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37 “いつか”など必要ない、その空へ

2016.01.24 更新:2/2


最終話になります、よろしくお願いします。

「い、いいですか、テオルグさん」


 じりじりと距離を詰め、獲物を狙ってわきわきと動く小さな手。力みながら近づくセシリーへ、目の前に腹這いで座る大きな白竜からは「あ、ああ、何処からでも」とやや困惑した声が返された。


 いっちゃいますからね。いっちゃいますからね。


 セシリーは頭の中でも言いながら、ゆっくりと両手を伸ばす。目一杯に小さな柔い手のひらを広げ、えいっと勢いよく突き出す。


 ぺたり、と触れたのは――凛々しい白竜の頭部の、鼻先だ。


「ふぁ……ッ」


 セシリーの口から無意識に漏れる、謎の感嘆の声。

 押し当てた手のひらを、ゆっくりと動かす。ひくんと動いた鼻先から、がっしりと硬い伸びやかな鼻梁まで、そっと撫で上げる。

 グルル、と重厚な唸り声が聞こえた。


「ふぁああ……ッ!」


 さらに厚みを増す、謎の感嘆の声。

 セシリーはぶるぶると背筋を震わせた後、ためらいが嘘のように目の前の竜の頭部に飛びついた。


 初めて触った! 初めて触った!


 セシリーの耳に絶えず響いていた低い声が、グギュッと奇妙に飛び跳ねる。青い竜の目が泳いだけれど、興奮し気が逸るセシリーは気付かない。


 凛々しい頭部を覆う鱗は、一枚一枚がしっかりと生え揃っているからか、少し凹凸が感じられる。けれど、そっと滑らせた指先と手のひらには、不快なざらつきはなくとてもなめらかな質感を覚えた。

 顔を覆うひんやりとする鱗をしばし堪能した後、セシリーは顔の横へとちょこちょこと移動する。

 鳥の翼の形によく似た耳が、頭部の側面についている。その上には、先端が尖った頑強そうな四本の角が生えていた。


「お耳も、綺麗な形なんですね。鳥の羽みたいで素敵」

「ぐ……ッ」


 縁をなぞるように細い指先を這わせる。翼の造形を宿す外見は優雅だけれど、実際はそれもやはり堅い甲殻で形作られているようで、とてもしっかりとしている。

 セシリーはそのまま太い首まで下がり、両手でそっと撫でる。白鱗がびっしりと覆っているが、呼吸や身動ぎに合わせて躍動している。蛇のような骨のない軟らかさはないが、意外と自由のきく構造なのかもしれない。

 普段は天へ真っ直ぐと立てられた首も、今はセシリーに合わせて横に倒れている。水平に伸びた首の側面に頬と手を重ね、寄り添いながら首の根本にまで歩いてゆく。


「う、ぐゥ……ッ」


 白竜の呻き声が増したが、セシリーはお構いなし。長い首を堪能した後は、今度は爪が伸びる前肢だ。丁寧に曲げられているそこに身体を寄せ、大きな爪を持ち上げる。よいしょ、と軽い掛け声と共に、セシリーの身長の半分以上はある重い前足が地面から浮いた。


「わあ……爪だけでも、私の上半身くらいありそう。あ、お顔の鱗よりも、足下はやっぱり厚みがありますね」

「そ、そうか……」

「がっしりしていて、かっこいいです」

「……グゥゥ……ッ」


 鋭い爪を慎重に撫で、前肢を再び地面へ置く。


「次は……胴体です!」


 弾んだ声で高らかに告げると、ちょこちょこと移動し、腹這いに伏せているしなやかな胴体へ駆け寄った。そこも言わずもがな綺麗な白鱗が生え揃っており、筋肉質に引き締まっている。けれど、背中と比べるといくぶん鱗の厚みがなく、特に腹部の下側は柔らかそうな気配がした。

 地面へ伏しても、その胴体の高さはやはりセシリーよりも大きい。間近で見て圧倒するものを覚えるものの、呼吸に合わせて上下する様は動物っぽさがあり何処か親近感を感じる。


