無知と愛 10
今日初めて会ったばかりの青年にせれるがまま喫茶店に入店させられた帥嗣は、ウエーターの支持も聞かずに勝手に窓際の席に座った青年について行く外なかった。
なるべく他人と思われたい帥嗣だったが、同じ席に着いた以上、間違えなく知り合いと認識される。
逃げるという方法もなかったのだが、ここまで片腕で引きずってきたという青年の腕力の前に、何も抵抗ができなくなっていた。
「あ、そこの店員、お冷おかわり」
「た、ただいまっ!」
帥嗣が片腕で引きずりこまれた店員も、帥嗣同様萎縮していた。
それを気にせず、すぐにお冷を空にしてメニューも頼まず、お冷をお代わりするこの青年はかなり大物か、それでなければただの世間知らずだった。
「んで、まず言っとかなきゃならない大事なことがあんだけど」
お冷を頼んですぐ帥嗣の方を向き、フランクに話し始める。
「はい、なんですか?」
「実を言うとな……」
「はい……」
唐突に真剣になった青年に、固唾を飲んで耳を傾ける帥嗣。
「財布落としてな!二十四時間近くなんも食ってねぇんだ。奢ってくれ!」
左手だけで拝むように頭を下げる。
思わず帥嗣は人目を気にせず机に突っ伏してしまった。
大物ではなくただの世間知らずだった。
「なぁ、頼むよ、この通り!いいだろ?ぶつかったんだから、それぐらいしても!」
「それは……少しぐらい手持ちはありますけど……」
本当に少しばかり。
吹けば飛ぶんじゃないかと思うほどに。
「んじゃ頼むって!飯奢ってくれんなら、さっき逃げてたやつ捕まえてきてやっからさ!な!?」
相当参っているのか、鬼気迫る表情で帥嗣に迫る青年。
どうやら本当に耐えがたいほどの空腹らしい。
気迫に押されて、帥嗣の方が折れた。
「わ、わかりました。少しなら奢りますから、落ち着いてください!あと、均時は捕まえなくてもいいです」
「さんきゅ!あ、店員、こっちこっち!オーダー!」
後半の方は聞かず、勝手に店員を呼ぶ青年。
この勢いだとどれだけ頼むかわかったものではない。
帥嗣は青年に見えるように財布の中身を確認する。五千円札が一枚と小銭が二、三百円程。
普通の人間が一食するには十分なお金がある。ただ、バイトをしない限り収入源がないのでなるべく無駄使いしたくはない。
「あっと……ブレンドとクラブハウスサンド一つずつ」
それで言葉を切る。
普通の一食分か、少し少ないくらいの量だ。
それであれだけの力を発揮できるのだから、相当燃費がいいらしい。
「……とスパゲッティーとハンバーグセットとポテトサラダを一つずつ」
考えていただけらしい。
ここは学生向けというわけでもないので、割と良い値段が付いてしまう。
帥嗣は再度、青年に見えるように確認したが、青年は見向きもしない。
店員の方を見て何やら確認を取っていた。
「あ、ブレンドってお代わり自由だよな?」
「えぇ、まぁ……」
曖昧に返事をする店員。
先程とは違う店員だったが、今度は食欲と髪の色に尻込みしているらしい。
「お前もなんか頼めって」
「いえ、さっき朝食食べたばっかりですし……」
「走ったんだろ?何か食わないとぶっ倒れるぞ?」
頼みたくても頼めない、とは本人を目の前にしては言えなかった。
軽く暗算してみたところ、ぎりぎり財布の中身で足りるぐらいだ。
偶然か、はたまた考えて注文したかどうかは定かではないが。
帥嗣の結構です、という視線を受けて店員がオーダーを復唱してから足早に店の奥へと消えていく。
「んで、お前は何で女を追いかけてたわけよ?」
「前置きも何もなしですか?」
「んな前置きが必要な話か?」
「いや、初対面ですし……」
「初対面の人間だからいらねぇんだよ。今後一切あわねぇし」
むしろそうだから、気を遣うべきだというのは価値観の違いだろう。
そう納得してから、喋りずらそうに話し出す。
「均時は、あの追いかけてた奴は、俺の元彼女なんです」
「そんでやり直そうって言いだして、逃げられたのか?だっせー!」
「違います!話を最後までちゃんと聞いてください!」
二人して大声をあげたせいで、数少ない店の客が全員こちらを向いた。
帥嗣はあわてて顔を伏せると、黙り込む。
対する青年はと言えば、周囲の視線など一切気にせず呵々大笑していた。
分かりやすい性格の差だ。
「ま、俺も人のこと言えないけどな」
「え?」
ひとしきり笑い終わると、そうぽつりと漏らす。
「どういうことですか?」
「いやな、昔彼女っつーか、まぁ、そんな感じのに、殺されかけてな……。実際、腕一本織られた」
「相当壮絶な人生を送ってるんですね」
そんな経験を持つ人間に均時との話をしても大丈夫だろうかと、帥嗣に一抹の不安がよぎった。
主に身体的な意味で。
「んな、心配そうな顔すんなって。今じゃ骨折ったり折られたり何ってしねぇっつーの。若気の至りだ、若気の。今でも十分若いけどな」
またキシシと、今度は含んだように笑う。
ほとんど一人で喋っているのに心底楽しそうだった。