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30 指先を愛しむ(1)

2015.11.27 更新:1/2


お待たせいたしました。

怪力全開放した後の、チビな少女とデカの竜人、ついに進みます

 国境の街の上には、穏やかな陽射しを注ぐ青空が広がっていた。

 びっしゃりと濡れて重苦しかった街並みは、すっかりと乾いた明るい煉瓦で彩られている。激しく落とされた雨粒でしな垂れた草木も、光に向かって逞しく上向き、気持ちよさそうに葉を揺れている。

 雨で荒らされてしまった庭や家の先、路地を片付ける人々の姿がちらほらと見受けられるけれど、その表情は一様に明るい。羽狂いだとか大雨だとか、気を張った日々からようやく解放された事が大きいのだろう。


 ここしばらくは続いた悪天候が、嘘のような清々しさ。半年前にやって来てからずっと見ていたいつもの街の風景に、のんびりと窓辺から見下ろすセシリーも表情を緩めた。

 と、その時、玄関の扉を叩く軽快なノックの音が響く。セシリーは肩に羽織ったカーディガンを押さえながら、「いててて」と一人呟きつつトコトコと玄関へ近付く。


「セシリー? 私だけど、入るよー?」


 聞き慣れたルシェの声に「どうぞ」と応じると、ガチャリと鍵が解けて扉が開かれる。貸した予備の鍵を片手に、明るい茶色の髪と瞳を持つルシェが玄関へと入ってくる。


「あ! 起きなくて良いって言ってるのに!」

「だって、あんまり寝てるのも暇だし……それに、もうだいぶ楽になったんだよ」

「まだ二、三日しか経ってないわよ。赤い顔じゃ説得力ないって。あーほら、まだ痛いんでしょ。ベッドの住人になってて」


 ルシェの温かい手に背中を押されながら、セシリーはゆっくりと再びベッドに入り、背を伸ばして座る。ルシェは満足そうに頷いて、手提げ籠を机に置いた。中から取り出したのは、布に包んでいた蓋付きの小さな鍋。ふわりとバターの香りが漂った。


「今日は母さんが作った野菜入りのリゾット。お昼と夜はこれ食べてね」

「ありがとう。何だか悪いなあ、美味しいご飯の面倒まで見て貰って」

「なに言ってるのよ! 風邪っぴきがそんな心配しなくて良いんだから」


 商店通りで販売している甘い果実水のカップを二つ手に持って、ルシェがベッドに腰掛ける。はい、と差し出された片方のカップを、セシリーは受け取って両手で持つ。


「それに、兄さんがあんなに早く出てこれたのはセシリーのおかげなんだから。これぐらいはさせてよ、お礼って事でさ」


 お日様のような明るい笑みがルシェから弾ける。今日も友人は眩しい。




 古い採掘場で起きた事件と、天敵――羽狂いの事件は、雨が上がると共に終結を迎えたそうだ。

 周辺の安全を脅かした羽狂いは全て捕獲し、他支部の騎士たちがきちんと自分たちの管轄へ持って帰り、崩れた採掘場はもとから誰も近付かない場所なので整備し直す等の話もなく再び閉鎖されるらしい。


 あのような崖崩れに遭って、重傷者は出ずにしかも猛スピードで救出作業が出来たのは、奇跡としか言いようがない――誰もが、そんな言葉を呟いた。


 そしてこの一連の出来事は、疾風のごとく近隣の人里を駆け巡っているらしい。


 あの出来事には浅からず関わっているものの、当のセシリーは曖昧にしかその後の事を知っていなかった。

 ――翌日、見事に風邪をひいて熱を出した挙げ句、全身が筋肉痛に襲われたせいである。


 なんの装備もしていないただの薄地の私服で、冷たい雨が降る中、短くはない時間ずっと作業をしていたのだ。体調を崩して当然である。

 しかも、最近は本当にあそこまで全力で動く事がなかったので、小さな身体の至る所がビキビキとひきつっている。人並み外れた怪力でも、セシリーの身体はごく普通の娘のそれである。強靱に鍛えているわけではないから、これも仕方がない。


