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31 指先を愛しむ(2)

2015.11.27 更新:2/2

 風邪と筋肉痛で寝込む羽目になったセシリーがようやくベッドから抜け出したのは、さらに数日後の事だった。

 薬の力と美味しい食事のおかげで熱もすっかり引いて、無事に風邪は完治した。ハードな運動に負けた筋肉痛はまだ鈍く残っているけれど、日常生活に影響が出る類ではない。ベッドの住民も、その日をもって終了である。


 少しドキドキとしながら、セシリーはアパートメントハウスを出て過ごし慣れた国境の街に繰り出す。いつものように、ミルクティー色の淡い髪を若草色のリボンで緩く一つ結びにして、華奢な鎖骨が覗くゆったりとした七分袖の衣服と、足首より少し短い程度の濃い緑色のスカートを身につけた。いつも通りなのにドキドキとしているのは、大勢の人の前で《隠していた特技》を使ったからだろう。

 僅かな期待と恐れが、衣服を押し上げる柔らかな胸の奥に宿る。包帯を巻いた手のひらをきゅっと握りしめ、セシリーは街並みを進んだ。



 崖崩れがあったのあの日から、一週間近く経とうとしている。

 大雨のあった気配は、青空の広がる街にはもうない。




 セシリーが真っ先に向かった場所は、もちろんルシェ一家の営む喫茶店だ。診療所まで担いでくれたり美味しい食事まで用意してくれたり、本当に世話になった。真っ先に回復を告げに、ちょこちょこと歩を進める。まだ少しふくらはぎと太ももはひきつっていた。


 人足の落ち着く時間帯を狙ったので、喫茶店は午後の柔らかな空気に満ちていた。コーヒーの香りと優しい内装は、ずっと見てきたのに不思議な懐かしさをセシリーに感じさせた。

 出迎えたルシェと、彼女の両親に、感謝の言葉と共にぺこりと頭を下げる。そして顔を上げた先で、お日様の笑顔が広がった。無事に治って良かったと声を弾ませる彼女たちに、セシリーもふわりとはにかみを返した。



