやってきた。

 何度目かのありがとうであったが、僕はそれに返す言葉を持たないので受け流した。

 そうさ、言葉なんてどうでもいい、大事なのはそんな事じゃない。ただ無事だったなら、それで。


 ……いや、丁度いいところにやってきたな。さっきのヒラヒラがいい着想を与えてくれたもんだ。

 いいこと考えた。

 いいやいいや、悪いこと考えた。ふひひ。


「それよりさあお嬢ちゃん、ちょっとお願いがあるんだけど」

「なあに?」


 ――ママの服、ちょっとお兄ちゃんに貸してくれない? 出来るだけヒラヒラした、可愛いの。

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