 セシリーはしばしその胴体を見つめる。そして、腕を伸ばして――軽やかにダイブした。


 引き締まった胴体が、驚いたように跳ねた。

 上下するお腹に身体を預け、頭を押しつけるとふうっと息を吐く。その振動は、不思議とセシリーを心地よい気分にさせた。


「ふふ……何だか温かい。じっとしてると眠くなっちゃいそうです」

「ッセシリー、さすがに腹は、くすぐったいんだがァァッ?!」


 セシリーはご満悦に頭を腹部へ擦り付けた。さらに、ゴロンゴロンと首だけ動かしまくった。


 他の場所よりも鱗などの厚みがなく比較的軟らかいそこは、敵からの攻撃で警戒すべき部位の一つ。

 そこに突然響いたくすぐられるような、けれど心地よくなるような、言葉にしがたいむず痒さ。無心になって耐えていた白竜も、思わず咆哮を漏らす衝撃であった。


「きゃあ! ご、ごめんなさい。あの、不快でしたか……?」

「い、いや……な、何というか……」


 気持ちよかった、などとは決して言うまい。


 そんな軟弱な事は言えないと、衝撃に身悶えする不器用な白竜テオルグ。けれどキラキラと輝く緑色の瞳に見つめられ、「……好きなようにしてくれ」と悟りの境地で我が身を差し出すしかない。

 そしてセシリーは嬉しそうにはにかんで、引き締まった胴体に小さな頭をスリスリした。


 ご満悦なセシリーとは裏腹に、テオルグは胴体を中心に広がる未知の感覚に悶絶する。腹這いに伏せていたはずの大きな白竜は、いつの間にか地面に屈強な体躯を全て投げ出して転がり、しなやかな後肢で地面をガリガリと蹴りつけていた。

 その姿は誇り高い竜ではなく、いいところを撫でられて後ろ足を蹴飛ばす犬とほぼ同等であったと、彼はその後情けなく振り返る事になる。



 チビな少女と、全長十メルタを軽々と越える巨大な白竜が、身を寄せ合う平原。爽やかな風が吹くそこは、国境の街の外に広がっている自然であった。




「はあ~……ようやく念願が叶いました」


 セシリーは満足げに大きく息を吐き出し、ほっこりと頬を緩めた。小さな花が飛ぶ少女の回りは、まるで陽だまりのような暖かさで包まれる。

 対して、セシリーの心ゆくまま撫で尽くされた巨大な白竜――テオルグは、倒れ伏し脱力しきっていた。頭部から尻尾の先まで、べったりと平原の芝の上に投げ出し、その姿はさながら激闘を終えた兵のよう。


 戦いだった。ある意味、戦いだった。


 身体のあちらこちらを撫で擦るセシリーの両手は、小粒なのにくっきりとその感触を伝えてきた。興味深そうにつつく指先の動きから、優しく撫で時折柔く圧を込める手のひらの動きまで、全て。くすぐったいのに心地よい仕草は、温かなマッサージのようであった。

 自らが持つ竜の身体を、そこまで他人に触らせた事はないテオルグにとって、それは未知の衝撃。二十代半ばを過ぎて訪れた、初めての体験である。


 アシルもこうだっただろうか。……いや、あれは人の首と背中を滑り落ちて遊んでいた。


 背中に乗る事を許したもう一人の男は、「一度やってみたかった!」と笑いながら竜の身体を滑り台にし、あげく頭部の天辺で片足立ちをしたりと全力で遊具にしてくれた。(そしてその後テオルグは全力で尻尾ビンタを繰り出した)

 あれはあれでろくでもない記憶だと思ったが、しかし、これは別の意味でもっと危険である。


 いついかなる時も誇り高くあるべき竜人が、あんな、あんな情けない声を漏らして地面を引っ掻くなど――!

