無知と愛 05
当然、帥嗣の帰り時は足取りが重かった。
引きずるような足取りで商店街を歩く。
自分以外の人々は、ほとんど目に入っていない。
夕食の買い出しに来た中年主婦や母親に連れられた年端もいかぬ少年少女。そんな人々が周りにいるはずなのに自分は絶対的な孤独感に苛まれていた。
降り注ぐ秋の柔らかい陽光も、迫り来る夜の気配も、気づかない。
皮膚を隔てた外側と内側で隔離されているような気分だった。
いつもなら周りにいるはずの友人も、あんな噂が流れたばかりでは近寄りがたいらしく、帥嗣とまともに顔を合わせようとしない。唯一気遣ってくれたのは、弥彦ぐらいのものだ。
それでも一人は一人。帥嗣が逃げるようにして学校を出る事になるのは必然だった。
一方、均時はというとあの後、弥彦から聞くと体調不良を訴え早退したらしい。
帥嗣がそんな風に落ち込んでいる間に、知らぬ間に家に着いていた。
相当帥嗣の思考が止まってしまってるみたいだ。
「ただいま」
条件反射のような挨拶。
でも、昴だけには心配して欲しくない。
だから、今までにない笑いを作るような気構えで家の中へと臨んだ。
それも全くの無駄。
「おまえは嘘をつくのが下手だな」
帰ってすぐ玄関で会った昴に一瞥され、
「部屋に入って寝てろ。腹が減ったならむすびでもつくって部屋の前に置いててやるから」
と簡単に見破られてしまう。
何も喋ることなく分かってくれている、昴の優しさが帥嗣には嬉しかった。ここはありがたく優しさを頂戴しておくことにした帥嗣。
帥嗣は変わらず汚い部屋に入り、布団へダイブ。
心地よい眠りの世界へと俺は逃避していった。
* * *
その日は珍しく夢を見た。
何年ぶりだろうか、と帥嗣は思う。
昴の家に来たばかりの頃はよく見ていたのだが……いつから見なくなったのか思い出せない。
帥嗣は背景は確かにあるのだが意識してみようとする。が、焦点が定まることなくぼやける。
いかにも夢らしい。
うやむやで、あやふや。
大事な部分ははっきりしてくれないと困るが、こういう細かいところはぼやけても構わないか、と口の中でぼやいた。
「くすっ……」
「ん?」
誰かの声が聞こえたら、思ってもいないのに声が出た。自分が思っているような声が出ない。
回想、だろうか。
帥嗣には誰かに笑いかけられた、夢に出てくるほど強い記憶がなかった。
「どちら様?」
笑い声の主は姿さえ見せず、ただ忍び笑いを繰り返す。
その笑い声にも、聞き覚えはやはりない。
不明瞭な相手に、若干の苛立ちを覚えながら相手の対応を持つ。
「誰が良かった?」
悪戯っぽく、笑いを混ぜながらようやく相手が言葉らしい言葉をつぶやいた。
どうやら、女性らしい。
声もどこか聞き覚えのあるものがあった。
夢の中の俺はおどけて、相手に分からない名前をあえて出した。
「できれば、昴さん」
「誰、それ?」
「俺の愛する姉さん」
「うわぁー……シスコンだよぉ」
くすり、とまた笑う。でも、相変わらず影も形もない人。
帥嗣の独り言のようにもとれた。
「椥辻君って面白いね、ほんと」
と言い、思い出したようにまた笑う。
「なんだよそれ。冗談だ」
「大丈夫分かってるよ。ほんと、椥辻君って面白いけど、律儀だなぁ」
「そりゃね。姿も形もない相手だから仕方ない」
皮肉めいた言葉を相手に投げかける帥嗣。
帥嗣――夢の中ではない、今の帥嗣は相手のことを思い出していた。そしてこのあとに続くやり取りも。
「あはは、ごめんごめん。そんなに皮肉らないでよ。自己紹介するからさ」
「そりゃどうも」
「私の名前は白前均時だよ。漢字は……分かるかな?」
「一応。クラスメイトの名前だしね、ちゃんと覚えてるよ」
「はは、憶えてるなんて凄いなぁ……。嬉しいよ」
そうこれは、椥辻帥嗣と白前均時の、付き合う前、初めて会話らしい会話をした日の話。
帥嗣はグラウンドの隅のほうで友人のクラブ活動を校舎に寄りかかってみていて、均時が窓越しに話し掛けている。
そこまでようやく思い出した。
「それで、何か用?」
「別に用なんてないよ。ただ、暇なものどうし、ちょっと話そうかなって」
均時は身を乗り出して、満面の笑みを帥嗣に見せつける。
「別に……暇じゃないよ」
「普通、校舎の壁にもたれかかって、ボーっとどこかを眺めている人は、暇人って言うと思うよ?」
最初とは違って、たはは、と情けない苦笑を声にする均時。
感情を隠そうともしない、表裏のない喋り口が帥嗣の笑いを誘った。
「俺はただボーっとしているわけじゃない。えらいことを考えようと思ってボーっとしているんだ」
「あれ?それって、漱石のもじり?文学少年だね、椥辻君って。いや、題名をもじって、文芸少年、とでも言おうかな?」
「いや、分かる白前さんも大概凄いと思うけど?俺は偶々読んでただけだし」
「偶々読むようなモノでもないと思うけどなぁ……」 そんなことをボソリと呟きながらも、愛嬌ある笑みを絶やさない均時。
帥嗣はそんな均時の顔を見ようともせず、ただすぐ目の前のグラウンドをまるで遠くにでもあるかのように眺めるばかりだった。
「でもさぁ……」
「ん?」
また、均時が話しかけてくる。
同じように帥嗣が生返事をした。
「何で帰らずにこんなところで何してるの?家にも帰らずに。たしか帰宅部だったよね?」
「良く知ってるな。俺は帰宅部だ。白前さんは?」
「うーん、今は私も帰宅部かなぁー。この前、陸上部破門になっちゃって」
時期としては入学したてだ。その頃の帥嗣の気を引くには十分な一言だった。
「どうしてか、って聞いてもいいか?」
「あはは、ダーメ。秘密なのです」
そう、笑顔のままおどける均時。
この時、ようやく帥嗣はまともに均時の顔を見たが、その顔から辛さや悲しさは見受けられなかった。
「じゃあ、お互い様だ。俺がここにいるのも秘密なのです」
だから、帥嗣は均時のペースに合わせることにした。
「あ、ひっどいなー。ちょいダメージ」
「俺も秘密が匂わされただけで辞められて、12のダメージ」
「なぎつじひきつぐ、を、やっつけた」
「俺よわっ!」
「ひととき、は、レベルが7にあがった」
「お前もよわっ!」
「あはは、ノリがいいなぁ」
そんなふざけた会話をしながら、ときには均時が頬をつついたりしてコミュニケーションをとりつつ、閉門時間までずっとその場から動かなかった。
次の日、帥嗣が待っていた友人から冷やかされたのは語る必要もないことだ。
その日以降、二人は均時が積極的に、帥嗣が消極的に、仲を深めていった。
一ヶ月が過ぎて、二ヶ月が過ぎて、夏休みが来て、そして――
そんな夢は帥嗣に、朝まで延々と過去を見せ続けた。