 お礼とご報告が済んだ後、セシリーはルシェと共に喫茶店の裏の作業場にちょこんと腰掛けていた。

 せっかく来たのだから何かお手伝いをしていこうかとも思ったのだが、「病み上がりなんだから次からで良いよ」というルシェの両親の言葉があったので。


「雨が酷かったけど、お家とお店、変わってなくて良かった」

「まあねー。ただ、母さんと父さんが手塩に掛けた庭はどうしても荒れちゃったけどね」


 何とか大雨を凌ごうと画策したものの、自慢の庭の草花はやはり荒れてしまい、雨が上がった後は二人とも酷く落ち込んでいたそうだ。

 が、この一週間で草花は逞しく空に向き、二人の落ち込みっぷりも庭の改良作業と新しいガーデンパーティー開催へ転換されたらしい。

 ガーンが嘘のような楽しい日々に変わったのは何よりだ。


「セシリーは? 平気?」

「うん、風邪だってもう大丈夫だし、筋肉痛もだいぶ」

「そっちじゃないわよ」


 セシリーは睫毛を瞬かせた。ルシェの明るい茶色の瞳が笑う。セシリーはしばし考え、あっと声を漏らして頷く。


「うん、平気。誰も、ゴリラなんて言わなかった」


 喫茶店に来るまでの道のりで、街の人々ともすれ違ったけれど、誰も奇異なものを見る眼差しを向けたり、ひそひそと囁く事はなかった。

 そもそもセシリーが採掘場の広場で何をしでかしてきたのか、知らないだけなのだろうけれど、ほんのちょっぴりは安堵した。

 包帯が巻かれたままの両手を、きゅっと握り合わせる。


「平気だよ」

「……そっか」


 ルシェは温かい笑みを浮かべたが、ほんの一瞬だけ、何か言いたそうな面持ちに変わった。きっと彼女の事だから、まだセシリーの胸につっかえているものを気遣っているのだ。


「……さて! 私はまたお店に戻るね。セシリーも、病み上がりなんだから今日は休んでなよ」

「うん……でも、本当に何か手伝える事があれば平気だよ」

「もう。それこそ、次にお店に来てからで良いよ。今日はのんびりしなよ。ね」


 セシリーの隠れファンが悲しむからね、という冗談を言いながらルシェは建物の中に入っていった。

 私のファンなんて、ルシェは冗談が上手いなあ。セシリーはくすくすと笑って、しゃがんでいた身体を立ち上がらせる。と、その時、視界の片隅に散らばった空き箱が映り込んだ。食材を購入して運びこまれてくる、いつもの業者からの箱だろう。

 ずっと寝てて鈍ってるし、これくらいは。

 セシリーはちょこちょこと空き箱に近付いて、それを持ち上げ縦に重ねてゆく。それなりの大きさの木箱は、ルシェの腕では辛いだろうが、そこはセシリー。鼻歌交じりで積み上げ、そして最後は、二つ、三つを重ねて一気に抱え上げた。


 ――ら、ドタドタと慌ただしい足音が聞こえてくる。


「セシリー! まだ居る?!」


 ルシェの声! まさか怒って戻ってきたのだろうか。

 箱を持ち上げたまま右往左往していると、直ぐ隣の勝手口からではなく、喫茶店の入り口から回って来たらしく建物の角にルシェが現れる。


「ご、ごめ、ちょっとだけ気になったからつい……!」

「ああ、良かった、お客様よ! セシリーに!」


 ルシェの後ろから、さらにもう一人現れた。上背のある、しっかりとした身体つきの男性。黒髪の向こうから覗く青い瞳が、セシリーへ静かに向けられた。

 そして、その精悍なかんばせが、やや驚いた風に動いた。


「邪魔をして、しまったか……?」


 聞き慣れた低音が、セシリーの耳へ届けられた。


「テオルグさ――」


 浮上しかけたセシリーの心は、瞬く間に降下する。

 二つ、三つ積み重ねた大きめの木箱は、まだ腕に乗っかっていた。

 テオルグの視線が、セシリーと、木箱を何度も行き交う。笑おうとした口元のまま、セシリーは全身を硬直させるしかなかった。





「セシリーは休みなので、どうぞ気にせず連れてって下さい! あ、でも風邪が治ったばかりなので、そこは注意して下さいね!」


 輝く笑顔と共にブワーッと言葉を放ったルシェは、セシリーとテオルグの背を押し出した。あまりの勢いの良さに、口を挟む隙すらそこにはなかった。

 困惑して振り返ると、ルシェは――ぐっと親指を立て、力強いサムズアップを向けていた。

 その光を放つような輝かしさに、何故か彼女の兄の姿も重なって見えた。やはり兄妹である。


 そんな明るい笑顔で見送られた手前、セシリーとテオルグはひとまず歩き出したものの――漂う空気はぎこちなかった。大通りではなく街の外れを歩んでいるので、余計にその静けさが重く感じられる。

 せっかくテオルグが隣に居るというのに、上手く話しかけられない事にセシリーは情けなくなった。


 言いたい事は、たくさんあったはずなのに。私のせいでどんどん空気が重くなっちゃう。


 あの、その、と言い掛けた言葉すら出なくて、セシリーはただテオルグの隣に並ぶ。進む爪先さえ、本当はとても重かった。


 すでに人前で、秘密の特技の怪力を使っているとは言え、どうしても緊張を抱いた。あの村で長年言われてきた言葉と、幼少期から感じていた劣等感を、どうしてこんな――テオルグが隣に居る時に思い出すのだろう。セシリーは包帯を巻いた手のひらを、ぎゅっと握りしめた。


「――突然、すまないな」


 テオルグの声に、セシリーはハッとなって顔を上げる。引き締まった上半身の天辺にある顔が、セシリーを見下ろしている。落ち着きなく首を横に振って「いいえ、そんな事は」とようやく返した。


