無知と愛 02
家に入ると雑多な音がテレビから流れているのが聞こえた。どうやら、コメディー番組のようだ。
お笑いにさほど興味のない帥嗣はそれ以上考えることなく、リビングまで入る。リビングには誰もおらず、ただ虚しく笑い声がテレビから漏れているだけだった。
誰もいないのにテレビがついていることを不思議に思い、帥嗣は辺りに人気がないか耳を済ましてみる。すると、微かながらする水音を帥嗣は聞き取った。
どうやら同居人である昴が、テレビをつけたまま入浴を始めてしまったらしい。昴はそういうところに関して、ずぼらな人間だったので消し忘れたのだろう、と帥嗣は納得した。
誰も見ていないならと思い、大して考えもしないままチャンネルをテーブルから拾い上げた。新聞の番組表をいちいち見るのも面倒なのでとりあえず『1』のボタンを押してみる。
七時という時間帯故に、大衆向けのバラエティーだ。興味がないので、内容も大して見ないまま次のチャンネルへと変える。
またこれもバラエティーだ。先程と似たような面子が、道化に徹して笑いをとっている。
どれもこれも似たようなものばかり放映して儲けはあるのだろうかという、無駄な疑問を帥嗣は抱きつつ、チャンネルを変える。
再びバラエティーかと思ったが、予想をはずしてニュース。中年男性のキャスターと若い女性のアナウンサーとが、今日この頃の出来事を意見を混ぜながら、無感情に、それでいて真剣さを漂わせながら読み上げている。
帥嗣はそこで、チャンネルを変えるのを止めた。どうせやっているのはバラエティー番組ばかりだと諦めたのだ。
普段からニュースどころか、テレビをあまり見ない帥嗣でも、ニュースならば意味をもって見ることができた。
内容はどうやら昨今問題になっている政治問題について。特集が組まれているようだ。だが、中途半端な所から見始めた為、正直なところ話がわかない。
ずっとこの特集ばかりをやっている訳でもないだろうと、帥嗣はニュースの内容を聞き流す。
案の定、その特集は五分も経たずに終了し、次のニュースへ移る。
『凉暮市で起きた通り魔殺人事件ですが……』
突然、ニュースがかなり身近なものになった。帥嗣は知り合いに通り魔もいなければ、殺人現場に遭遇したこともない。が、もっと別のところで、このニュースは帥嗣にとって身近なものだった。
凉暮市。
帥嗣の住んでいる、小さな田舎町のことである。
自分の住んでいる小さな町での事件ともなれば、興味を持たないはずがない。もっとよく聞こうと、帥嗣はテレビに見入る。
『以前、犯人は特定されておらず、現在警察が――』
「いやー、良い湯だった」
そこで、風呂から上がってきた昴が、さも当然のようにテレビ番組を変えた。最初についていたバラエティー番組。犯人の情報の代わりに聞こえてきたのは、芸能人達のバカ笑いだった。
チャンネルを変えたのが帥嗣の義理の姉であり、現在の保護者である茆柳昴なために、帥嗣は特に何も言い返さず、黙ってテレビに背を向けた。言い訳のように、どうせ犯人は捕まっておらず、あのニュースからそれ以上わかる内容は無いと心の中で言っておいく。
昴は帥嗣の保護者とはいっても、小遣いを等をもらっているわけではない。むしろ逆に生活費を入れている。
名目上保護者であっても事実上ただの同居人、いいとこ姉だ。だが帥嗣は明るい性格の昴を疎ましく思ったことは一度もない。保護者として名前だけでなく、色々世話もしてくれているのでありがたく思うことはあるが。
そして、昴の容貌はかなり美人――美女と言ってなんの問題がない程である。二十歳の年齢以上の艶と張りのある肌。風呂上がりの所為かかなりの露出度の軽装の上、長く伸びた髪が生乾きで湯気の立っている姿はなんとも艶めかしい――はずなのだが、毎日のことなんで慣れた。
第一、自らの恩人に対し、そういった感情を抱くほど、帥嗣は不義理な人間ではない。彼が元来、堅物であるのもその要因の一部ではあるが。
それでもとりあえず注意だけはしておいた。さすがに慣れても、帥嗣は落ち着かないものは落ち着かない。来客があった場合、昴本人だけでなく、帥嗣も困ることになる。
「ねぇ、昴さん。もうちょっと服着たらどう?寒くない?」
帥嗣が直接的に、色っぽくて落ち着かないので服を着てくれ、なんてとてもではないが言えるはずもないので、オブラートに包むというより別の話題から遠回しに言った。昴は裏の意味を察しないので、帥嗣が言っても無駄なのだが。
帥嗣の気持ちを他所に、昴は踵を返して台所に入っていく。
「んー?」
昴は冷蔵庫から発泡酒を取り出しながら、適当に背を向けたままこもった声で答える。
振り向いた昴の顔には嫌らしい笑顔が張り付いていた。
「アタシの心配してくれるのか?あはは、アタシもずいぶん繊細に見られるようになったもんだなぁ。それとも、おまえが大きく育ったってか?オネーサンはうれしーよ。きしし、ほら、おまえも飲めっ!冷めた体も温まるぞ!お前は心も冷めてるから余計飲めっ!どんどん飲め!」
昴は酒も飲んでもないのに酔い始めた訳ではない。元々こういう性格なのだ。
帥嗣は今のところ法律を破るようなことをするつもりもなく、酒にも興味がなかったので断った。
昴は断った帥嗣が断ったことに白けることなく、発泡酒のプルタブをあけて一気に呷った。その後、自分のために持ってきておいたストックの内、一つの缶を投げ顎で俺をさす昴。