 これで全然元気だったら、いよいよゴリラの代名詞が本物になるところね。


 なんて、冗談ぽく思うくらいセシリーは気にしていなかったのだけれど。

 風邪と筋肉痛にダウンした事に顕著な反応をしたのは、ルシェ一家だった。


 アシルの件を改めて礼をしに来たルシェたちは、よたよたと足元がおぼつかず顔を真っ赤にしているセシリーを見るなり、玄関先で目を剥いて仰天した。風邪と筋肉痛で動けないと言えば、あれこれと世話を焼いてくれて、「熱を出すまで頑張ってくれてありがとう」と労いの言葉まで言ってくれた。ただの風邪と筋肉痛だというのに。

 セシリーとしては、礼の品――特製焼き菓子――を豪快に放り投げて診療所に担いでいってくれた事や、それから身体に優しい食事を毎日作ってくれる事の方が、嬉しかったしとてもありがたかった。

 自分のした事は些細なものだからと言えば、「なんて優しい子!!」と叫んで痛いぐらいの抱擁をしてきた。

 本当に素敵な友人一家である。

 もちろん、実際に筋肉痛だったので痛かった。




「でもセシリーのおかげだからね、本当。勿論テオルグさんのおかげでもあるけど、セシリーが居なかったらあんなに早く助け出せなかったって、みんな言ってるんだもの」

「そんなに言われると照れるよ。夢中になってただけだから」


 広場を埋め尽くす岩を退ける道中の事は、必死になるあまり実はうろ覚えだ。ルシェ曰く、「岩を割って蹴り飛ばして放り投げて、物語の勇者みたいだったよ」との事である。かなりやらかしてしまったらしい。


「本当、無茶して」


 ルシェの眼差しが、セシリーの手元へと移った。細く小さい両手には白い包帯が巻かれている。素手でやれるような事ではなかったのだから、これも気にしていない。

 ただ、重傷者のような手当てを受けてしまったと、ちょっぴり笑ってしまうだけだ。


「少し切れちゃっただけだから平気。それにこういう時ちゃんと使わなきゃ意味ないもの」

「もう……。私が言うのは駄目だろうけどさ、大事にしてよ、本当」


 それと、ありがとうね。笑ったルシェへ、セシリーも笑みを返した。


「……大勢の前で、ついに使っちゃったねえ」


 セシリーが呟くと、ルシェの表情がやや陰った。


「やだ、ルシェがそんな顔しないでよ。私が好きでした事なんだから。それにね、何だか前よりも気にならないの」


 誰かに見られる事は、あんなに恐ろしかったのに。


「たぶんルシェとか騎士様たちが、喜んでくれたからかな」

「セシリー」

「だから平気だよ。本当に」


 ルシェの表情が、ふわりと優しく緩む。そしていつものように、頼もしく胸を張ると悪戯っぽく言った。


「そうね、セシリーのおかげだもの。もしも変な事言う人がいるなら、私がぶってあげるわ」


 ルシェは腰掛けていたベッドから立ち上がり、「じゃあまた明日来るから。ちゃんとご飯食べてね」と念押して帰って行った。

 パタン、と玄関の扉が閉じ、鍵が掛けられる。

 ルシェの足音が遠ざかり、部屋の中にはセシリーのみとなる。しんと満たされた静けさに自らの呼気の音を響かせ、ベッドへ仰向けに倒れ込んだ。

 ぼんやりと天井を見上げる顔の前へ、筋肉痛に震える腕を持ち上げ、両手を広げてみる。白い包帯が包む、小さな手のひらと細い指先。少し曲げると、ぴりっとした痛みが走る。


 あんなにあっさりと人前で使えたなんて。本当に不思議。


 故郷で暮らしていた十数年間、ゴリラだ何だと散々からかわれ陰口を言われ、思い返す限りろくな扱いは受けなかった。過ぎた力を制御できるようになってからも、やはり他の人と一線を引かれたような疎外感を常に感じていた。

 今も、セシリーの脳裏に浮かんでくる。幼少期からずっと「ゴリラ女」「怪力女」と笑ってきた男の子たちの声が。その中でも、特に構ってきた意地悪な男の子の「ゴリラの嫁入り」発言が。

 今ならば実害のない嫌みだと流す事も出来るだろうが、十数年間そんな事を言われ続ければすっかり自信を喪失するというものだ。

 人よりも小柄で細いのに腕力ばかりが突出して、他人に言われずともセシリー本人の方が自覚している。こんな力、誰にも知られないまま墓場に持って行くべきだと堅く誓っていたが……。



 そんな力でも……誰かのために、役に立った……んだよね?