「テオルグさんの顔が見れて、良かったです。もう、あの、騎士様のお仕事はされているんですか?」

「ああ……崖崩れの時から、二日か三日くらいは休むよう指示されたが、もう復帰はしている。俺も、アシルも。一連の事件の処理も、粗方が終わっている状況だ」

「そう、ですか」


 嬉しいと思っているのに、ぎこちない笑みを浮かべている自覚がセシリーにあった。

 そんな姿を、テオルグも視界に納めていた。頭の高さはほぼ腹部という小さな彼女が、普段にも増して頼りない。懸命に背を伸ばす様は、無理をしている気配を滲ませていた。


「国境支部の連中から聞いた。貴女のおかげだったらしいな」


 びくり、とセシリーの丸い華奢な肩が跳びはねる。


「崩れた岩で覆われた広場を、なんだ、退かして進んでくれて、俺とアシルは随分早く出られたと」


 ドクリ、ドクリ。心臓が、これまでにない動きで、細い身体の奥で脈打つ。


「どうにもその前後の事が曖昧で……あ、いや、覚えてはいるのだが、本当に岩を持ち上げていたのかどうか不思議で。だが」


 テオルグの青い瞳が、強張るセシリーへと定まった。


「どうやら、本当だったらしい」


 セシリーの爪先が、ぴたりと止まった。


「あの時の事も含んで話を……セシリー?」


 数歩分の距離が、セシリーとテオルグの間に生まれる。立ち止まった小さなセシリーを、不思議そうにテオルグが振り返る。


「わた、私、あの」


 セシリーは、濃い緑色のスカートをぎゅっと握る。

 崖崩れの時にふっきれ、あの力を全力で使った。後悔もしていないし、もう恐ろしくはない。

 そう思っていたのに――テオルグの前では、あの自信が崩れてしまいそうになった。




『大人よりも怪力で、気持ちわりぃー!』



『あの子、少し怖いわ。あんなに小さいのに力が強くて』



『あいつに近付くと怪我させられるぞー!』




 昔、言われ続けた言葉が不意に過ぎる。あれらがテオルグの口から出るなんて、思ってはいないけれど、しかし。

 緩やかに動くテオルグの口元を見上げ、セシリーは己の言葉を被せるように放った。


「わ、私、確かに、岩を持てるくらいには力持ちです」


 テオルグは、開きかけた口を閉ざす。


「昔からそうで、生まれた村では、ずっと小さいくせにゴリラみたいな怪力だって言われきて。でも、たぶんきっと、傍から見たら本当にそうとしか見えなくて」


 これでは、まるで捨て鉢になったようだ。


「でも、この力とは、もう上手く付き合ってますし、誰も傷つけたりなんかしません」

「セシリー」

「だから、私、その、私」


 背丈の低い細い身体で、矢継ぎ早にいきなり言ってしまって、テオルグも困ってしまう。分かってはいるけれど、セシリーは声を止められなかった。

 スカートを握りしめる手が、力を増してゆく。包帯の向こうで、微かな痛みが走る。


「セシリー」


 忙しなく紡がれる言葉に、落ち着いた低音がそっと滑り込んだ。

 空いていた数歩分の距離を、テオルグが埋める。男性らしい大きな足から視線を上げてゆくと、遙か天辺で見下ろしている、彼の精悍なかんばせに行きついた。怒ってはいない、けれど少し困惑しているように見える。


「すまない、別に責めるつもりで言ったわけではないんだ。ただ本当にそうなのかと、不思議に思っただけで」


 アシルのように口が上手くないのも問題だな、とテオルグは声を緩めた。セシリーは、そんな事はないと、ぶんぶんと勢いよく首を振る。


「そうか……以前、村を飛び出しこの街にやってきたと言ったのは、この事が関わっているのか」


 以前に話した事を、彼は覚えていてくれたらしい。


「……はい。あの、本当は、誰にもこの怪力の事、言うつもりも見せるつもりもなかったんです。でも、崖崩れの時、ここで使わなきゃ駄目だって思って」


 そう、その思いに、偽りはない。


「だから、あの、私……私……」


 ただ、この人にだけは、後ろめたく思ってしまうのは――。


「き、気持ち悪かったら……ご、ごめんなさ……ッ」


 こんな風に、じめじめして、顔色を窺って、テオルグさんに失礼だって分かってるのに。

 そう口にするだけで、セシリーには精一杯だった。視線を下げて細い肩を狭める。目の前にある腹部すら、何だか見ていられない。


 そしてそんなセシリーを、意図せず高い位置から見下ろすテオルグは。



(生まれたばかりの仔犬が見える)