 自分の鍛錬不足のせいか、それともセシリーの手の魔力のせいか。何にせよ恥ずかしさで死ぬとはこういう時に使うに違いない。テオルグは我が身をもって学んだ。出来れば知りたくなかった。


 しかし、自分は耐えきった。この素晴らしい達成感よ。


 テオルグはグフウッと重厚な息を吐き出した。頭の下敷きにしている平原の芝が激しく動いた。


「テオルグさん、テオルグさん」


 横たえた頭部の前に、セシリーが四つん這いになり移動する。薄く開いたテオルグの青い瞳は、セシリーへと定まった。むくりと起き上がった竜の頭部が、セシリーの視線の高さにまでやって来る。


「ごめんなさい、つい止まらなくって……あの、楽じゃなかったですか?」


 やや不安そうに尋ねられたので、テオルグは揚々と顔を横へ振る。つい先ほど撫で回された心地よさに我を失った事は、決して気取られない鋼鉄ぶり。鋼の竜人の異名は伊達ではなかった。


 それを発揮すべき場所がここではない事は、間違いない。


「……それより、満足できたか?」

「はいっ! それはもうっ」


 セシリーは大きく頷いた。陽の光に溶けそうなミルクティー色の髪が、軽やかに跳ねて風にそよぐ。


「ずっと触りたいって思ってたので……本当に嬉しいです」


 そこに特別な宝物があるように、セシリーは小さな両手をきゅっと胸の前で握った。


「あ、あの、ま、また触らせて下さいね」


 はにかむその頬に、淡い紅色。期待を織り込んだ眼差しは、瑞々しい緑色の瞳から注がれる。


 あれを、もう一度。


 目眩がした。堕落せしめるあのじんわりと温かくむず痒い心地よさを、また味わうのか。

 愕然とするテオルグの前で、セシリーがはにかむ。色づいた小さな唇が弧を描き、細い毛先に緩やかな波を刻む髪と瑞々しい緑色の瞳が煌めいて見える。

 テオルグはグウッと喉を鳴らした。


「……いつでも、喜んで」


 空を根城としてきた竜の血脈、常に誇り高く、強くあれ。

 そう本能にも刻み込まれた掟は、平原に吹く風と共にピュウッと呆気なく吹っ飛んだ。


 セシリーの表情は明るく綻び、色づいた頬が嬉しさに緩む。感極まり、テオルグの顔――つまりは竜の頭部――へ腕を伸ばした。抱きしめるように両手で下顎を引き寄せ、その凛々しい鼻梁へと額を重ねる。

