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34 少女の変化、竜の覚悟(3)

2016.01.01 更新:3/3

 ――それから目立った事件もなく、穏やかな日が続き、四日ほどが経った。

 採掘場をぶっ壊した罰として、王都にまでお使いに向かったテオルグとアシルが、国境の街へと無事に帰還した。




 街外れの一角に佇む、暖かな陽が注ぐ庭付きの喫茶店。そこに巨大な白竜が舞い降りる風景も、最近では違和感がなくなりつつあった。

 風を起こしながら悠然と下りてくる白竜テオルグを、セシリーは真っ直ぐと見上げた。四日前と同じ、いささかの綻びもない気品ある佇まい。薄い青を秘めた純白の鱗は、冴え冴えと輝いている。彼の背から飛び下りるアシルの動作も軽快だ。

 無事に任務を終えて、戻ってきた。セシリーの表情には笑みが咲く。


「お疲れ様です。お仕事は無事に終わりましたか?」


 白竜の頭部が首肯しグルッと鳴いた。


「お疲れ兄さん。さあ、お土産を寄越すとよろし」

「土産にしか興味ないのが丸分かりだな、妹よ。雑すぎてお兄様泣いちゃう」


 などと言いながら、アシルはテオルグの胴体に括りつけてあった荷物を外し、ルシェへ手渡す。

 てっきり旅道具かと思っていたあの荷物は、王都の土産の品だったらしい。きっと家族全員の分なのだろう。

 ご満悦なルシェと仕方なさそうに肩を竦めるアシルは、どちらも良い笑顔だ。仲の良い兄妹につられて笑みをこぼすと、テオルグがセシリーの名を呼んだ。


「俺からも、貴女に渡したいものがある」

「私に?」

「ああ――王都の図書館で、調べられるだけ調べてきた」


 セシリーは目を軽く見開かせ、あっと声を漏らす。テオルグの口振りからして、もしや。


「あの、まさか分かったり、なんて」


 セシリーが尋ねると、竜の頭がこくりと上下に揺れた。

 さすがに表情を変えるセシリーであったけれど、テオルグの青い瞳は変わらず静かな様相だった。


「……今、それを話してしまうと長くなりそうだ。それはまた別の時間にしよう」

「は、はい」


 セシリーは頷いたものの、既にもう気になって仕方なかった。例え先祖がゴリラの獣人だろうと、受け入れる覚悟は出来ていたのだが……。


「そう不安にならなくて、良いと思うぞ」


 セシリーの目の前に、凛々しい白竜の顔が下りる。


「驚きはするだろうが、悪い話ではないはずだ」

「そ、そうですか……?」


 ゴリラの獣人でないなら、もうあとは熊とか、猪とか、力持ちな雰囲気を醸す獣人しか思い浮かばない。

 意味も無くセシリーの心がざわついたけれど、テオルグの静かな佇まいに、少しだけ気を落ち着かせる。


「……アシル、国境支部に戻るぞ」


 テオルグが告げると、アシルから「ええー! もう?」と不満げな声が返る。当然、テオルグはいつもの事とばかりにアシルの悪態は流した。さっさと乗れと一蹴し、それからセシリーへ再び向き直って。


「……また後で、その、会いに来る。詳しい話はその時に」


 静かな低音に混じる、照れた声音。セシリーは何度も首を縦に振り、くすぐるような柔い笑みを綻ばせる。


「はい、あの、待ってます。また、後で」


 耳と尻尾が生えていたのなら、仔犬のようにぴるぴると揺らしている事だろう。誰がどう見たって小動物っぽい、愛らしい雰囲気。テオルグは爪の生え揃う四肢に渾身の力を込め、必死に地面を突っ張った。以前にも、同じような恰好をしたかもしれない。


