資料作りは大切に【2】
仁祖反正関連。ネタバレ注意。
……えー、またかよ、ってな感じですがね。
登場人物、特に主人公は兄弟姉妹までざっくりとでもいいからさらって置かないと痛い目見ると学びました。
ちゃんと調べると、思わぬ人物があっちゃこっちゃ繋がってるので、迂闊に捏造出来ひんがな。
それにしたって、宣祖めぇえ……何だって二十五人も子供がいるんだよぅ(泣)。
という訳で、今回は「……やっちまった!(つーか、やられた!)」を箇条書きで行ってみますね。
それでは、訂正とお詫び行脚、レディ・ゴー!(何)
【その1】義昌君は、一六二一年時点で都にいなかった!(現在修正済み)
……はい、タイトル通りです。
ある日、ふと思い立って、ハングル版ウィキペディアを確かめたのが、良かったのか悪かったのか……。
彼はまだ名前だけですが、拙作の第二幕最終話に初登場しました。
綾陽君の叔父であり、永昌大君には兄に当たる人物です。
拙作中では、都に在住で、時折綾陽君の母親の様子を見に来てくれていることになっていました。が、実際には違いました。
どこにいたのかは定かじゃないですが、島流しにされていたんです。
原因は、義昌君の妻にあります。
どういうことかと言いますと、義昌君は、ホ・ソンの娘と結婚しています。
義昌君の妻の父親、ホ・ソンは、ほぼほぼ八割の確率で遺教七臣の一人であり、ホ・ギュンの腹違いの兄に当たります。
ついでながら付け加えると、ホ・ソンは、一六一二年に他界しているので、遺教七臣ではありますが、ギリギリで七庶の獄(一六一三年)の煽りを喰らわずに済んでます。
で、義昌君が流刑になった原因は、ホ・ソンではなく、彼の弟、ホ・ギュンにあるようです。
ホ・ギュンは一六一八年に、謀反の首謀者であるという濡れ衣を着せられた上、凌遅刑〔五体をバラバラにし、全国各所に晒す刑。斬るときは鈍刀で手足から切断する〕に処されています。その連座という形で、義昌君は流刑にされたらしいです。
この朝鮮王朝時代に於ける連座制に関しては、私もまだちょっと理解し兼ねているところでして、作中では割と連座の罰が及ぶ範囲が適当になってしまっていますが、今暫くご容赦下さい。
ちなみに、ホ・ギュンは一体何をしていた人かと言いますと、風刺作家のようなことをしていたらしいです。
光海君の信任を得て、政界にも深く関わっていた人ですが、庶子という出生柄、当時としては考え方が尖鋭的な人だったようで、それが他の両班の不興を買ったのかも知れません。
拙作中でも、『洪吉童』の作者として紹介しています。ちなみに、ホ・ギュンが『洪吉童』の作者なのは史実です。しかし、この当時(一六二一年時点で)、『洪吉童』がホ・ギュンの著作だとは知られていなかったようです(依拠史料:朝鮮王朝実録日本語版)。すいません、嘘書きました!(でも、こちらは敢えて修正しません)
【その2】寧城君は永昌大君より年下だった!
……もうorz
えーと、寧城君て誰ソレ? という声が聞こえて来そうですが、寧城君ことイ・ギェは、仁祖反正第二幕の第一章冒頭で、主人公の回想(夢)に初登場しています。
今は、その部分も辻褄合わせみたいにして修正済みですが。
ズーンと前に調べた時から、腹違いで同い年の兄弟がいるのは知っていました。その時点でウィキペディアは、ハングル版に繋がってませんでしたから、生年しか分からず……永昌大君が末っ子ということなので(末っ子なのに嫡男ってどうよ、という感じですが)、まあ、ちょこっと年上ってことにしようと。
でも、永昌大君の誕生日は、旧暦で三月六日。西暦だと四月十二日なんですが、それでも同い年かつ兄貴にするとチャンスは旧暦の一月から二月までしかありません。
一ヶ月くらい違いの苦しいけど辛うじて兄貴、くらいに考えていて……それが、ある日ハングル版ウィキペディアにリンクが貼られているのに気が付いたので、何かネタがないかな~、と跳んでみました。
あ、ラッキー、誕生日も載ってる。えー、何々、一六〇六年陰暦十二月二十四日ね……クリスマスじゃん、陰暦だけど。
……って、ちょっと待った。
陰暦でも三月と十二月じゃ明らかに永昌大君の方が上じゃね?
しかも陰暦の十二月ってことは、西暦だと翌年の一月なんじゃ……と。
もっと早く言って……いや、直すけどさぁ……(ブツブツ)。
【その3】ソ・ソン発見!
もっと早く言t……いえ、何でもありません。
ソ・ソンは遺教七臣の一人ですが、今の今まで史料を見つけることが出来ずにいました。検索掛けても引っかかって来なかったので、名前だけ残ってて個人データは残ってないのだろう、と。
バリバリに捏造しちゃった訳ですが、しかし、彼の情報は思わぬところから出てきました。
それは、仁嬪キム氏の生んだ王子王女を調べていた時のことです。
彼女の生んだ王女の一人、貞慎翁主の史料を読んでいて気付いたのですが、彼女が嫁いだのがソ・ギョンジュという人です。
そして、彼の父親がソ・ソンでした。
へー、ソ・ソンねぇ……あれ、七臣の一人と同姓同名で漢字も同じって……まさか??(滝汗)
ええ、泡食って調べましたよ、何かあっさり出て来やがったよ、ハングル版のウィキペディア(調べ方が悪かったのか、前に調べた時はまだデータがなかったのか……)。
貞慎翁主のデータにあった舅のソ・ソンと生没年同じ。息子(四男)の名前も同じ。その息子の妻の名前はないけど、孫息子三人の名前と孫娘五人の嫁ぎ先が全部一致。ソ・ソンの奥さんの名前も一致。こりゃ、完全に同一人物ですわ、と。
止めが、がっつり『永昌大君の後を託された七臣の一人』って書いてある……(目眩)。
めちゃめちゃ捏造したのにっっ(泣)。
ファヒャンの祖父でしかも亡くなったことにしてしまったので、あちこち直さなきゃ……orz(多分もう全部直ったと思うんですけど、取りこぼしあったらごめんなさい)
一六二一年時点でまだご存命でした。大変失礼致しました。お詫びして訂正……は多分済んでると思うんですが、修正漏れあったらごめんなさいです、ホントに。
で、もう序でなんで、宣祖の子供で一六二一年現在生きてる子について全部調べたら、有耶無耶の内に七臣の消息、これで全部割れましたとさ(マテ)。
【その4】イムジンウェランの漢字間違っとった。
作中、散々壬『申』倭乱として来たかの争乱の名前ですが、ごくごく最近になって壬『辰』倭乱が正しいことに気付きましたorz
何で勘違いしてたんだろう……第三幕第三章からは直ってますが、前の分はこれからちょっとずつ修正して行きたいと思います、すみません……。
©️和倉 眞吹2018.