 淡い色の髪で表情を伏せて隠してしまったセシリーからは、嬉しそうに微笑む息遣いがこぼれている。

 テオルグは外面だけは平常を装っていたけれど、長い尾は陸に打ち上げられた魚のごとくビタンビタンと悶絶していた。平原の草が容赦なく飛び散る。




「くそ、イチャイチャしやがって。双眼鏡持ってくれば良かった……!」

「……え、あれってイチャイチャしてるって言うの? 私には大はしゃぎして突撃する仔犬と達観してる大型犬の図にしか見えないんだけど」




 アシルとルシェの兄妹が、少し遠くでそんな言葉を漏らした。

 セシリーは白竜の顔からそっと身体を離し、彼らへ視線を移す。重厚な音を立てていた喉の音がぴたりと止む。

 同じ明るい茶色の髪と瞳を輝かせ、二人は「お待たせ」と片手を挙げた。


「兄さんの手伝いがてら私も来ちゃったよ。邪魔になるかな?」

「ううん、そんな事ないよ。ありがとう」


「手伝いにかこつけて堂々と見に来てやったぜ! お邪魔し」

「帰れ」

「まだ全部言ってない?!」


 対照的な会話が行き交った後。アシルとルシェは小脇に抱えていた荷物を足元へどさりと置いた。


「まあともかく、必要なものは全部持ってきた。セシリーちゃんも……うん、大丈夫みたいだね」


 アシルはセシリーの姿をじっと眺め見て頷く。

 ばっちりです、と胸を張るセシリーの本日の衣服は、長袖のジャケットに長ズボン、しっかりと脛を覆うブーツと、セシリーにしては重装備であった。


 国境の街外、広い平原へやって来た目的は、白竜姿のテオルグを思う存分撫で尽くすためだけではない。

 セシリーのその姿と足元へ置かれた荷物――騎乗用の装具一式が語る通りだ。


「さて、まずは準備からだ」

「はいっ」


 白竜テオルグへ、セシリーは元気よく返事をした。


 今日は、セシリーがテオルグに初めて騎乗する日であった。




 早速始まる、第一部隊長アシルとその副隊長兼騎竜テオルグによる、騎乗のいろは。

 まずは、基本中の基本、騎乗用の装具の取り付け方法からである。

 最初はアシルが実際に取り付けながらの説明だった。セシリーだけでなく、良い機会だからとルシェも隣で眺めている。


「まずはこれね、鞍。背中に乗る人――騎者が座る座席だな。他の部分にも名前はあるんだけど、細かいところは置いとくよ。ちなみに、普通は騎手って言うんだけどさ、うちの騎士団じゃ騎者って言うんだ。区別をつけてんのかね、馬と竜と」


 アシルはそう言いながら、鞍を両手で持ち上げた。それには、固定する大小様々なベルトと、足を置く鐙が取り付けられている。さすが大型竜テオルグ用と言うべきか、固定するベルトは引きずるほどに長い。

 その鞍を、首ごと低く伏せたテオルグの肩へと放った。立ち上がったテオルグの周囲をアシルが動き回り、垂れていた長いベルトを脇の下と胸の前でそれぞれ固定させてゆく。一本一本、セシリーにも分かるようゆっくりと。


「鞍はこんな感じで取り付ける。緩んでたりしないか、引っ張ってみて確認。あとテオルグにも具合を聞いてみる。どう?」

「問題ない」

「こう返されたら、次は手綱ね」


 ひとまとめにされた長い長い手綱と、それが繋がれた首輪のようなものを持ち上げる。

 手綱を背中に向かって放ると、太い首に輪を巻き付けて固定する。


「手綱も長さを変えられるようになっているから後でやってみようか」

「はいっ」

「うん、いい返事。さて、ひとまずはこんな感じだから、早速セシリーちゃんやってみようか。大丈夫、ゆっくりで良いからね」


 アシルは取り付けた装具を全て取り外すと、セシリーへバトンタッチした。アシルやテオルグの説明に注意しながら、初めて行う騎乗装具の取り付けにえっちらおっちらと奮戦する。




「そうそう、そのベルトを通して、ぎゅっと固定する」

「ぎゅっと、ですね。分かりました!」

「…………いや待って、ぎゅっとって言ってもね、そこは優し」

「えい!」

「ぐッふうッ?!」

「キャー! セシリー、力入れすぎ!」

「え? ああー! テオルグさんごめんなさい!」




 三人と一頭が大騒ぎする平原は、長閑な風が吹いていた。




 何度かの失敗の末、セシリーはようやくテオルグの身体に騎乗装具を取り付けた。力加減もよく分からず、初めての作業が余計に手間取ってしまったけれど、何とか太鼓判を押して貰えた。セシリーは満足そうに息を吐き出した。


「ごめんなさい、テオルグさん。きつく巻いたり……」

「構わない、まだ最初だ」


 平素と変わらず、テオルグは涼しい面持ちで笑いかけた。何度も締め上げられ苦々しい呼吸を繰り返していたが、そんな事は既に忘れた。この足下にある【小動物のやり遂げた顔】に勝るものはない。


「直ぐに手順は覚えたようだ。飲み込みが早いな」

「あ、ありがとうございます。で、でも、力加減は覚えたので、次はもっと上手にしますね。それに忘れないようにしないと」


 そのための、今日の講習でもあるのだ。セシリーは頭の中で何度も手順を反復する。


「そうそう。あとは、早めにセシリーちゃん用の騎乗装具を作っとかないとな」


 笑うアシルに、ルシェが疑問を口にする。


「作る必要があるの?」

「そりゃ必要だ。騎士団の騎竜は同種の飛竜で、装具もほぼ同じ量産品が支給されるけど、竜人はそれが使えない」


 個々によって体格から鱗の色艶まで全て異なるという竜人の一族は、量産品が合わない場合が圧倒的に多い。なので、基本的に騎竜を竜人が担う時には、全てオーダーメイドとなる。