真似して一気に呷れの合図。進めたことを諦めたわけではなかった。
帥嗣は投げられた缶をあわてて受け止め、逡巡の後、断ったら後が怖いので、グッと流し込んだ。
とはいっても、普通から見ればしらけるような飲み方。が、極端にアルコールに弱い帥嗣にとっては限界に近い飲み方だ。
帥嗣はすぐに頭がクラクラしてきた。
そんな帥嗣を面白がってか、昴は立ち上がり発泡酒を持ったまま近づいてくる。帥嗣は本能的にも経験的にも危険を感じとっていた。
「オネーチャンは『余計に飲めっ!』っつたろ?ベロンベロンのグワングワンになるまでアタシに付き合えっ!」
昴は鼻摘んで口を無理矢理開き、帥嗣の頭上に構えた缶を傾ける。勢いよくだらしなく開かれた帥嗣の口腔に、発泡酒が注ぎこまれる。
帥嗣は心中で叫んでいたが、実際は声になっていなかったし、これ以上先下手に息すると酒が気管に入りかねない。帥嗣は腹を据えて飲み下して覚悟した。
帥嗣が覚悟したのと同時に、昴はさらに缶を傾け、中身を捨てるように逆さまにする。
口という名のコップの中にそそぎ込まれる大量の酒。当然入りきらないものはあふれ、肌を伝い服を濡らすが、昴は構うことなく缶をひっくり返したまま。
不快感が酷いはずなのだが、帥嗣はそれさえも感じれないぐらい感覚が麻痺してきた。視界さえもゆがみ、ひずみ、かすみ始めた。
薄れゆく意識の中、昴の心配そうな顔とおもしろそうな顔が入り交じった顔を見た気がした。その表情もすぐ消える。
心配そうな顔が見えた理由を考えれる程、その時俺の頭は活動していなかった。
* * *
「うぅ、頭痛……」
ベッドから体を起こしたときそんな言葉が全身を駆け巡った。
酒に酔いやすい代わりに酒が抜けやすい帥嗣にとっては生涯初の二日酔い。想像以上の辛さに帥嗣は思わず頭を押さえた。
あんな急性アルコール中毒になるような飲まされ方をすれば当然と言えば当然だ。実際、帥嗣が倒れたのは軽い急性アルコール中毒が原因だろう。
今何時だろうか、そう思い帥嗣は枕元に置いてあるはずの時計に向かって手を伸ばして探してみる。すると何か手に当たったので、とりあえず掴みあげて目の前まで持ってくる。
何故か、フカフカモフモフする。そして茶色い。
帥嗣は不思議に思い、目を凝らしてよく見てみる。次第に暗順応して、手の中にある物の全容が掴めた。
「……クマのぬいぐるみ?」
疑問系なのは、帥嗣の部屋にその様なぬいぐるみはなく、また家の中でそれを見た覚えもなかったからだ。
作り物の可愛らしい目がこちらをじっ、と見つめている。
帥嗣はその姿に若干なごみながら、辺りを見回してみる。窓から漏れる薄い月明かりの中、はっきりとではないが大体の雰囲気はつかめた。
全体のイメージからすれば家具を真白に統一した、清潔感あふれた調和のとれた場所だ。ところどころにポイントして置かれたファンシーグッズがセンスの良さをかもし出している。
帥嗣はそこでようやく、該当する場所を思い出した。よくよく見れば、そこは帥嗣の義理の姉である昴の部屋だった。
「やっと起きたか。いや、悪いな!心配されたのが嬉しくて、すっかりお前が酒に弱いの忘れてたよ。でもだからってなー、いきなり倒れる奴があるか?アタシに付き合えるぐらいもうちょっと成長しな。社会に出てから困るぜ?」
頭を小突く昴。ほんのりとシャンプーの香りとアルコールの臭いが鼻をくすぐる。
雰囲気から察すると、今はほろ酔いらしい、と痛む頭で帥嗣は思った。頭を叩かれると響くため、苦言を呈したいところだったが、布団まで運んでくれたのだからと、帥嗣はやめておいた。
そもそも昴が無理矢理飲ませなければ、運ぶ必要もなかった、というのは帥嗣の頭の中にはなかった。
「でもなんで、昴さんの部屋に……?」
昴さんの前で黙り込むわけにもいかないので、頭が痛いのを圧して疑問を口にした。
帥嗣はできれば、夜風にでも当たりながら話したいが昴に寒い思いをさせるわけにはいかない。それに、この家に庭や縁側などあるはずがないので、それは叶わぬ願いだ。
「リビングからお前の部屋、遠いからこっちにつれてきたんだよ。この前まではすげぇ軽かったのにさー、さすがに今じゃきっついのなんのって。おっきくなったなー、オネーチャンは嬉しいぞぅ?」
汚れなき白い歯を見せ、にんまり口を歪める昴。ついでに、帥嗣の髪もクシャクシャ撫でた。
近くで見れば、白っぽい肌は少し赤く染まって酔っている様がよく分かる。でも、帥嗣と違い、昴は全然平気で、自我もはっきりしている。
「オネーチャンはまだ飲むから部屋に帰れ。どうせもう飲めないだろ?」
その通りだった。これ以上付き合えと言われれば、帥嗣もさすがに逃げる。
言われたとおり、布団から出て部屋から出ていく。
おやすみ、と笑顔で見送られ昴の部屋から出ていく。
「酒がもっと飲めるようになったら付き合えよ?オネーチャン、今はそれが楽しみなんだからな。家族は大切だからなぁー」
出ていく間際、そう昴は小さく呟いた。その言葉だけで帥嗣は、無理矢理酒を飲まされたことも全て許せてしまう。
帥嗣の場合、今が夜中ならば深く眠ると明日の朝にはアルコールは抜けている。帥嗣は今日あったことを一切合切全て水に流し、自分の部屋に入るや否や床についた。