 当然だが、すぐ近くに居るアシルとルシェのにやついた笑みが、二人を見守っていた。



 恰好のつかないまま一度アルシェンド騎士団国境支部に帰還したテオルグは、その後、セシリーのもとへ再びやって来る。

 会う約束を交わした時、セシリーは自分の先祖の正体が判明する事とテオルグとまた出掛けられる事の二つの意味で、ドキドキと浮かれていた。

 そのため、テオルグがこの時ある一つの覚悟を秘めていた事には、気付かなかった。



◆◇◆



 国境支部に所属する騎士たちが食事を取る、広々とした食堂。

 そこにはまたしても、普段とは異なる空気が流れていた。


 あの人の私服は騎士の服、つまり戦闘服と同義語――そう語られてきたテオルグは、普通の衣服を着ていた。

 二度目ともなれば、驚いて飲み物なり食事なりを吹き出す者はそれなりに少なく(それでも吹き出す者は続出していた)、一度目に起きた衝撃の嵐は吹かなかった。

 多くの者はニヤニヤと笑い鋼の竜人を見るけれど、一部の騎士たちはそれとは異なる表情を浮かべていた。


 それは、恨みである。


 テオルグの格好を見れば、本日の予定など推し量るのも容易だ。すでに以前から休日申請もあったので、勘ぐって無粋に聞く真似はしない。しかし、しかしだ。


 どうして、鋼の顔面……いや鋼の竜人が。


 実力はトップであるが、華の無さもぶっちぎりトップの国境支部。これまで細々と出会いを求め職務に支障のない程度の活動をしてきた騎士は多数。だがまさか、ただの一回だけガーデンパーティーに突き飛ばされたその男が、華を勝ち取ったのか。しかも、鋼と称される男とは対極の位置にあるような、小さくて華奢でふわふわした、普通に良い子なあの“華”を。


 やっぱり……世の中は理不尽だ。


 本来なら賑やかであるべき食堂に、やけ酒に溺れた風情を醸す騎士がそこかしこに出現していた。

 国境支部の夢見る男たち、そういうところは大人げなかった。



 そんな空気を気にしないのは、精神までも鋼で出来ているテオルグと、彼の向かいでニヤニヤと笑うアシルくらいだった。


「企み事か? アシル」

「ひっどいなあ。盟友のこの邪気のない笑顔に向かって」


 もちろんアシルに傷ついた様子は全くない。彼はマグカップに口を付けると、いったんそのニヤついた笑みを引っ込め、テオルグの手元を窺う。

 文字や印を書き込んだ地図の写しが広げられていた。


「それ、王都の図書館で写してきたたやつだっけ?」


 テオルグは頷いた。


 休憩を挟みながらも、事実上、丸一日空を飛び続けて王都に到着した、その翌日。

 騎士団本部への報告書の提出をさっさと済ませたテオルグは、図書館へと出向いた。さすがは国の中心の図書館、建築物の大きさも内部の広さも蔵書量も圧巻の一言に尽きる。おかげでテオルグの欲しかった情報はほとんど揃い、思う以上に収穫は大きかった。

 これならば、あの娘もきっと……。


「へえ、ちょっと見て良いか?」

「別に構わないが……王都でも戻って来る途中でも、話はしただろう」

「まあそうだけど、俺、図書館に居なかったし!」


 何故か胸を張るアシルに、テオルグは目を細める。


 ああそうだな、そう言えばこいつは、その間王都支部に居たな。


 本部に向かって採掘場や羽狂いなどの件を報告したその後だ。テオルグとアシルが本部を去る時、擦れ違った王都支部所属の騎士数名に呼び止められ、難癖を付けられた。

 彼らも今回の件を耳にしていたらしく、国の施設を半壊させてどうのこうの、天敵と戦って無傷の生還をしても今回はどうのこうの、と言ってきた。

 騎士団の支部にもそれぞれ事情があり、騎士にとっても憧れで一番人気の王都支部は、実力面ではやたら精鋭揃いの国境支部と比べられる事が多い。僻地の支部のくせに王都支部より実力が上というのが気に入らないという話は、毎年テオルグたちも聞く。なにせその精鋭を生み出したのは、このテオルグとアシルのペアなのだから。

 もっとも国境支部の面子は常日頃、「女子の人気を全てかっさらってるくせに! うらやま爆発しろ!」と僻み全開である。

 ここぞとばかりに爆発した不満を押し付けられたが、テオルグがその程度の言葉で腹を立てるはずもなく、ほぼ無視して聞き流していた。(一睨みすれば大抵黙るので)