 これは騎士団に関わらずどの場面でも言える事だった。

 しかも、アシルが使っている装具は、全て戦闘時を考慮した代物だ。そんな激しさを必要としない一般人のセシリーには合わないだろう事は想像がつく。


「テオルグに合う装具が現状これしかないから持ってきたけどな。セシリーちゃん用のを作れば取り付けだってもっと楽になるよ」

「ふうん……騎竜の事情って色々あるのね」


 ルシェと同様に、セシリーも関心した。


「アシル用の装具を作る時に全て測って記録してあるから、作るのは簡単だろう。あとはセシリーの好みだ」

「わ、私のですか? わあ、どうしよう……!」

「今から考えておくと良いぞ」


 セシリーはニコニコと微笑んでいるが、テオルグの心も同じように弾んでいた。この背に乗る事を選んでくれた人が、自らの翼を信頼してくれる、その誇らしさ。竜ならではの喜びに、テオルグもまた機嫌を良くしていた。

 「機嫌良すぎて怖いな」というアシルの呟きは、聞き流した。


「さて……装具の準備が出来た事だし、セシリー」


 テオルグはしなやかな四肢を折り、低く伏せた。セシリーの目線の高さにまで下がった美しい背中に見惚れながらも、その意図は自然と理解できた。細い肩を少し揺らし、長い首の先にある凛々しい白竜の顔を見つめる。理知的な光を浮かべる青い瞳が、セシリーを呼んでいた。


「は、はい」


 セシリーは緊張しながら歩を進め、鞍の横へ並ぶ。それと同時にアシルがごく自然に補助へつき、セシリーを鞍に導いた。足を置く鐙の位置が高いので、テオルグの前足を踏み台にし、さらにアシルに支えられて、ようやく跨がる事に成功する。

 もっと颯爽と、アシルさんみたいに乗れるようにならなきゃ。

 既に軽く肩を上下させるセシリーはそう決意した。

 セシリーが鞍の上で背中を伸ばすと、アシルもテオルグの肩に飛び乗る。彼は手綱の調節をし、最後にセシリーが万が一にも危険な目に遭わないよう、命綱を装着して飛び降りた。


「よっし、とりあえず俺の役目は完了。俺らはあっちにいるからな」

「ああ、感謝する」


 アシルは笑って遠ざかる。ルシェもそれに習って遠ざかり、軽く手を振った。


「さて、これでようやく準備が終わった。そろそろ良いな」

「はい!」


 元気な返事にテオルグは小さく笑い、折り曲げていた首を前に向かせる。


「立ち上がるぞ」


 短く告げた、その直後。

 折り曲げていた四肢を真っ直ぐと伸ばし、大きな白竜が立ち上がった。

 その振動に思わず小さく声を漏らしたセシリーであったけれど、その声が感動に変わるのは直ぐの事である。


 目線が、とても高い。爽やかな風の吹く平原が遠ざかり、その真上に広がる空がとても近くに感じる。普段の位置が低いだけに、その変化はセシリーにとって世界が変わったと思えるほどであった。

 白竜に転じたテオルグの身体はとても大きく、尻尾の長さも入れた全長は、十五メルタか、いやそれ以上だろう。その体高も、アシルが横に並んでまだ頭が届かないので、二メルタ以上は確実だ。

 そんな高さに今、セシリーはいるのだ。「わあ……」こぼれる声には、惚けるような響き。

 その音を拾い、テオルグは小さく笑った。


「軽く歩こう。背筋を伸ばし、手綱を握って。脇と太股を締めるとバランスが取れる」

「はい!」


 テオルグは前肢を踏み出し、セシリーを軽く揺らしながら歩き始めた。



◆◇◆



 適当な場所で腰を下ろしたルシェとアシルは、テオルグとセシリーの動向を見守っていた。

 本当なら二人だけにすべきなのだが、乗っているのが初心者のセシリーという事もあって念のために残る。今はもう騎竜歴の長いテオルグなので、大丈夫だとは思うが。アシルは平原にどっかりと座って眺め見ていた。


