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遺教七臣

仁祖反正(インジョパンジョン)関係。ネタバレ注意。

 遺教七臣(ユギョチルシン)の『教』の字は、日本にはない漢字なので、仁祖反正の作中でも便宜上この字を使っています。


 遺教七臣というのは、朝鮮第十四代王・宣祖(ソンジョ)の第二十四子、永昌(ヨンチャン)大君(テグン)(※)の後を宣祖王に託された、七人の忠臣のことです。


 ユ・ヨンギョン、ソ・ソン、ホ・ソン、ハン・ヌンイン、パク・トンニャン、ハン・ジュンギョム、シン・フムの七人です。


 さて、ちょっと脱線しますが、何故宣祖は「永昌大君の後を頼む」とわざわざこの七人に遺言したのか。

 簡単に言えば、跡目争いの心配をしたからです。

 と言いますのも、前述の通り、永昌大君は第二十四子。宣祖が五十四歳の時に生まれた下から二番目の王子です。

 そんな下の方の子が、普通は跡目争いに巻き込まれる心配なんて皆無に近いですよね。だって上の方の子じゃないんですから。おまけにその頃既に世子(セジャ)(※2)は決まってましたから、フツーに考えれば何にも心配ないです。

 現に、彼と同い年の側室の子(末っ子)は、四十三歳の天寿(……と言うには若いですが)を全うしてます(てことは、永昌大君は……? なんてツッコまないで下さいね、仁祖反正が終わるまで内緒です←薄々分かったかもですが)。

 でも、ここが朝鮮王朝の恐ろしい所であり、創作的にはネタの宝庫とも言うべき所です。『現実は小説より奇なり』という言葉を殆ど地で行ってます。


 そもそも宣祖は、先代の実子ではありませんでした。

 先代の明宗(ミョンジョン)には長男が一人ありましたが、王位を継ぐことなく十二歳で亡くなりました。側室も数人いたものの、彼女らにも子は授かっていません(日本語版朝鮮王朝実録に拠ると)。

 この為、明宗の後を継いだのは、先々代王・中宗(チュンジョン)の九男の子である宣祖だった訳です。明宗の兄弟の子なので、彼の甥、という言い方もできます。

 さて、傍流から立った初の王だった宣祖ですが、彼本人にはこのことがひどいコンプレックスでした。日本人にはこの感覚、よく分かりませんけどね。寧ろ凄いじゃん、傍流からの初の王ってなんかカッコいいじゃん、と私は思いますが、とにかく宣祖はそれがコンプレックスだったみたいで。

 自分の跡継ぎは絶対正妃の息子が良い! と思ってたらしいんですが、残念なことに初代の正妃・懿仁(ウィイン)王后(ワンフ)パク氏には子が生まれませんでした。

 そうこうする内に壬辰倭乱(イムジンウェラン)(※3)が始まってしまい、分朝(※4)を立てる為、至急跡継ぎを決める必要に迫られる訳ですが、その時いた王子様は全部側室から生まれた王子様でした。

 順当に考えれば長男の臨海君(イメグン)が世子に立つべきでしたが、この臨海君、ちょっと問題児だったようです。粗暴な性格で、世子には向かないと判断されていて、最初から候補にも上っていなかったとされています(超余談ですが、壬辰倭乱が起きた時、加藤清正の捕虜になった関係で、彼とは後々親しくなって、ペンフレンドの関係だったみたいです。まあ、加藤清正の思惑としては、文通を通して朝鮮の国内情勢を探りたかっただけのようですが)。

 序でに言うと、壬辰倭乱が起きた時点で生まれていた子供は十三人、内王子は八人いました。

 最有力候補は、次期王としての資質とモラルを備えた次男・光海君(クァンヘグン)と、宣祖に寵愛されていた四男・信城君(シンソングン)

 しかし、光海君は臨海君と同母兄弟なのですが、この時二人の母である恭嬪(コンビン)キム氏は既に亡くなっていました。加えて、恭嬪が亡くなる前から、既に宣祖の寵愛は信城君の母である仁嬪(インビン)キム氏に移っており、臨海君と光海君は父である筈の宣祖から冷遇されていたようです。