 不安そうにしたルシェの手前、ああ言ってみたけれど。まだほんのちょっぴり、セシリーの中には翳りのような恐怖があった。

 過ぎた怪力を褒めそやしてくれたルシェ一家を、もちろん疑うつもりなんてこれっぽっちもないのだけれど。胸にはまだ、引っかかって残っているものがある。



 テオルグさん……どう思ったかなあ……。



 風邪を引く原因となった採掘場広場で、セシリーは感情のあまり大失敗ともいえる事をしている。

 竜人姿のテオルグの胴体をきゅっと締め上げ、気絶させてしまった。

 慌てて半泣きで騎士に渡したけれど、彼はその後大丈夫だったのだろうか。騎士団はこの数日間、大雨による見回りだとか羽狂いに関わる仕事だとかに追われているらしい。ルシェが他の騎士から聞いたところによると、テオルグもアシルも無事らしいが……。

 ああ、大失敗。セシリーは力なく腕を下ろしリネンへ横たえる。


「……嫌われたく、ないなあ」


 あの人には。あの人にだけは。


 大きな白い竜人に肩を引き寄せられた事を思い出し、風邪のせいだけではない熱さが頬を染める。けれどその後自らがしてしまった事を思い出して、細い眉がすうっと下がる。


 あんなに威勢良く言っておきながら、自分の事には及び腰なのだ。

 変われるのだろうか、本当に。

 そう思うのは、セシリーの中でテオルグが、それだけの存在になっているからなのだ。一人きりの部屋に響いたセシリーの吐息は、熱っぽく消えた。



◆◇◆



 緊迫した空気と一連の事件は、降り止んだ雨と共に終息を迎えた。

 とはいえその後も国境支部の騎士たちは、大雨による各地の状況調査、もし何か被害があれば作業の協力、羽狂いの件での報告書のまとめや使われた道具の設備点検などなど、事務処理に追われた。しかし、雨雲の晴れた空のごとく、彼らの表情は一様に明るいものだった。

 この一帯で暮らす人々、彼らの暮らす街、同じ騎士団の同僚に大事が起きなかったのだから。


 そして、清々しい風と陽射しの注ぐ、今日の国境支部。所属する騎士たちには格別の笑みが浮かんでいた。

 休息していた国境支部最速のペアが復帰したのだ。




 正午を迎えて食事と休憩を取る広々とした食堂には、多くの騎士が集まっていた。両手を叩いて賑わう彼らの中心に、採掘場で崖崩れに巻き込まれながら軽傷で救出されたペア――アシルとテオルグが取り囲まれていた。