 至極どうでもいい事を思い浮かべていた。


 身体の厚みから背丈まで、何処を取っても己の身体のほぼ半分以下という小さな娘は、さらに小さく縮まってぴるぴると震えている。

 テオルグの鋼の心臓がきゅうーっと鷲掴みにされ、非常に息苦しくなった。

 頼りなく震えるその存在に、あらゆる不安を全て取り除き全力で守ってあげたくなる庇護欲が掻き立てられる。脳内では胸を押さえ背中を丸めていたが、現実では気合いで足を直立させ倒れまいと意気込んだ。


 それはともかくとして。


 ただ単純に、本当にこのセシリーが岩を退けアシルや己を抱えたのか不思議に思っただけであった。騎士の職務に復帰はしても、ここ最近は書類仕事が多く見回り等には行っていないので、比較的時間を作るのにゆとりがった。そうして彼女に礼も兼ねてやって来たわけだが……何やら盛大に、触れてはならないところへ思い切りぶつかってしまったようだ。

 テオルグはじっとセシリーを見下ろす。まるで彼女は、刑罰でも待っているような沈痛の面持ちを宿している。

 恥ずべき事でも謝る事でもないだろうに、とは思う。しかし、村から離れられれば何処でも良かったと、あの時セシリーはとても寂しそうに呟いた。控えめな性格であるのに思いきった事をしたのだから、よほど彼女にとっては重大な事だったのだろう。安易に言葉のみで否定出来ない事くらいは、人の機微に少々頓着しないテオルグにも分かる。


 しばし考えた後に、テオルグは一つ頷いた。


「セシリー、出掛けついでに付き合ってくれるか」


 テオルグの言葉に、セシリーはのろのろと顔を上げた。



◆◇◆



 向かった先には、折れた木の枝などがうず高く積み重なっていた。大雨によって河川に流されたり、あるいは折れたりなどして散らばっていたものを、騎士や住民などが寄せ集めてきたらしい。もうしばらくしたら撤去するそうだ。

 集められた廃材の山の前にちょこんと佇んで、セシリーは首を傾げる。疑問と共に隣のテオルグを見上げると、彼もセシリーに視線を下げた。


「どうやら、人よりも力に恵まれている事を気にしているようだが」


 テオルグはおもむろに山へ近付いて、その中から太い枝を引っこ抜く。彼の大きな手のひらよりも大きく、つまりはセシリーの小さい手のひらでは握る事すら出来ない太さは有している。とてもどっしりとした、頑丈そうな外見だ。テオルグはそれを片手に持ち、もう片方の手のひらへ軽く打ち付けた。


「異種族の竜人()からしてみれば――気にするものではない」


 言うや、テオルグは太い枝の両端を軽く握り、ふっとごく軽く力を込め。


 バキャンッッ!!


 大層良い音を立てて、太い枝を真っ二つに叩き折った。折れた拍子に木屑が吹っ飛んだ。


 表情を変えず、力んだりもせず、呼吸をするような軽やかさ。

 あまりに軽くて何て事のないように思えるが、恐らくはきっと成人男性でも容易に折る事は出来ないはずだ。仮に出来たとしても、もう少し力んだ様子が見られるだろうに、テオルグは細い小枝でも折ったように。