 結局、臣下の後押しや信城君可愛さの両親(=宣祖と仁嬪)の思惑もあって、世子は光海君に決まりました。


 ところが、これに意外にも難色を示したのが当時の中国・(ミン)の皇帝でした。

 李氏王朝当時は、国の跡継ぎを定めるのに明の承認を得る必要がありました。自国の皇太子を決めるのに、他国の判断を仰ぐ、というのもおかしな話ですけどね。

 その承認を得る為、世子を決めた旨を報告すると、光海君が次男であることを理由に、明の承認を得られませんでした。明でもその頃後継の問題を抱えており、次男である光海君を承認すると困ったことになる状況だったようです。

 その後再三に渡る承認要請に、明は決して首を縦に振りませんでした。

 そんなこんなで、国内だけでの仮承認状態の世子だった光海君ですが、壬辰倭乱で大活躍! 確実に臣下の支持を集めていきました。


 壬辰倭乱が秀吉の死を機に終結してから二年後、宣祖の初代正妃だった懿仁王后が亡くなります。

 それから更に二年後、宣祖が新しい正妃を娶ります。後の仁穆(インモク)王后キム氏です。西暦一六〇二年、宣祖・五十歳で再婚した王妃は、十八歳でした。

 輿入れから一年後、新しい王妃は王女を出産、その三年後には宣祖待望の男児を授かります。

 それが永昌大君です。


 さて、ここで問題。

 跡継ぎは明の承認を得てこそ本物の跡継ぎになるこの国で、世子の座にある光海君の地位はまだ不安定。

 そこに待望の正妃の息子を授かった王様は、どうするでしょうか?


 答えは簡単。

 『唯一の嫡男』という強力な大義名分を以て、世子を変更しようとします。

 そして臣下は、光海君支持派と永昌大君支持派にほぼ真っ二つ。中には少数派として臨海君支持、という人々もいたようですが。


 それでは、第二問。

 当たり前ですが、光海君支持派の人達は、世子を変えられたくありません。でも、宣祖がこの先、元気に生きて着々と準備をすれば、確実に永昌大君が世子に取って代わるでしょう。

 では、どうするか。


 ……まあ、私は個人的に暗殺されたんじゃないかなー、と思ってますけど、実際はどうなのか分かりません。

 予定通り光海君を王に立てるよう、死の間際に遺言状を残したところを見ると、本当に急に、本人が死を覚悟する程具合が悪くなっただけなのかも知れません。

 とにかく、宣祖が永昌大君誕生の二年後に、急に亡くなったことだけは事実です。五十六歳でした。


 でも、永昌大君がその後王位に就いちゃう目はまだありました。

 その鍵を握っていたのが、彼の生母である仁穆王后キム氏です。

 王が亡くなった以上、次期王任命権は、実は大妃(テビ)(※5)となった彼女にありました。彼女がその気なら、自分の生んだ息子を王位に就けて、代理聴政(テリチョンジョン)(※6)をすることも充分可能だったと考えられます。

 七臣の一人、ユ・ヨンギョンは実際にそう言って彼女を説得しようとしたようです。

 しかし、根が実直な、現実的な女性だったのか、キム氏は「世子に決まっていたのは光海君だし、永昌はまだ二歳で、いくら代理聴政をするとしても現実的じゃない」という考えの下、王位には以前からの決定通り、光海君に就いてくれるよう教旨を出したと言います。


 ちなみに、宣祖が書いた『光海君を王位に就けるように』と指示した遺言状ですが、何故か永昌大君支持派のユ・ヨンギョンに渡されました。

 宣祖としては、当時ユ・ヨンギョンが領議政(ヨンウィジョン)(※7)の地位にいたことで、単純に朝廷のトップだからという理由で遺言状を託したのかも知れません。ですが、その後彼はその遺言状を握り潰してしまいます。

 ユ・ヨンギョンとしては、永昌大君が王位に就けるようにと願ってしたことでしたが、後々発覚し、先代王の遺言を独断で隠蔽した廉で死刑に処されました。


 ちょっと長くなってしまいましたが、こういう次第で、宣祖は自分の死後、王位を巡ったゴタゴタが起きるのを見越して、「永昌大君を守ってくれ」と七人の臣下に遺言したようです(……起きるのを見越してたならもうちょっとこう……やりようはなかったモンかとも思いますけどねぇ)。


 この七人の内、日本語の史料があるのがユ・ヨンギョン、シン・フムで、検索しまくった結果、ハングル語の史料を見付ける事が出来たのが、パク・トンニャンでした。

 この三人以外は『永昌大君 七臣 名前(例えばソ・ソンとか……漢字で)』で検索を掛けても、ヒットするのはあまり関係ない記事か、名前しか出ていない記事ばかりだったので、「よし、他の四人は史料が向こうでもあまり残ってないんだな」という解釈の下、捏造に踏み切りました。