 数日間、休息を言い渡されていた彼らであるが、先ほど業務に復帰する許可が出されたのである。

 騎士服を着込んだ姿は普段と全く変わらない。先日崖崩れに遭い岩の下敷きにされていたなんて、誰も思わないだろう。


「軽い傷だけだったのに悪かったな」

「直ぐにでも復帰して良かったんだけど、医務室の奴とか支部長が『良い機会だから休め』って言うからなあ」


 テオルグとアシルが肩を竦めると、彼らは気にした様子もなく「良いってことよ」と快活に笑った。


「羽狂いの捕獲の時とか気張ったからな。後始末くらい任せて貰わないとこっちが困るぜ」

「そうっすよー、なんならまだ休んでくれても良いんですから」


 彼らは互いに顔を見合わせながら、明朗に言った。屈託のない笑みには、二人の復帰を喜び、また祝う温かさが浮かんでいる。

 それを受け、テオルグとアシルはふっと緩めた呼気を漏らす。


「気にするな、人数が増えれば事後処理も早く終わる。そうしたら通常業務にも早く戻れるだろう」

「雨も凄かったしなー。ここしばらくは出来なかった空中訓練が楽しみだろー?」


 その場に居た騎士は一様に笑みが凍りつき、次の瞬間には絶望に染まって床にくず折れた。




 ――復帰祝いの空気がひとまず落ち着いたところで。

 各々の騎士たちはテーブルにつき、昼食を取り始めた。しかし食堂の空気を賑やかにさせるのは、やはり先の崖崩れの件であった。


「本当、あの時は寿命が縮みましたよ。いきなり岩の下敷きですから」

「二人を掘り起こせー! って、もうてんやわんやで走り回って」

「お前泣きそうだったしな。というか、実際ちょっと泣いてただろ?」


 あの時は一大事だったが、過ぎた今ではもう笑い話。埋められた当人たちをおかずにご飯が進む。

 アシルやテオルグも気にはしておらず、フォークを運ぶ口元は緩んだ。


「俺たちもびっくりだっつの。古い採掘場だったのは承知だけど、あそこまで見事に割れるとは。なあテオ?」


 ニヤニヤと笑って話を広げるアシルに、テオルグは机の下で足を軽く小突く。テオルグの顔にも、珍しく笑みが浮かんだ。ごくうっすらとであるが。


「俺が全面的に防いでやったんだ。無傷で良かっただろう」

「……あ、それ! 助けて貰ったのはありがたいんだけど、もうちょっとこう、優しく出来なかったのかよ。身体中が痛い原因ってお前だったんだろ?」

「ああ……まあ、胴体で潰したか前足で挟んだか締め上げたかしていたな。恐らく」

「どおりで息苦しかった!」


 アシルは快活に笑うとスープを飲み込んだ。


「でも、お前は鱗が剥げたり翼が破けたりしたしな……文句は言わないさ。ちゃんと元に戻るんだよな?」

「ああ、問題ない」


 そう言い掛けたところで、テオルグもはたと思い出す。


「……そういえば」

「ん?」

「妙に腹周りが鈍く痛むんだが……この間、何かあったか」


 テオルグが脇腹をさすると、食堂の空気が不意に変わった。

 見れば周囲で昼食を取る騎士たちが、全員、ニヤニヤと笑い始めた。「何だその顔は気持ち悪い」とテオルグが普段の調子で言うと、さらにニヤニヤニヤと不気味な笑みを深める始末だった。


「ええ~? そりゃあね~?」

「もうあんな熱烈なシーンがあったらねえ~?」

「さすがテオルグさんっていうか、ねえ~?」


 国境支部の屈強な男たちから間延びした言葉が返される。鬱陶しい事この上ない。

 アシルはそれに迷わず食いつくと、身を乗り出して「え、なになに、面白い事でもあった?」と騎士たちの顔を見回す。


「もう面白いどころじゃなかったですよ」

「いやあ、色んな衝撃が重なった日でしたよ」


 食堂にいる騎士たちは、揃って椅子をガタガタと引っ張りテオルグとアシルへ近づく。その顔には、やはり不気味なにやついた笑み。第三者から見れば騎士ではなく、悪巧みする無頼漢そのものだろう。


「実はですね、テオルグさんやアシルさんが崖崩れに遭った時、何日も掛かるだろうって全員で覚悟していたんです。だけど、思わぬ助っ人のおかげで、あんなに早く掘り出す事が出来ました」


 そういえば、代わる代わる見舞いに来た者たちもそんな事を言っていた気がすると、テオルグとアシルは思い出す。

 無頼漢の顔のまま、騎士たちは口に手を当てて各々ふふっと含み笑いをする。


「誰のおかげだと思います? ねえねえ、誰のおかげだと思います~?」

「くどい、さっさと言え」


 テオルグはスープの入った器を口元へ運び、


「我らが天使の――セシリーお嬢様です!」


 ブッホ、と盛大にむせた。


「いやあ、あのちっちゃくて可愛くてふわふわしてるセシリーお嬢様が、まさかの大活躍。採掘場の広場に転がった岩を、割るわ蹴るわ投げ飛ばすわの無双っぷり」

「俺ら出る幕なかったな」

「それで、一番奥まで道を拓いてくれて、テオルグさんとアシルさんを掘り出してくれたんですよ」


 テオルグはむせながら、口元に手の甲を押し当てる。アシルは茶色の瞳を見開くと、何度も瞬きをして呟く。


「……まじで?」

「まじっす! 驚きでしょ? アシルさんは気絶してたし分からなかったと思いますけど。いやもうあの時のセシリーお嬢様の背中は凄かったです」

「しばらく夢か現実か分からなかったです。折れちゃいそうな腕で岩を持ち上げて……ちょっと軽く、常識が見えなくなりましたね」

「へえ……」


 アシルはやや表情を崩したが、その驚きはもっと別の方向に向いていた。

 あの子、人前で《特技》を披露したのか。

 アシルの長い指は、神妙に顎を撫でる。


「それで掘り出した後も後で凄かったですよ」


 騎士たちは頷きながら、その場面を語った。


 岩から出てきた後、テオルグは気絶し、正面に座り込んだセシリーへ覆い被さるように倒れ込んだ。見守っていた周囲も驚いたけれど、それ以上だったのは倒れ込まれたセシリーだろう。