「こんなの、多くの竜人にとっては普通だ。竜人に限らず、力に富んだ獣人も同じだろう」


 テオルグは折れたそれをぽいっと放り投げる。セシリーは呆然として目で追いかけていた。


 異種族が個々で存在していた時代は、もう昔の事。現在は異種族同士が混ざり合って共存している。それぞれの文化や特性など、驚く場面は往々と見られるにしても差別的に取る事はないはずだが。

 まだまだ、発展途上という事なのだろう。国内の全てがそうとはまだ言えない現状。

 あるいは同種族であるからこそ、時折現れる珍しい性質を有するものに対して厳しい目で見てしまうのか。


 確かにこれほど小さくて、細く華奢で、ふわふわとした可愛い――いやこれは関係ないから省略するとして、そんなセシリーであるから余計に人の目を集めてきたのだろうけれど。


「要するに、貴女のその力は、俺には珍しいものではないという事だ」


 テオルグにとっては、知ったとしても何かが変わる事はなかった。


「で、でも、私、小さい頃から、ずっとこれを気持ち悪いって」

「幼い頃から……。貴女の故郷に対してこう言ってはならないだろうが、嘆かわしいな」


 竜人は総じて気位が高く、強さを求め厳しくあるが、だからと言って同胞を貶める事は決してない。他種族に対して厳しい態度は取っても、その強さに感服すれば潔く背中と翼を差し出す気概を有している。

 それが、竜人の誇りだ。


「それに、竜も竜人も、幼い内からわりと力がすぐに現れる。セシリーよりも小さな子竜が木をへし折る事は、よく聞く話だ。それを思えば……何処がおかしいか」

「で、でも、でも」


 セシリーは詰め寄るように、テオルグへと踏み込む。


「家族が、調べてくれて……私の家、ずっと昔に異種族と結婚したみたいで、それが何なのか分からないけど、私だけ」

「ああ……なるほど、確か忘れられた頃、ある日突然に何世代もの前の血が現れたりすると聞く。それがたまたまセシリーで、たまたまその力だったのだろうな」


 納得したようにテオルグは頷く。

 対してセシリーは、酷く混乱していた。


 だって、そんな、あっさりと。

 今まで、どう言っても納得してくれる人は、あの村にはいなくて、ようやくルシェ一家に言えたくらいで。


 ぐるぐると、思考が止まらず回り続ける。


「だって、ゴリラの獣人かもしれないですし、今まで」

「セシリー」


 テオルグの低い声が、困惑して震えるセシリーの言葉をそっと止めた。見上げた先には、静かな青い瞳。力強い光を帯びた、あの竜の眼が、セシリーを見つめている。


「貴女の目の前に居るのは、これまで多くの種族から恐れられ、挙句に同僚である騎士からもたびたび怯えられてきた竜だ。だが、貴女は怖いと一言も言わなかった」


 セシリーはこくりと頷く。その仕草に躊躇いはない。

 テオルグにとって、それがどれほどの救いであったか、彼女は知らないのだろう。


「だから、俺からも返そう。俺が貴女を恐れる事は決してない」

「テオルグさん」

「さらに言えば、アシルも……国境支部の奴らも、貴女の事を一言も悪く言っていなかった」


 思ってもなかった言葉を正面から浴びせられて、セシリーはさらに混乱する。そう言われて嬉しいはずなのに「でも」「あの」と唇からこぼれる声には動揺がありありと浮かんだ。


「まだ、自信を持つには至らない、か」


 なら、と呟いたテオルグは、背中を屈めて頭三つ分は軽く離れた距離を少し縮める。見上げたセシリーの視界に、彼の黒髪がさらりと動いた。

 胸の前で握っていたセシリーの小さな両手へ、テオルグの手が伸びる。白い鱗が散りばめられた筋張った大きなそれが、セシリーの指先をするりと取って引き上げた。

 ただの指なのに、太さも長さも全く違う。当たり前の男女差に、セシリーの丸い肩がどきりと跳ねた。


「……この包帯も、崖崩れの時のものか」

「は、はい」

「そうか……なら、これも含んで誇るべきだ」


 包帯の上から、手の甲を指の腹でなぞられる。労るような仕草と指先の感触に、セシリーは息を飲み込んだ。


「この手で国境支部の騎士と竜を救い、作業に尽力したと、堂々とすればいい。その上で何か不満を言うものがあれば、こう言ってやれば良いのだ。私は竜を救った、出来るのならお前もやってみろ、と」