 しかし、せっかく面白いものが見えると期待したのに。

 テオルグが大きすぎる上にセシリーがあまりにも小粒で、ほとんどやり取りが見えない。折り畳んだ翼の影すら邪魔だ。


「まじで双眼鏡持って来るんだった……」

「うん……ちょっと否定出来ないけど、でも」


 ルシェは小さく笑みをこぼす。


「何だか楽しそう」


 ゆっくりと歩くテオルグも、その背に乗って小さな頭を揺らすセシリーも、和やかな笑い声が聞こえてきそうな柔らかな空気を纏っている。


 見る人によっては、ただ竜の背に乗る人間の少女の光景なのだろう。けれど、彼らにとっては【特別な意味】が含まれている。



 ――竜人が背に乗せる者は、盟友と身内、そして伴侶のみ。



 彼らにとって、本当に【特別な事】なのだ。


「あの二人、上手くいくと思う?」


 ふと、ルシェは呟いた。アシルは妹の横顔を少し見つめた後、肩を竦めて笑う。


「見た通り、だと思うけどな。俺は」

「そうだよねえ」


 ふふ、と笑うルシェは、平原の地べたに伸ばした両膝を立てて、その上に頬杖をつく。


「賭けてみるか? あの二人が上手くいくかどうか」


 アシルの冗談っぽい提案に、ルシェはニッと口角を上げた。


「それじゃあ賭けになんないわ。何処で結婚式をあげるかの方がまだマシよ」


 アシルは吹き出し、「その通りだな」と声を上げて笑った。



◆◇◆



 しばし広い平原を歩いていたテオルグは、首を振り返らせ背面のセシリーを見た。


「疲れたりはしないか」

「しないです、楽しいです!」


 元気良く返事をするセシリーの表情に、嘘はなかった。ふむ、とテオルグは少し考え込む。


(身体のバランスが良いな……初めての騎乗なのに随分と上手い)


 最初こそ戸惑っていたようだったが、今は緊張もなく自然体で鞍に跨がっている。予想外にも、セシリーの筋は良かった。その華奢な身体に流れる古い竜人の血か、はたまた、彼女自身のバランスの良さか。

 ……もしかしたら。

 テオルグは、一つ試してみる事にした。


「……少し、駆けてみるぞ。揺れるから気をつけろ」

「え? ……ひゃあ!」


 緩やかな振動が、ぐん、と大きくなった。

 平原を駆ける音が重く振動となって響く。仰け反りそうになった上体を引き戻して、手綱を強く握りしめた。「わ、わ……!」セシリーからはしばらく細い声が漏れていたけれど、次第に丸めていた背中を怖々と戻し、再び前を見つめた。

 馬車と比べてしまったら失礼だけれど、ずっと速くて、それに不思議と心地よい。


 強ばったセシリーの頬が緩んでゆくのを見て、テオルグは確信した。


「……いけそうだな」

「えッ?」

「飛ぶぞ」

「ええッ?!」


 セシリーの緑色の瞳がぎょっと丸くなる。今日は確か、軽く歩くだけの予定だったはずだ。


「国境支部の訓練のように、激しく飛ぶわけではない。ただ、地面よりも少し高く飛ぶだけだ」

「あ、あの訓練のようにされたら、私振り落とされる自信がありますが……」


 決してテオルグを疑っているわけではないが、少しの不安が宿った。有翼獣による空の運行便ですら、ほんの二回しか活用した事がない。しかも、船ではなく、鞍に直接跨がった状態なのだ。