 ……が。


 第二幕第一稿執筆中、何も検索に引っ掛からなかった筈の一人、ハン・ジュンギョムが、何と綾陽君(ヌンヤングン)の初代正妃である仁烈(イニョル)王后ハン氏の父親だったことが判明。


 綾陽君のキャラ履歴書は作っていたのに、気付いたのはその後なんですから、笑っちゃいます。

 七臣の一人の名前と、綾陽君の奥さんのお父さんの名前、何か似てる? つか、同姓同名!? 漢字も同じだし、同一人物? それとも別人?? と泡を食ってケータイからググりましたが、成果無し。

 でも、漢字が同じとなると、同姓同名の別人で片付けるのもな~と悩んで、いや、待てよ、そうだ王妃だ! と手持ちの『王妃たちの朝鮮王朝』を調べたら……果たして出て来ましたよ、同一人物でしたorz


 別に、問題ないじゃないかって?


 いいえ、大いに問題です。

 奥さんが、七臣の一人の娘、となると、反正を主導する立場の綾陽君としては、計画の立て方、今後の行動などが、大きく違って来ます。

 奥さんのキャラも違えば、綾陽君のありようも変わりますし……と言う訳で、第二幕は四章まで進んでいたにも関わらず、丸っと書き直すことと相成りました。


 他にも、ホ・ソンに関しても気になる史料が出て来まして……と言いますのも、同じ日に、たまたまウィキペディアを見ていたら、ホ・ギュン(光海君時代の風刺作家。洪吉童(ホン・ギルドン)の著者)の兄ちゃんに同じ名前の人がいて……漢字も勿論同じ。

 果たして、そのホ・ギュンの兄のホ・ソンが、七臣のホ・ソンと同一人物なのかは、今のところ分かりません。

 やれる範囲では調べたんですけど……(ケータイじゃなく、タブレット端末で)。

 恐らくは同一人物だと思うんですが、確証がないのがイタい。


 それと、世子(現在には廃世子(ペセジャ)として残ってる)ジルの年齢が、思ってた年齢より三つ程上だったことも判明しました。

 ようまー、次から次へと取りこぼしが、と思うともう笑うしかないです。

 いや、『王妃たちの朝鮮王朝』では、仁穆王后キム氏が宣祖に輿入れしたのが、ジルが十歳の時と記されていたのですが、ドラマ『キム尚宮(サングン)(※8)』の感じからして、それはないだろうと思ってはいて……どこかに作中設定で間違いないような記述もあったけどーっとググりましたら、一五九八年生まれという史料(=ウィキペディア)が出て来ました。


 作中では、貞明(チョンミョン)公主(コンジュ)(※9)より二つ上と設定してましたが、実際は五つ上でしたorz

 という事は、永昌大君より八つ上……これも現在は修正済みです。


 まあ『王妃たちの朝鮮王朝』の通りだとすると、仁穆王妃の輿入れは一六〇二年ですから、その時十歳だとしたら、生まれたのが一五九二年になります(数えだとすると一五九三年ですが)。

 ちょうど壬辰倭乱勃発の年なので、出産が被ったとしたらかなり大変だったろうな……。


©️和倉 眞吹2018.

【用語解説】

※大君…一般的には正妃が生んだ王子の尊称。側室が生んだ王子は『君』。


※2:世子…皇太子(文脈から察し付くかなー、と思いましたが、一応)。


※3:壬辰倭乱…所謂、秀吉の朝鮮出兵。日本史では、慶長・文禄の役と記されています。


※4:分朝…非常時に立てる、もう一つの朝廷。


※5:大妃…皇太后。


※6:代理聴政…要するに摂政をすること。


※7:領議政…首相。


※8:尚宮…女官の品階の一つで、正五品(チョンオプム)に当たり、女官の中では最高位。

ちなみに、そのすぐ上の品階、従四品(チョンサプム)から上が側室。


※9:公主…正妃が生んだ王女の尊称。側室が生んだ王女は『翁主(オンジュ)』と言い、彼女らが降嫁すると『慈駕(チャガ)』と尊称が変わるそうです。参考URL→http://kjidai.com/?p=107

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