 だが、アシルは違った。


「……突然だが、やらなくてはならない事が出来たようだ。テオルグ、俺はちょっくら王都支部に行ってくる。後で必ず図書館に行くから」


 アシルは王都支部の騎士たちの肩に腕を回し、表面上こそはフレンドリーな様子で彼らと去って行った。

 しかしあの顔は、普段よく見せるお日様の笑顔ではない。その下に綺麗に隠されていた――猛禽のごとき獰猛な微笑だ。


 そしてアシルは、案の定、難癖を付けてきた騎士数名を完璧に負かして帰ってきた。


 見た目は気さくで人当たりも良い、底抜けに明るい男。

 ただし侮って喧嘩を売ってきた輩をボコボコにしてきたのも、その男だ。

 市井の出身でありながら隊長にまでのし上がったのは、伊達ではないという事である。あの王都支部の騎士たちに、心の傷が残らない事を祈る。


 こうしてまた、国境支部のイメージダウンに繋がる噂が増えるのだった。



「喧嘩を売ってきたのは向こうだもん。勝負しようぜって行ったら自信満々に乗ってきてくれたし。ちゃんと手加減したぞ!」


 王都の思い出を振り返るアシル本人もこの調子だ。


「得意げな顔をするな……余計な火種は持ち込むなよ」

「任せろ、また難癖付けられたら今度こそボコボコに殴るから!」


 そういう事ではないが……。


「まあ、それは置いといて。綺麗に作ったなあ、テオ」


 アシルは印のついた紙をしげしげと眺めている。


「セシリーちゃん、驚くだろうな。自分のご先祖様の正体を知って」

「俺からしてみれば、やはりかというところなんだがな」

「最初から、何となく気付いてたのか」

「今になって考えて見れば、な。腑に落ちるところが多いさ」


 ただ、その彼女は、どういった顔をするのだろう。きっと驚いて、あの可愛い形をした緑色の瞳を丸くするに違いない。しかし、その後は。待ってますと言ってくれたあの声が、不安がらないでくれると嬉しいが。

 テオルグはそんな風に思いつつ、アシルから返される紙を受け取り、手元に広げた他のものと一緒に重ね丁寧に整えた。カップの中のコーヒーを全て飲み干すと、椅子から立ち上がる。


「あとは頼むぞ、アシル。他の連中に、迷惑を掛けないように」

「ええー……俺、隊長なのにそんな心配されんの?」


 普段の行いを鑑みない、実にアシルらしい能天気な台詞である。

 ……しかし、この男が居なければ、テオルグはあの娘に巡り合う事はななかった。曇りきった眼を洗い、胸にこびり付いた錆を除く、あの小さな娘に。風が入るように自然と、いつの間にか真ん中に佇んでいた――背に乗せるべき、心臓を震わす存在に。