 何処か挑発的に、けれど力強いテオルグの言葉。それは、高潔な竜の種族にある彼が認めたという他ならぬ証拠だった。


 セシリーは緑色の瞳を瞠目させ、持ち上げられた両手とテオルグを交互に見やる。何処か信じられないような心地がして、小さな唇は気弱に開かれる。


「でも、私、本当に酷い怪力で……」

「世の中、色んなものがいる。気にする事ではない」

「テオルグさんを、き、気絶させてしまったくらいなんですよ……?」

「うぐ……ッいや、あれは、その」


 テオルグは一瞬、言葉を詰まらせた。


「あれは、貴女のせいではなく……そう、俺の精進が足らなかっただけだ。今後は鍛錬にも力を入れるから、あの失態はもう見せない」


 そう、物理的な腕力による衝撃で気絶したのではなく、あまりの小ささと柔らかさにやられて気絶したなど。

 絶対にもう見せない。そして決して言わない。


 密かに堅く意気込んだテオルグであったけれど、背を屈めても低い場所にあるセシリーの頭がぴたりと止まって身動ぎ一つしない事に気づき、はたと青い目を瞬かせる。


「セシリー? どうした、何か――」


 言い掛け、彼は口を閉ざす。

 淡い色の髪の下で、セシリーはまなじりに涙を滲ませていた。


「ちょ、ま、すまない、また何かしたか。やはりどうも、口が上手くないから、俺は」


 自らよりも小さな娘に、背を曲げたまま慌てふためく長身のテオルグ。セシリーはぷるぷると頭を振る。


 違う、違うんです。これは、悲しいとか傷ついたとかではなくて。


「……そういう風に、真剣に向き合ってくれる人、いなくて……うれし、くて」


 十数年間、セシリーはひたすらこの謎の怪力と付き合ってきた。

 身内やルシェ一家のように、認めて優しく笑ってくれる人々もいたけれど、それは本当にごく僅か。ほとんどの時間、陰口とからかいで苛まれてきた。

 自らが生まれ持ったもの、決して手放せないものと受け入れ、制御だって完璧に出来るよう努力を続けた。けれど、それでも心の何処かでは、ずっと願っていたのだ。

 こんな風に――力強く、全てを認めてくれる人が現れる事を。


 だからきっと、こんなにも嬉しくなってしまうのだ。


 セシリーは笑おうとして、くしゃりと表情を歪めた。その拍子に、まなじりから溜まっていた雫がこぼれ落ち、柔らかい頬を伝う。それを咄嗟に指先で何度も拭い取り、ようやく笑みを浮かべた。


 ふわりと小さな花が咲いて香るような、ほのぼのと温かい、セシリーらしい微笑み。


 彼女の手を取ったまま、テオルグの背がぞくりと震える。

 採掘場の広場で覚えた、あの期待と昂揚が、再び駆け巡った。


 離れていった小さな手を追いかけるように、テオルグは空いた手をセシリーへ伸ばす。ごしごしと擦ったせいで目元は赤く染まっているが、潤む瞳は晴れやかに澄んでいる。無意識の内に、テオルグの指先はセシリーのまなじりをなぞった。

 鍛錬を続けたのだろう、無骨に固くなった指先の感触にセシリーは小さく肩を跳ねさせたが、それはくすぐったさで肩を竦める動作に近い。


「――いッ!」


 唐突に、セシリーの表情が強ばりひきつった声が上がった。


「い、つ……ッう、すみませ……」

「何だ、どうし……すまない、まさか手が?!」

「いえ、あの……その……」


 ごにょごにょと、セシリーは声を濁す。


「……き、筋肉痛でして」

「…………筋肉痛?」

「うう、はい。そんなに運動していないくせに、急に頑張って動いてしまったから、ちょっとだけまだ」


 両手を持ち上げられ、ついでに上がった二の腕が突然ビリッとあの痛みを走らせたのだ。油断していた。けれど、何もこのタイミングじゃなくたって、とセシリーは恥ずかしくなる。


