ホン・ソボンとホン・ミョンハの関係性
仁祖反正関連。ネタバレ注意。
仁祖反正の話に、第三幕から登場した貞淑翁主の娘、シン・キョンガン。
一応、彼女も実在の人物で、彼女と結婚することになるホン・ミョンハ(作中ではまだチョン・ミョンハ)も実在の人物です。
で、第三幕第九章で本格登場したキャラに、ホン・ソボンという人がいます。
彼については、前に旧ロマン大賞に応募した際に、一通り史料を当たった中で見つけ、プリントアウトしておいたのをすっかり一度忘れており(何)、今回改稿を加えるに当たってそのプリントアウトしていたものを再発掘しました(笑)。
人物プロフィールに『反正を主導する』と書かれていたので、これは出さねばと。
ところで、このホン・ソボンとミョンハ、実は苗字が同じ漢字で『洪』と書きます。
苗字が同じで漢字も同じだと、韓国(多分北の方も)の場合、高確率で親戚のことが多いらしいのですが、本貫……まあ、出身地というか、本籍地と思って貰えば良いのですけど、それが同じだと確実に親類です。
なので、最近まで同じ苗字の人は結婚禁止だったらしい、というのは余談ですが。
その関係で、李氏王朝の時は、揀擇令(※1)が出ても、李姓の家は対象外でした。女官上がりの側室には、何人か李姓の女性がいたりしますが、まあそれはそれです。とにかく正室や、側室でも揀擇で側室になった人の中には李氏はいません。
で、話を戻しますが、ソボンとミョンハは同じ『南陽洪氏』。
ちなみに、後程登場させたいなと思っている、貞明公主の夫となるホン・ジュウォンですが、彼は『豊山洪氏』と言って別口です。
またまた話が逸れますが、豊山洪氏は、イ・サン(第二十二代朝鮮国王。後の正祖)の母である、恵慶宮ホン氏の出里です。貞明公主とホン・ジュウォンの息子の六代孫が、恵慶宮の父、ホン・ボンハンですから、恵慶宮と思悼世子は微妙に血族婚です(苦笑)。
さて、今度こそ話を戻しましょう。
ソボンとミョンハが親類じゃないかなー、と思った切っ掛けは、実は本貫ではなく、ミョンハ個人のことを調べた時に出て来た、彼の家族の名前です。
ミョンハの父親は、ホン・ソニクと言います。
漢字で書くと『洪瑞翼』。ちなみに、ホン・ソボンは『洪瑞鳳』。
同じ苗字で名前の漢字もお揃い。絶対に血縁だ! と鼻息荒くして調べた時に本貫も同じということに気付きまして、一度は彼らは兄弟ではないかなという推論に達しました。
と言いますのも、ソボンとソニクは祖父が同一人物なのです。
父親の名前が、漢字が違うみたいだけど、読み方同じだよね~、変換間違いってよくあるし、と思って、一度はこの解釈のままソボンとミョンハの履歴書作りを開始しました。
ところがギッチョン、後日、何でかもうちょっと詳しく知りたいと思って、改めてソボンとソニクについてネットで検索を掛けました。
その過程でよく考えたら、彼らの父親の名前は漢字が違えば読み方も違う、ということに気付いたんです。
ソボンの父親は『天民』、ソニクの父親は『聖民』。
誰だよ、『聖民』の読みってば『チョンミン』だよねーとか言ってたの! と思いつつ、ソボンのハングル版ウィキペディアを当たったところ、家族構成の中に兄弟は存在しませんでした。少なくとも、『瑞翼』という名の兄弟はいない。
おまけに彼らは同い年だし……まあ、双子という可能性もなくはなかったんですが、ソニクの人生がソボンのそれとはあまりにも逆の道なんですね。
兄弟だったら同じ道かと言われれば、決してそうではありませんけど。
この二人の場合、ソボンは反正を主導する中の一人になるのに対し、ソニクの方は廃母論(※2)が通った時点で朝廷を見限り、官位を返上して故郷へ戻ってしまいます。以後、ソニクは都へ戻らないまま、反正の起きた年に死去しています。