「アシル」

「へいへい、分かってるよ。ちゃんと仕事してるって」

「いや、そうではなく……お前に、ちゃんと礼を言っていなかったと思ってな」


 アシルは不思議そうに表情を変えた。礼を言われる事なんてあったか、と小首を傾げてカップに口をつける彼に、テオルグは口角を緩める。


 夜勤明け、これから休憩を取ろうと思ったその矢先に、何故か騎士服のまま突き飛ばされたガーデンパーティー。あの時は本当に殺意を抱いたけれど、もしもあれがなかったら。


 今の穏やかな日々と、ようやく会えた背に乗せるべき少女を知らず、錆びた心臓で生きていく羽目になっていた。


「いつだったかのガーデンパーティーの時、俺を無理矢理に連れ出してくれて――感謝する」


 それは心の底から思うテオルグの本心であった。


 驚愕した様子のアシルを視界の隅に見ながらも、テオルグは食堂のカウンターへカップを返却し、足取り軽やかに食堂を後にした。


 しかし軽やかなのはテオルグのみであって、食堂に残された面々は椅子に縫い付けられ硬直していた。

 泣く子どころか悪党さえも黙る、国境支部の屈強な猛者たちはとんでもないものを目撃してしまった。


 鋼の竜人テオルグが、満面の笑みを浮かべていた


 表情筋の代わりに鉄板が仕込まれていると言われてきた、鋼の顔面の異名も取るあの竜人が。

 年相応に落ち着いた、けれど朗らかで温もりのある、男の微笑みを浮かべていた。


 それを各自が理解した瞬間、凍りついていた食堂の空気が――爆発でもしたように震え上がった。



「テオルグさんが笑ったぞーーーー!!」

「やべえ! 普通に笑ったら、普通にイケメンだった!」

「誰だあのイケメンは! 俺達の知るテオルグじゃねえ!」

「……ああッ?! アシル隊長が驚きすぎて、口とカップからコーヒーを……!」



 食堂の騒ぎに興味のないテオルグは、その後約束を交わした通りに街へ向かって、セシリーと会うのだった。その懐に、王都から持ち帰ったものを携えて。



◆◇◆



「――じゃあ、崖崩れの事や羽狂いの事、全部終わったんですね」

「ああ、ようやく」


 ほのぼのと微笑みながらロングスカートを揺らす、ちょこちょこと歩く小さな少女。

 薄く笑みを浮かべて長い足を進ませる、毅然とした佇まいの長身な男性。

 身体の厚みから雰囲気、著しい身長差にさらには目つき髪色まで、何もかもが対極の位置にあるような二人が行く国境の街。そこには暖かい陽射しと――凝視する視線が注がれていた。


 いつだったかとほぼ同じ状況である。


 すらりと上背の伸びたテオルグの横に、彼の腹部か、よくて胸の下にしか頭の天辺が届かないセシリーが並んでいるのだ。この露骨な身長差が行き交う人々の視線を集めるのは仕方のない事である。

 これはテオルグが大きすぎるせいか、はたまたセシリーが小さすぎるせいか。

 どっちもなんだろうなあ、と思うのも初めての事ではない。

 互いの背中にはビシバシと多種多様な眼差し――観察、驚愕、二度見――が向けられているが、以前と違うのは二人がさして気にしていないところである。

 一時でも視線を外せば姿を見失う小さなセシリーに腕を貸し出すテオルグも、その腕を控えめにきゅっと握りちょこちょこと彼に付いてゆくセシリーも、穏やかな足取りで前を見据えた。


「区切りがついて、今日は、ゆっくり出来るんですね。嬉しい、です」


 もの凄く低い位置で小さな花を飛ばして微笑む、くそ可愛い小動物セシリー。リボンを解いてそよ風に揺らす、ミルクティー色の淡い髪すらキラキラしている。それが、ちょこちょこと、雛のごとく付いてくる。

 テオルグは脳内で吐血した末のたうち回り、何度も瀕死の状態に陥った。


 ……周囲の視線を気にする余裕がないとも言える。


「この辺りも、すっかり元通りだしな。変わった事など、なかっただろう」


 けれどテオルグは表情にそれを出さないので、セシリーに気付かれる事はない。


「はい……あ、でも、国境支部の騎士様たちが、とても気に掛けてくれて」

「…………ん?」

「とても、良くして下さいました」


 テオルグたちが王都に居る間の事を、セシリーはふと思い出す。


 彼の帰りを待つ日々は普段と同じく穏やかなものであったが、変わった事を挙げるとすれば、国境支部の騎士たちが声を掛けてくれるようになった事だ。

 ゴリラみたいな怪力でも気にしない――そう言った通りに彼らはセシリーへの態度を一切変えず、頻繁に声を掛けてくれるようになった。見回り中の擦れ違い様であったり、仕事を終えて喫茶店へ来てくれた時であったり。

 外見こそは厳めしく逞しいけれど、浮かべる笑みはとても気さくで清々しい。セシリーも彼らの事を好ましく感じ、すっかり打ち解け親しくなっていた。


 ――ただ、悲しい事に。

 屈強な強面の騎士たちと華奢でチビなセシリーが並んでいると、高確率で【悪事を働く無頼漢とそれに囲まれるいたいけな小さな少女】という勘違いがその場に巻き起こる。街の人々から何度「悪い事はするな、騎士を呼ぶぞ!」と言われた事か。