 彼女は相当パニックになったらしい。自らよりも遙かに大きく重量のあるテオルグ(竜人)を横抱きにして走り出した。


 小さな少女が倍の体格を有する男を抱えるという、衝撃が迸る絵面。しばしの間、誰もが呆然として動けなかった。慌てて小さな背中を引き留め、支部にも医務室はあるからと説得し、騎竜の背にテオルグを乗せて帰還となったが……。



「――あーっはっはっは!!」


 騎士たちの話を聞き、アシルは躊躇なく笑った。ごつい竜人を横抱きにする、小さく華奢な少女。想像するだけで爆笑は免れない。


「さすがセシリーちゃん、やっぱりあの子は凄いな!」

「ちなみにアシルさんはぬいぐるみ抱っこをされて救出されましたよ」

「…………え、そうなの?」


 囲む騎士たちはこっくりと頷いた。


「けど、これらは序の口です。本当に凄かったのは……ねえ?」

「ちゃんと覚えてますか? テオルグさん」


 ニヤニヤとした笑みが、テオルグへ向けられる。テオルグは何処か呆然とした表情をし、時々忙しなく口元を手のひらで覆った。


「いや、あれは……は? 夢じゃ、なかったのか……?」

「何言ってるんすか、夢にしちゃ駄目ですよ!」


 ニヤニヤとした笑みがテオルグに集中する。が、今の彼はそれを一蹴する事は出来ない。


 採掘場の広場であった事は、はっきりと覚えている。崖崩れに遭い、岩の下敷きになり、尾と翼が軋んで痛みが走り、一筋の光明のごとくセシリーの姿が見えた事まで。

 確か、その後は――。

 大部分をセシリーで埋め尽くされた記憶が、テオルグの脳内を高速で駆け回る。ついでに、濡れた淡い色の髪の感触や半分どころか三分の一しかない小さな手の柔らかさ、全く脅威の感じられない薄桃色の丸い爪先、泣き出しそうな微笑みなども鮮明に走り、テオルグは心中で絶叫した。


 いや、あれは確かに夢ではないだろうし、本物だとはあの時自分も思ったけれど。



 ――ほら、全然、怖くなんてないです



 ――ごぶじで、よかったですゥ……!



 白竜の指を二つの手のひらで包んだあれも、竜人化した腹部へふわりと寄り添ったあれも全て、確かに実際にあった事だと。


(…………見た目の通りに小さくて柔らかかったな)