これが、兄弟でなく従兄弟ならそもそも家庭環境は違う訳だし、真逆の道を選んだのも頷けるかな、と。従兄弟なら祖父ちゃん同じでもおかしくないですしね。
でも、ミョンハとソボンが親戚だったという結論は揺るがず(従兄弟違い)、取り敢えずホッとしたというか、意外な人物がこんなところで回り回って繋がってるんだという発見があって、やっぱり面白いなと思いました。
そして、歴史物ってやっぱり履歴書作り怠っちゃダメだな、と。
履歴書作ろうと思ったら、嫌でも調べますからね。後で辻褄合わなくなって慌てることもないので、やって損はないと思います。
しかし、やろうとして碌々史料のない人物が出ると、泣けます……良いの? 妄想でゴーやっちゃうよ? とか言って、後から史料が出て来たら余計に泣きますけどねorz
【用語解説】
今回も長くなりましたので、そのまま本文に続けちゃいます。
※1:揀擇令…結婚禁止令です。
要するに、王妃や世子嬪選び、若しくは駙馬〔王女の夫〕選びのオーディションをやりますよと言う、民に対する告知ですね。これをやる時は、実質国中の対象年齢かつ独身者の結婚が禁じられます。
対象者がいる家庭は四柱単子と呼ばれる書類(簡単に言うと履歴書のようなもの)を提出しますが、この書類、提出した時点で王(若しくは世子)に嫁いだ(または、王女と結婚した)と見なされるので、書類審査で滑っても一生独身、ということになる非常に理不尽なものです。
ちなみに、二次選考辺りまで進むと、市井に戻って独身を通すか、それとも後宮に入って女官になるかを選択させて貰え、最終審査にパスすれば王妃(若しくは世子嬪)、滑っても即側室になれます。
なので、揀擇令が近いことを察知すると、娘を早く嫁がせてしまおうとする親や、書類を提出しない親もいたそうです。
その後の結婚ができなくなる、ということもさりながら、王室の一員になるということは、朝鮮王朝時代に於いては、実はあまり歓迎すべきことではありませんでした。
娘が王妃(若しくは世子嬪)になる、ということは、一見王室の外戚として権力を得られるように見えますが、権力抗争に巻き込まれると一転、奈落へ直行コースですから。
宣祖の継妃だった仁穆王后キム氏の実家の例を見れば、一目瞭然ですけどね。
上記の理由で、外戚が力を持つことを恐れていたのは、実は朝廷も同じだったので、選考基準はまず四柱単子から見る相性が第一(生年月日、生まれた時間などから見る風水学的な相性が大事だったらしい)、それ以外は、『そこそこ容姿端麗・跡継ぎを生まないといけないから、健康である・家柄的にあんまり権力がない』ことが重視されたようです(笑)。後は、世子の内に結婚する例だと、大抵姉さん女房。イ・サンは、奥さんとは同い年でしたけど。クム(英祖)の第一正妃は二歳上でした。
更に余談。原則上、対象は全国の独身者ですが、現実的にこの揀擇に参加しようと思ったらかなりお金が入り用だったようで、そもそも平民は経済的に参加は不可能だったらしいです。
その点、恵慶宮の実家は相当貧乏だったらしくて、借金しまくって揀擇に参加し、幼い恵慶宮もそれを知っていたので、「私が頑張らなきゃ、後継ぎ生んで王妃にならなきゃ」みたいなのが凄かったらしいです。当時九歳の子がそんなこと考えるってどうよ、とか思っちゃいますけど(その後、夫である思悼世子の米櫃事件のゴタゴタに巻き込まれるんですから目も当てられない……まあ、息子のサンはちゃんと王様になりましたけどね)。
※2:廃母論…要するに、宣祖の継妃である仁穆大妃を廃位しちゃおうよと言う意見。
彼女の息子である永昌大君が、謀反の濡れ衣で流刑に処された時点からあったらしいです。
儒教上の観点から、光海君は相当抵抗したみたいですけど……。
©️和倉 眞吹2018.