 騎士服を着ていたのに、騎士を呼ばれる。その事実がこれほど複雑かつ深い味わいになるとは。国境支部の男たちは皆悲しそうに顔を歪め、膝を折って嘆いた。


 本当すみません。私がチビなばっかりに。


 怪力は乗り越えたけれどこの低身長だけは覆しようがないと、改めて認識した数日間だった。



「でも、国境支部の騎士様は良い人ばかりですね」


 怪力ぐらい、早く言っちゃえば良かった。

 セシリーはほのぼのと微笑んでいたけれど、隣に並ぶテオルグは迷わず握り拳を作った。セシリーの小さな手が掛けられた腕の、もう一方でこっそりと。


(……人が王都に行っている間に、あいつらは)


 満面の笑みでサムズアップを向ける、同僚たちの姿が思わず浮かんだ。テオルグは無性に腹立たしさを覚える。


「私の事より、王都はどうでしたか。テオルグさん」


 隣に並ぶ(ほぼ聳えている)テオルグを目一杯見上げ、セシリーは声を弾ませた。


「話しか聞いた事がないもので。やっぱり、大都市だから人もたくさんで、色んな種族の方が暮らしているんですよね」

「ああ……規模も外観も、此処とは全く異なる。人の行き来は多いから、空路を使った交易も盛んだ。四六時中、空に荷運びの有翼獣や竜が飛んでいる」

「わあ、やっぱり」


 国境の街で既に驚いていたのだ、王都はきっと未知の世界に違いない。セシリーはアルシェンドの中心地に思いを馳せる。憧れというほどではないが、いつか一度見てみたいと膨らませる。


「テオルグさん、是非、王都のお話を聞かせて下さい」

「構わないが……俺の話では、面白味に欠けるかもしれない」

「そんな事ないです。ありがとうございます」


 テオルグの胸にすら届かないもの凄く低い位置で、ほのぼのとした微笑みが咲く。豪奢さはないが、思わず目を留めてほっと心和ませる野花のよう。セシリーの周囲に小さな花が飛んで見えるのは気のせいでない。

 テオルグの中の苛立ちが一瞬で霧散したとは知らず、セシリーはちょこちょこと細い足を進ませる。


 外見こそデコボコ感が著しい二人であるものの、ゆったりと過ごせる店に到着するまで、和やかな会話が止まる事はなかった。




 喋り続けた喉を飲み物で潤し、ほっと人心地がついた後。

 本日一番の目的とも言えるものを、テオルグはセシリーへ見せた。ちびちびと紅茶を飲んでいたセシリーは、一度カップを置いて窺う。

 日向に面した席へ差す温かい陽射しの中に広げられたのは、地図を記した数枚の紙だった。


「王都に向かう前、少し調べさせて欲しいと言っただろう? 貴女の、先祖について」


 王都の図書館で写し取ってきたものだと、テオルグは筋張った長い指で紙を押した。綺麗な線で描かれたそれは……セシリーたちが暮らす国、アルシェンドの縮図だ。そしてその縮図には、赤い印と青い印が、点々と付けられている。


「端的に言えば、その二色の印は、竜人の里を示している」


 竜人の里。

 どうして、竜人の里の話が出るのだろう。


 セシリーは地図から顔を上げた。目の前のテオルグは、静かな面持ちのままだった。


「……そうだな、最初に竜人の暮らしを説明しておこうか」


 そう言ってテオルグは、黒髪の向こうで青い瞳を瞬かせた。疑問はひとまず飲み込んで、セシリーは彼の声に耳を傾けた。


 【碧空と竜翼】の異名を取るアルシェンドという国で、その象徴として非常に大きな存在となっている竜。その系譜に連なる、人と竜の姿を持つ竜人という種族の暮らしは、他種族同士の垣根が薄くなった現在でも、実はあまり知られていない。

 竜人は、隔絶された場所で暮らしているからである。

 それは険しく切り立った崖の上であったり、山岳地帯の入り組んだ山間であったり、雲に抱かれた山頂であったりと里ごとに様々であるが、共通しているのは【他の種族がおいそれと踏み入れられない場所】という事だ。