「……だ、大丈夫、なんですよね?」


 不安を浮かべて尋ねたセシリーへ、テオルグは。


「ああ」


 言葉短く、けれど力強く、首肯を返した。

 テオルグが、そう言うのであれば。

 セシリーは手綱を握る手に今一度気合いを込めると、前を向く白い首を見つめた。


「じ、じゃあ――お、お願いします!」


 不安もあるけれど、期待の方が大きかった。彼が見る世界を同じように見られるという、期待が。


 セシリーの言葉に小さく笑い、テオルグは離陸の体勢に入る。折り畳んでいた翼を誇らしく広げ、速度を上げた。


「首にしがみつくように身体を低く、手綱を強く握って。目を閉じても良い」


 言われるがまま、セシリーはその通りにした。ドッドッ、という音が自らの心音なのか駆ける音なのかよく分からないまま、静かに瞼を下ろす。


 そして。



「――行くぞ」



 大きな翼が羽ばたく音と共に、セシリーの身体は重く揺れた。



 低く伏せた身体を、鞍へ押しつけるように丸める。それでも、初めて味わう感覚は衝撃じみたものがあり、一瞬混乱してしまった。視界は閉ざしたまま暗いけれど、全身にぶつかる風の強さ、翼の羽ばたき、確かに地上を離れた浮遊感は研ぎ澄まされセシリーを包み込んでいた。


 ああ、どうなったのだろう。


 身体を伏せたまま、セシリーはそう思った。

 その時、落ち着いた低い声が、静かに名を呼んだ。


「セシリー」


 そして次いで、「もう目を開けて良い」と告げられる。

 いつの間にかあの未知の衝撃は収まっているようだった。穏やかな凪が、身体を包む。

 ぎゅっときつく閉ざしたセシリーの瞼が、ぎこちなく開かれてゆく。低く伏せ丸めていた身体も、軋みながら緩慢に起き上がった。薄く開いた瞳はまだ怖々としており、風景をぼやけさせている。意を決し、セシリーは正面を見た。



 声を失った。



 真っ先に飛び込んだ雲を浮かべる青色の空が、限りもなく果てまで続いている。手を伸ばせば届きそうなほど近く、けれどそれでもなお高い、尊い空の世界。

 力強い風が、恐怖を浚ってゆくようにセシリーの髪を揺らす。伸ばした背筋に、言葉にしがたい感動が駆け巡った。


 これが、テオルグさんが見ているもの。


 セシリーの小さな唇は、感動の吐息をこぼした。既に恐怖と緊張は彼方にまで飛ばされていて、赤らんだ頬には笑みすらあった。


「どうだ、初めての空は」


 テオルグに尋ねられ、セシリーは心を奪われたままぼんやりと応じた。


「綺麗です、すごく。本当に、本当に綺麗です」


 見上げるばかりだった空の世界も。

 そして、その世界で悠然と翼を羽ばたかせる、輝く白鱗の竜も。


 いつだったか、竜の姿の彼と初めて出会った時、セシリーはなんて綺麗なのだろうかと思った。空を覆ってしまいそうな翼を羽ばたかせ、ゆっくりと降りてくるその光景は、本当に今も鮮明に思い出すほどに記憶に残っている。