「……ふ」

「?」

「き、筋肉痛か、そうか……ッふ、ふふ」


 セシリーはテオルグを見上げ、思わず口を開いて呆然とした。


 テオルグの精悍な顔に、笑みが刻まれていた。


 性格が面持ちに表れ、厳しそうな心象を与えがちなテオルグのかんばせ。そこから張りつめたものを完全に消し去り、浮かべた笑みは、甘く落ち着いていて――男性の魅力を惜しげもなく放っていた。

 アシルやルシェのように、天高らかに響かすお日様のような快活な笑みではない。けれど、それとはまた異なる、見惚れる仕草だった。


 出会ってから見てきたテオルグの表情は、きりりと引き締まって凛々しく、揺るぎない冷静さを纏っているものがほとんど。こんな風に、誰が見ても【笑っている】と認識するような、大きく動かした表情は見た事がなかった。

 けれど、それが今、目の前に。

 間近に広がったテオルグの年上の微笑みに、セシリーの顔が一気に赤く染まる。心臓が別の意味で、激しく飛び跳ねた。初めて見たせいだとしても、酷く恥ずかしく、忙しなくなってしまった。


「も、もう、そんなに笑わないで下さいッ」

「く……ッいや、すまない、そうか、筋肉痛か。ははッ」


 竜の名を思い出させる、尖った白い牙が開かれた唇の向こうに見える。

 その笑みは長い間は続かず、すぐにあの冷静さを纏う表情が戻ってきた。普段は決して見せなかった表情を浮かべていたと、彼は自覚しているのだろうか。

 尋ねようとしたけれど、セシリーは止めておいた。


 テオルグは一度呼吸を置くと、再びセシリーを見下ろした。小さな背丈に合わせて、その背を屈める。


「……言い忘れたが、セシリー」

「はい」

「採掘場に駆けつけてくれて、感謝する」


 ありがとう、と改めて付け加えたテオルグに、セシリーは微笑みをさらに柔らかく深めた。


「いいえ、私こそ」


 鱗が散りばめられた大きな手と、包帯の巻かれた華奢な小さな手が、静かに繋がる。ぎこちなく、けれど、迷い出さないようにしっかりと。

 指先を通して伝わる温度が、互いにくすぐったく染みていった。



 そしてその瞬間、セシリーの中に残り続けた劣等感という澱が、全て温かく消え去ったのであった。



◆◇◆



 その後、セシリーの両手に巻かれた包帯の理由や風邪が治ったばかりの病み上がりという事を詳しく聞いたテオルグは、即効自宅に送り届けるへ至った。

 大袈裟に包帯を巻かれただけだし、風邪もすっかり治ったとセシリーも言ったのだけれど、既にもうアパートメントハウスの前である。


 見た目はチビな娘であっても、中身はゴリラ怪力だから大丈夫なのに。


 という謎の自信に満ちているが、その心遣いが嬉しくもある。仰天するに違いない怪力を見ても態度が変わらず、雑な扱にもならない。やっぱりテオルグは凄いと思う。


「ありがとうございます、テオルグさん」


 ぺこりと頭を下げると、淡い色の髪が毛先を揺らす。そうして起こされた彼女の表情には、ふわりと綻ぶはにかみ。緩んだ仕草は小動物感が満載で、テオルグに軽い目眩が起きる。

