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ここが変だよ! 端宗《タンジョン》の乳母は恵嬪《ヘビン》ヤン氏説

永渡橋ヨンドギョ関連。ネタバレ注意。

 どの史料を見ても、第六代王・端宗(タンジョン)の乳母は恵嬪(ヘビン)ヤン氏となっています。


 恵嬪ヤン氏とは、端宗の祖父である第四代王・世宗(セジョン)の側室の一人です。

 その頃、丁度彼女が世宗との間に子を産んだばかりだったのと、彼女が気立てが良く徳もある女性で、元孫(ウォンソン)を任せるに相応しいと世宗が判断した為、生まれてすぐに母を亡くした端宗の乳母となった、と記されています。

 ええ、どの史料にも。正史である『朝鮮王朝実録(日本語訳版)』にも、です。


 しかし、しかしです。

 それだけ見れば「そうか」と納得するこの事例ですが、恵嬪の息子達の生年月日を見ると、どうしても乳母にはなれないと思うのです。

 何故なら、長男の漢南君(ハンナムグン)は一四二九年生まれ、次男の寿春君(スジュングン)は一四三一年生まれ、末っ子の永豊君(ヨンプングン)は一四三四年生まれ。

 一方の端宗は、一四四一年生まれです。末っ子の永豊君とは実に七歳差。

 どう頑張っても七年前に子供産んだ女性が、赤ちゃんにお乳をあげることは不可能に思えます。

 それなのに、『乳母』とは如何に……と首を傾げるのですが……(「あげたい!」と切に願えばお乳が出たという奇跡の事例もなくはないですが)。


 もっとも、恵嬪の産んだ三兄弟の生年月日は、あくまでも韓国語版ウィキペディアを参照したものなので、間違っている可能性もなきにしもあらずではあります(日本語版実録には載ってない……何でだ!/泣)。

 が、日本語で書かれた日本の偉人のウィキペディアだったら、少なくとも生没年月日が間違っているということはまずないと思います。なので、韓国語で書かれた朝鮮王朝の有名人のウィキなら、生没年月日くらいは信用しても大丈夫かと。


 という仮定に基づくと、やっぱりおかしい、『端宗の乳母=恵嬪説』。


 でも、実録にも書かれてることなので、んー……しかし、端宗に側室がいたことは、日本語版の実録には書かれていないので、書かれてることが絶対で、書かれてないことが間違い、とも言い切れません。


 そこで重要になって来るのが、史実上はあまり目立ってない、肅嬪(スクピン)ホン氏です(……出ました、紛らわしい同じ発音の側室……淑嬪(スクピン)チェ氏とは別人ですので、誤解のないよう。字も姓も、見ての通り違いますから、但し書きするまでもないかと思いますが/苦笑)。


 肅嬪ホン氏とは誰かというと、端宗の父である第五代王・文宗(ムンジョン)の側室だった女性です。

 文宗の正妃・顕徳(ヒョンドク)王后(ワンフ)クォン氏と共に後宮に上がり、文宗が世子(セジャ)だった時代から彼の側室でした。

 文宗は、正室にはあまり恵まれず、最初の二人の正妃は過失で王宮を追放されました。


 余談ながらこの追放された二人の正妃、実家へ戻った後、家族に自害させられてるのです……この時代の朝鮮、出戻り=家の恥、という考え方だったようで、出戻った後の女性の末路としてはフツーだったそうな(嫁ぎ先が王室か否かには関わらず)。怖い話ですが。


 さて、話を戻します。

 二人目の正妃だったポン氏が廃位された後、新たな正妃の候補として当時、既に娘(=後に敬恵(キョンヘ)公主(コンジュ)として伝わっている王女)を産んで良媛(ヤンウォン)に昇格していたクォン氏と、このホン氏が候補に挙がったのですが、既に世子の子を一人産んでいるという理由からクォン氏が選ばれました。

 その後、クォン氏は端宗を産みますが、産後の肥立ちが悪かったらしく、産後三日で亡くなります(一日で亡くなったとする史料もありますが、実録には三日と記されています)。

 その同じ年、つまり一四四一年に、実はホン氏も女の子を産んでいるのです。ちなみに、その翁主(オンジュ)となる筈だった娘は、三歳で亡くなっています。

 その娘が、何月何日に産まれたかまでは、記録を見つけることが今のところできていませんが、同じ年に母親になった女性を乳母にする方が、ずっと自然だと思うのです。


 顕徳王后が亡くなった後、文宗は遂に新しく正妃を迎えることはありませんでした。色々ごたつくのがもう嫌だったのか、それとも、次の正妃を娶る気になれないほど顕徳王后を愛していたのか、その辺は何とも言えません。

 が、その後、正妃という地位に昇ることはありませんでしたが、正妃の位置で内命婦(ネミョンブ)を差配していたのは、文宗の即位後、貴人(クィイン)に昇格したホン氏だったと、韓国語版ウィキペディアでは伝えています。

 ちなみに、肅嬪に昇格させたのは世祖(セジョ)で、王となった端宗を恵嬪の代わりに補佐させる為だったらしいです。世祖的に、恵嬪とは反目し合ってたらしくって、恵嬪をどうにかして追い出したかったから代わりとして肅嬪に白羽の矢を立てたらしい、というのは余談ですが。


 この辺りを考え合わせると、益々端宗の乳母だったのは、実は肅嬪なんじゃないかなぁ、と思えてなりません。ので、拙作『前略、永渡橋(ヨンドギョ)の上から』ではそのように展開する予定です。

 あくまで恵嬪は、子育ての先輩として、乳をあげる以外のことで協力してたんじゃないかと思います。で、授乳期が終わってから、子育てのメインが恵嬪に移った為に、実録では恵嬪だけが育てた感じになってるんでは……とか。

 実際、端宗自身も恵嬪を母として慕ってたらしいですし。


 ……とは言え、原語の実録に目を通したことがないので、日本語版の実録+韓国語版ウィキペディア(を翻訳機に掛けて)を見ての妄想に近いですけど。

 赤ちゃんって、結局お乳くれて面倒見てくれる人に一番懐きますからねぇ(その後、育ててくれた人にもまあ懐くでしょうけど、子供の中の優先順位ってどうなるのかな、その場合……)。


©️和倉 眞吹2018.

【用語解説】

・元孫…世子の長男。


【参照史料(※敬称略)】

・『朝鮮王朝実録【改訂版】』(パク) 永圭(ヨンギュ)・著、神田 聡・(ユン) 淑姫(スクヒ)・共訳

・韓国語版ウィキペディア

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