 空を根城として生態系の頂点にあり続けた竜の、古くから根付いた本能か。それもまた、竜や竜人が他の種族と一線を引いた存在の要因だったのだろう。

 そうして、血気盛んな者は、里を出て多くの種族が入り交じる街や都などで暮らす。テオルグも、そうだった。


 テオルグは改めて、地図を指さした。


「赤い印が、今現在も存続している竜の里だが、人里からほど遠く隔絶されたような場所にあるだろう?」

「そう、ですね。確かに」


 地図の縮図に印された赤い点は、ほとんど山岳地帯や人里のなさそうな奥地に散らばっている。セシリーは頷いて、それから再びテオルグを見た。


「そして、青い印が何らかの理由で無くなった里だ」


 青い印は、赤い印よりも少ないものの、やはり人がなかなか踏み込まないような奥地にある。


「……さて、その上で本題だが、俺たちが今居る場所は此処だ」


 広げた地図の左側――つまりは西をテオルグの長い指が辿り、【国境近郊】という綺麗な文字をなぞった。


「それで、こないだメモ紙で教えて貰ったセシリーの故郷だが……」


 テオルグの指先が、国境の街があるだろう場所から下がってゆく。

 そう、セシリーの生まれ育った村は、一番近い余所の村からさえもずいぶんと離れた場所にある。この街にやって来る時など、初めて乗った有翼獣の運行便で半日以上も空の旅を味わった。

 やっと到着したその時の事を思い出し、セシリーは少し懐かしい気分になった。


「……? あれ……?」


 セシリーは緑色の瞳を瞬かせて、地図をしばし見下ろした。

 テオルグの示した指の先は、故郷の村の場所だが――青い印が付けられている。


「竜人の里の記録を残すなんて、なかなか面白い事を考える者もいる。今回に限っては非常に役に立ったが」


 テオルグの低い声に、少し笑みが混じったような気がした。


「何となく、気になるところはあった」


 小さな頃からその力を発露していたとしても、その程度は通常は許容範囲内だ。空を見れば竜が飛び、街を歩けば獣人が歩いているのだから、人よりも多少力持ちだとしても揶揄されるものではない。それほど閉鎖的な環境だったのかとテオルグは思ったが、物好きな竜人の里の記録と地図を照らし合わせてなるほどと頷いた。


 他の種族と顔を合わせる事のない、隔絶された環境。

 これほど、うってつけの場所は無かったはずだ。


 当時の、同族たちにとって。


「今でこそ人間の村とされているが、古い時代では……そこは竜人の里だった」


 セシリーは勢いよく顔を上げた。柔らかなかんばせに、驚きとも困惑とも言えぬ表情が浮かぶ。


「さすがにその詳しい記録までは調べられなくてな。ここからは俺の想像だが……竜人の里に何らかの理由で人間がやって来て、その後、彼らがそこで暮らすようになったのだろうな」


 そしてそのまま、人間の村となって時代は過ぎ、当時の記憶は薄れてしまった。後世に残す手段となる道具がきっと無かったのだろう。何せ、古い竜人が暮らしていたような場所だ。利便性の低さも、自ずから見えてくる。


 けれど。


 その村で生まれた一人の少女が、消えかかった記憶を呼び起こした。


 テオルグの静かな眼差しが、目の前に座るセシリーに注がれる。


「え? じゃあ、もしかして、え? あれ……?」


 必死に頭を回転させて、目の前にある事実を読み解こうとする。けれど、何故だかとても混乱してしまって、狼狽をこぼしてしまう。



 生まれ育った村は、古い時代では竜人の里で。


 けれど現在は、人間だけの村になっていて。


 そして実家には、異種族と婚姻を結んだという記録が残っていて。



 つまり、テオルグが言いたいのは。



「……最初から、もしかしたらとは思っていたが、やはり」


 背を屈めるように、テオルグが身を寄せた。セシリーの持つミルクティーに似た淡色の髪とは異なる彼の黒髪が、視界の片隅で揺れる。


「貴女の先祖に居るのは、古い竜人だ」




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