 けれど、やはり彼は竜だ。この風景こそ彼に相応しい。


 ここが、テオルグが普段見る世界、普段身を置く世界。今正に自分は、彼と同じところに居るのだ。そう思ったら、セシリーの柔らかな胸の奥が温かく満たされてゆく。


「テオルグさんは、いつもこの風景を見ていたんですね」


 セシリーの両脇で羽ばたく翼が、バサリと音を立てる。力強く風を押しながら、飛行する速度は穏やかそのものだ。言葉にはしないが、気遣う優しさをセシリーは垣間見た。


「そうだな。そしてこれからは、貴方にとっても身近な風景になる」


 周囲を見渡していたセシリーは、顔を戻した。長い首を翻し、テオルグの顔が振り返っていた。


「そうなってくれたら……良いと思う」


 これから先、ずっと。

 言葉を紡ぐ竜の横顔には、人間のような明快な表情の変化はないのに、不思議と分かる。少し照れたような、そんな仕草が見えた気がした。


「そうなれるなら、私も嬉しいです」


 見上げるしかなかったその翼を許してくれるなら、同じように並んで、同じものを見てみたい。


「わがまま……でしょうか」


 頬を赤らめるセシリーから、テオルグは思わず顔を逸らす。


「……我が儘の内にすら入らない」


 呟いた低い声には、喜びの感情が隠せなかった。


「いくらでも、言ってくれ。行きたい場所、見てみたい場所、近くだろうと遠くだろうと、俺の翼は」


 貴女の為に、いくらでも差し出せる。


 セシリーは顔を真っ赤に染め、身を竦ませた。余計な言い回しをしない分、彼の言葉は真っ直ぐと心の真ん中を射抜いてくる。


「うう……ッテオルグさん、そう言われると、困ります」

「こ、困るのか?」


 テオルグは狼狽えて翼を慌てさせた。


「う、嬉しいのと恥ずかしいので……困っちゃいます……ッ」


 涼しい風をも染めるような、恥じらいで色づいた真っ赤なかんばせ。

 危うく崩しかけたバランスを気合いのみで保った己の精神力を、テオルグは褒め称えた。

 何だこの、いじらしいくそ可愛い小動物は。

 心の中で頭を抱えのたうち回るテオルグには気付かず、セシリーは赤らむ頬にはにかみを浮かべる。


「私も……一緒に見れたら、すごく嬉しいです。色んなところを、テオルグさんの横に並んで」


 そのためには、騎乗用装具の取り付けと、乗り方を、もっと上手にならないと。意気込むセシリーに、テオルグは青い瞳を柔らかく細めた。


「……そうなれるよう、俺も精進しよう」


 翼が折れるその日まで、愛しい人を背中に乗せ守り続けられるよう。


 小首を傾げるセシリーに、竜の重き覚悟を全て掬い取って欲しいとは言わない。けれど、叶うならこの先も、隣に置いてくれたらとテオルグは願った。



 テオルグは顔を前へ戻し、視線を上げる。羽根が風に舞い上がるように、薄氷色を帯びた白鱗の竜が緩やかに上昇していった。

 少し傾いたセシリーの身体を、風が横切る。テオルグの翼に連れられるまま、淡い色の髪が静かに泳いだ。セシリーは怯えず、真っ直ぐと顔をあげその先を見つめる。


 セシリーにとっては、いつか自分もと夢見て見上げた場所。

 テオルグにとっては、いつか彼女を乗せてみたいと想った場所。


 それが叶う事になった今日という日は、もちろん特別な日となった。けれど同時に、また別の願いを寄せる、新しい日にもなったのである。



 “いつか”などではなく、もっと確かな想いで共に在りたいと――。



 小さな少女を乗せた白竜の翼は、力強く羽ばたいて、青く澄む空を舞い上がった。





 Fin.



【後書きとお礼】


チビな少女とデカな竜人の話【いつか空につりあう日】は、これにて無事に終了です。

読んで下さった方、感想や応援送って下さった方、全ての方へ作者から全力の敬礼。愛してます!(それは告白である)


途中、コメディーっぽかったり、怪獣大決戦っぽかったりしましたが、安心して下さい。これはほのぼの恋愛小説ですよ。


このラストについては、物語の最初に既に決まっていました。

【乗せる者を選ぶその背にセシリーを乗せて、白竜テオルグが空を飛ぶ】……これだけはブレませんでしたね。

ちなみに実はブレブレだった誤算は、アシル&ルシェ兄妹の濃さと、天敵・羽狂いの存在感でした。特に後者は、物語を一つ書いてやりたくなるぐらいの存在感を放ってしまいました。自分でもびっくりです。


さて、作者が思い描いていた本編は、ひとまずこれにて完結です。

今後ですが、もしかしたら番外編がある日ぽっと現れるかもしれません。番外編とするか、第二部とするかは、まだ未定ですが……書いてやりたいものが何か所か。また素敵なネタを頂いたりしてるので、これは……心のメモ帳が増えていきますね……。

まだはっきりとしたところではありませんので申せませんが、まずはほっと胸を軽くしているところです。心落ち着かせ、また新たに執筆作業に入りたいと思います。



最後になりましたが、ここまでおつきあい下さいました皆様、ありがとうございました。

これからも、目線の高さがまず合わないチビな怪力少女とデカな鋼の竜人、友人兄妹や国境支部の兄貴たちなどなど、読んで下さる方の心の片隅にあればとても嬉しく思います。


そして異種族恋愛ものが、今後も増えますように。

(究極的にそこである)



白銀トオル

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