 だからその低い場所でふわふわと和ませないでくれ、と内心顔を覆っていたが、テオルグは気絶した失態を二度は見せまいと気合いを入れた。

 主に、両足に。


「……いや、突然すまなかったな」

「そんな事は! 何だか私の方が……凄く、元気づけられました」


 晴れ晴れと微笑むセシリーに、ふと無言になったテオルグの眼差しが注がれた。


「……あー、その、セシリー」

「はい?」


 青い目が、何度か泳ぐ。珍しいと思いじっと見上げていると、テオルグは一度咳払いをして言った。


「ここ最近の一連の事件は、粗方が片付いているのだが、もう少しだけ続きそうでな」


 珍しく、言葉もまごついている。本当に珍しいと思っていたセシリーだが、直ぐに閃いた。


「……なるほど、分かりました。採掘場の後片付けがあるんですね?」

「ん?」

「大丈夫ですよ、筋肉痛だってだいぶ引きましたし、万全の状態でお手伝いします! なんたって半分くらいはゴリラの血が混じってますからね!」


 今にも折れてしまいそうな華奢な腕に、むん、と気合いを込めるセシリー。危うくテオルグは吹きだしかけたが、「それは、頼りになるが、そうではなくて」とやんわり宥めた。


「状況が落ち着いたら……良ければまた、付き合ってくれないかと、思ってな」


 セシリーは、緑色の瞳を真ん丸に見開かせる。柔らかそうな睫毛を何度も瞬かせ、大きなテオルグを見上げた。


「……思っていた以上に、俺は貴女の事を……知らなさすぎたらしい。それが、どうも気に入らなくてな」


 ぎこちなく言葉を選ぶテオルグの頬が、微かに強張る。けれどそれは、不機嫌でそうなっているのではなくて、照れ隠しをしているように見えた。


 えっと、それは、つまり。


 ほのぼのと構えていたセシリーにも、似たような緊張が走り、柔らかな頬が一気に染まった。


「……その力の事も含んで、知りたいと思った。その、貴女の事を」

「テ、テオルグ、さ」

「また一緒に、と思うのだが……声を掛けても、良いだろうか」


 びっくりしすぎて声が出ないとは、正にこの事。真っ赤になったまま、あわあわと口を開閉させる。

 きっと自身も大概の顔をしているだろうが、それ以上に慌てふためいているセシリーがいるので、テオルグも幾らか気を落ち着かせた。恐る恐る今一度窺うと、セシリーは取れてしまいそうなほど何度も頷いた。


「よ、よ、喜んでぇ……ッ!」


 顔には僅かも出さなかったが、テオルグはどっと安堵して緊張を解いた。


「あ、あの、私も、あの」


 何度か声をまごつかせた後、セシリーも自らの両手をきゅっと握り、意を決してテオルグへ告げた。


「テオルグさんの事、知りたいと……ずっと思っていた、ので、とても嬉しいです……!」


 セシリーは何とか言い切ったけれど、押し寄せる感情につい尻込みしてしまい、弱々しく窺った。


「……って、言ったら……め、迷惑ですか……ッ?」


 湯気を立たせるように、真っ赤に染まった頬がテオルグを見上げた。胸の前にすら届かない物凄く低い位置で、ミルクティー色の髪と緑色の瞳が恥ずかしそうに煌めいて、小さな唇と華奢な肩をぴるぴると震わせている。


 いつぞや抱いた衝撃をさらに上回るものが、鋼の竜人の思考に奔流のごとく押し寄せる。


「ぐ……ッ」


 耐え抜け! ここで意地を見せねば竜とは言え――


「テオルグさん……?」


 必死で抗うテオルグの眼下で、細い首が無防備に傾げられる。

 こてりと動くその仕草に、何かが木っ端微塵に砕け散った気がした。



 ああもうたぶん駄目だな。

 このくそ可愛い小動物に、勝とうというのは。



「よ……ッ喜んで」


 テオルグが、ようやくその一言を絞り出すと。

 頬を染めるセシリーに、慎ましくも美しい花がふわりと咲いた。


 テオルグは、くず折れそうになった両足については何とか地面を踏み抜く勢いで立たせたものの。

 背中からは力が抜けてしまい、腹部を刺された重傷者のような情けない恰好になってしまった。




ニヤニヤしていたのは、何を隠そう執筆中の作者。(不審人物)

そんなチビとデカを、全力で愛したいです。

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