 いや違う。

 そうじゃない。気にするべきところはそこではない。

 テオルグは混乱していた。


「……セシリーが三メルタくらいありそうな岩を持っていたように見えたんだが、あれは」

「夢じゃないです。俺らも見てます」

「……脇腹が妙に痛いのは」

「腕に力が入ったんじゃないですかね」


 テオルグは自らの脇腹を擦った。


「俺が気絶してる間に、随分おもしろ……大変な事があったんだな」

「なんかアシルさんはそんなに驚いてませんね」

「あんなちっちゃくてふわふわした可愛い子が、岩を放り投げたんですよ。驚きません?」


 アシルはパンをひと千切りすると、口に放り込む。


「驚きはするけど、まあ、前から知ってた事だったりするし」

「ええ?! そうだったんですか?!」

「俺も成り行きだし、本人からも秘密にして欲しいって言われたから」


 誰にも知られたくないと、セシリーの気弱な瞳が以前語っていた。随分な事を言われてきたという事をアシルも悟って、彼女の秘密の特技については誰にも言わない事を誓った。

 けれど、セシリー本人がそれを大勢の前で明るみにしたという事は……。

 アシルはちらりとテオルグを見やる。劣等感を突き破るほどの存在であったのは、恐らくアシルではなくこのテオルグの方なのだろう。


「まあそれは置いといて。お前らはどうなんだ」

「ん? 何がだ」

「セシリーちゃんがとんでもない怪力だって知って」


 アシルの問いかけに、騎士たちは互いに顔を見合わせる。


「驚いたといえば驚いたけど……」

「でも、おかげでうちの支部から負傷者は出なかったし、あんなに早く作業が出来たんだし」

「そうそう、尊敬と感謝しかないよな」


 頷き合う彼らは、しまいには「天使という事実は変わらねえ!」などと叫び始める。

 国境支部の猛者たちは、分かりやすく単純だった。普段から異種族が混合する環境であるがゆえの柔軟性か。

 こいつらはこうだよなあ、とアシルは笑ったが。


「……あ、テオ?」

「先に部屋へ戻っている。事務仕事も溜まっている事だしな」


 テオルグはそう言って椅子から立ち上がり、空になった皿などを返却して食堂を去っていった。遠ざかるその後ろ姿は、数日前と変わらない毅然とした騎士であった。


「……あんまり変化がないっすね」

「もうちょっとこう、ウガーッてなるかと思ってたんだが」


 不思議そうに表情を変える騎士たちの中で、アシルはくつくつと喉を鳴らして笑った。


「お前らには、そう見える?」


 あれはきっと違うだろうなあ、とアシルは気付きながら、何も言わずに昼食を腹に納めた。


「あ、そうだお前ら! セシリーちゃん……うちの妹をからかうなよ! 怪力怪力って言って回るのもなしだからな!」

「言いませんよー!」

「そんな事言う奴らは俺らが絞めます!」


 食堂には国境支部の鍛えられた猛者たる騎士たちの、笑い声が朗らかに響いた。



◆◇◆



 自室に戻ったテオルグは真っ直ぐと椅子に向かい腰掛けた。天板の広い机の上には、休むよう言い渡された数日間の内に溜まった書類――副隊長以上の確認が必要なものだろう――が重なっている。それを何となしに横目に見ながらも、頭の中に思い描かれるのは先日の件であった。


 岩の下敷きにされたテオルグとアシルを、短時間でセシリーが救出したという騎士の語り。

 にわかに信じがたいのが、テオルグの率直な感想だった。

 国境支部の男たちが大層驚き興奮して語るのだから、もちろん嘘だとは疑わないし、直径三メルタ近い岩石を頭の天辺に掲げて持ち上げていた光景なら確かにテオルグも目撃している。とはいえ、あの細くちっちゃい小動物的な生き物のセシリーが、岩の道を拓いて進む光景は……想像のしようがない。

 己が岩の下敷きになっている間、外でどのような光景が広がっていたというのか。


 テオルグは悶々としていた。しかしそれはセシリーへのものではなく、彼自身に向けたものである。


「……情けない」


 黒い髪を掻き上げて額を覆う。


 もう、とにかく様々な事が情けなくて仕方ない。

 セシリーを怯えさせた事に怯えて、距離を取るべきと勝手に押し付けた事も。

 そう自分で言っておきながら、最初から納得出来ずにいた事も。

 岩の下敷きになって、浮かび上がったセシリーの顔が現実に目の前に現れて、喜んだ事も。


 救われ、無事で良かったと泣かれ、身勝手に喜んだくせに――そのセシリーの事を、思ったよりもずっと、知らなかった事も。


「情けない話だな、本当に」


 手のひらを額から口元へと滑り落として、テオルグは一人呟く。

 大体、何が一番情けないって。


(何であの時、気絶なんてした……!)


 そこは起きているべきだろう。何であのタイミングで気絶したんだよ俺の馬鹿。

 テオルグはわりと本気でそう思った。

 いや、原因は、自覚している。同僚たちは腹部に突撃して巻き付いたセシリーの腕によるものだろうと言っていた。それも恐らく無きにしも非ずといった所だが――腹部の鈍痛が動かぬ証拠――、大部分の原因は彼女の腕の力ではない。


 ふわりとしがみついてきた、あの小さくて華奢な少女の柔さに油断したなどと。

 とてもじゃないが、同僚たちには決して言えまい。


 張り巡らしていた気力が、あれによって全て持って行かれたのだろう。鍛えた腹筋からも根こそぎ奪われた。

 直径三メルタの岩を持ち上げたという、にわかには信じがたい細腕の腕力がどれほどのものだったのか。少々想像がつかないが、原因は間違いなくセシリーではない。鱗の薄い腹部へダイレクトに響いた彼女の小ささや柔らかさに意識を全部持って行かれた、テオルグ自身である。


 要するに、油断していた。


 鍛え不足も甚だしい。今後は更なる鍛錬を課さなければ。

 ふー、と荒く息を吐き出し、テオルグは気を落ち着かせる。おもむろに窓の向こうへ視線をやれば、これまでの大雨が嘘のような穏やかな青空が見えた。



 ――あの場所から抜け出し、雨が降り止んだのなら。



 不意に浮かんだ言葉に、テオルグは青い目を細める。一時でも逃げた竜が思うにはおこがましい事だが、そう望んでいるのは。

 テオルグの方でもあるのだ。



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