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12 チビとデカの、約束の街角(3)

03.13 の更新:3/3

本日分の更新ラストになります。よろしくお願いします

「――そういえばセシリー嬢、時間は大丈夫か」


 テオルグに尋ねられ、セシリーはあっと声を漏らす。

 そういえば約束を取り交わした時は午後から仕事だなんて言ったけれど、その後見事に丸一日の休みを賜ったのだ。

 楽しんで来るのよ、と強く拳を握ったルシェの姿を脳裏に思い出す。セシリーは小さく苦笑いを浮かべ、実は、とテオルグへ伝えた。テオルグは特に気にした様子もなく、そうか、と呟く。

 だが、長い時間を連れ出しては可哀想だろうし、セシリーを家にまで送っていくとするか。

 そう思ったテオルグであったけが――次の瞬間、表情を厳しく引き締め、蒼い瞳に鋭利な光を走らせた。

 セシリーはそれを見上げ、わっと小さく肩を揺らした。


「ど、どうしたんですか? テオルグさん」


 精悍な面持ちが張りつめ、その長身にも緊張が走る。騎士の凛々しさか、それとも竜人の高潔さか。突如としてそれまでの空気が変わるのを察知し、セシリーは思わず右手を離す。


「テオルグさ――?!」


 セシリーの華奢な二の腕を、テオルグの手のひらが掴んだ。

 淡い水色にも似た白鱗の散らばる手の甲が、驚くセシリーの視界を横切るのが見えた。

 狼狽える暇もなく、テオルグは進行方向を不意に変える。賑やかな通りを避けるように、細い路地へと飛び込んだ。


 通りに背を向けただけなのに、静寂が漂う。言われたわけでもないのに、セシリーは無意識の内に声を抑えていた。大きな紙袋を抱え、何やら神妙に表の通りを窺う彼の横顔は、急に騎士という単語が舞い戻ったようだった。何故かセシリーまでも一緒に息を詰める。


「……あいつら、本当にどうしようもない……」


 不意にこぼれたテオルグの呟きは、セシリーの耳にも届いた。

 どうしたのだろう、急に、表情が苦々しく……。

 「テオルグさん?」今一度、彼女は竜人の名を呼ぶ。ささやかな呼び声に、テオルグの険しい面持ちがハッとなり、セシリーを見下ろた。そして、華奢な二の腕をがっしりと掴んでいる事に気付くと「すまない」と小さく謝罪し、その手のひらを引き剥がす。


「い、いえ、平気です。あの、どうかされたのでしょうか……?」


 商店通りに何か、とセシリーは窺おうと身を乗り出す。

 すると、テオルグの長身がすかさず目の前に佇み、視界を遮った。

 全体的に体格の違いが甚だしいので、テオルグの身体が正面に立つだけでも、既にセシリーの視界のほとんどは彼の腹と紙袋で埋め尽くされる。天を高々と見上げるように、抱える紙袋のさらに上を見上げ、テオルグのかんばせを視界に入れる。果物の甘い香りを放つ紙袋とは対照的に、険しい面持ちがそこに広がった。

 それは、改めて見ると、騎士というよりはいつかのガーデンパーティーの時のような苦々しさに満ちているようだった。

 ますますセシリーは不思議に思い、こてんと小首を傾げる。

 「……セシリー嬢」重々しさ満点の低音は、先ほどまでなかった迫力を感じさせた。隣り合っているのは陽気な商店通りであって、間違っても戦場ではない。


「……止むを得ぬ理由から、商店通りを進めなくなった。すまないが、路地裏を通ろう」

「えっ?! じ、事件ですか?!」

「貴方を巻き込む形になって申し訳ないが、何も聞かないでくれ」

「え、ええー?!」


 セシリーは仰天し、長身の竜人を見上げる。テオルグは苦々しい表情をしたまま、眉を寄せている。


「大した事ではない。だが、貴方にはとても言えない事態が発生した」


 十分に大した事だと思うのだが。

 まさか、とんでもない事件か何かか。一体何が突然起きたのだろうか。セシリーの脳内には想像が掻き立てられ、大変な騒ぎになっていた。


 しかし、セシリーの心配とはまた違ったところで――テオルグの心も、たいへん荒れていた。


(あんの馬鹿共……ッ! 下らない事をする暇があるなら、仕事をしろ仕事を!)


 脇道に逸れたテオルグの後ろには、賑やかな商店通りがあるのだが――何故かそこを、蒼い騎士服を着た野郎共が、わらわらと動き回っていた。そのどれもが、見覚えのある顔ばかり。同僚なので、当然だ。

 しかしどう見ても、街中の見回り部隊にしては、商店通りに人数が集中し過ぎている。通常は二、三人ほどが隊を組み、街の各所を分配し見回るはずだ。

 行き交う人々はさして気にはしていないようだが、その異様さは、テオルグに強く伝わってくる。


 あの光景の理由は、大体、察しがついた。

 大方、テオルグ探しをしているのだろう。


 テオルグの眉間に、しわがまた一つ刻まれる。阿呆な同僚たちの好奇心に、この小動物までも巻き込むつもりか。ガーデンパーティーの件で既に晒し者にされているテオルグなので、怒りのボルテージも非常に上がりやすい。彼の顔は、いつかの暴竜の如く歪められた。

 騎士団の任務には街の見回りも含まれている。騎士がうろついても問題はないから、後で問い質した場合「見回りの仕事っす!」とでも言うつもりかもしれない。そんな児戯のような言い訳が、テオルグに通じるはずもない。


 危機を察知し、身を翻して正解だった。必死に探しまくる仲間の姿に、頭が痛くなるほどの情けなさも同時に感じて、テオルグは溜め息を吐き出した。


「あ、あの、テオルグさん、事件ですか、大丈夫ですか?」


 唯一の救いは、そんな阿呆な思惑にセシリーが気付いていない事である。大丈夫ですか大丈夫ですか、と胸の前にすら届かない小柄な背丈で、純粋な心配をテオルグへ寄せている。

 彼女の頭の中では、何か壮大な事件が巡っているかもしれないが、阿呆な同僚たちの所業をわざわざ教える必要もあるまいと、肯定はしなかったが訂正もしなかった。

 いっそもう、そのままで良いかもしれない。同僚たちの阿呆さ加減に精神がガリッと削れるところへ、すかさず入ってくるほのぼのとした清楚な声と微笑みは、いつかの時のようにやはり普通にじわっと来る――


 そうじゃないだろう、俺。


 想像の中で己の顔面を殴り飛ばし、テオルグは和みそうになる意識を戻す。


「……とにかく、表の通りは止しとこう。時間が大丈夫なら……少し私に、付き合ってくれるか。セシリー嬢」


 とにかくあの好奇の視線に捕まらない間に、この場を離れよう。面倒な事態になる予感しかしない。

 そう思って告げたテオルグの言葉の真意は、やはりセシリーには通じなかった。セシリーはますます「大変な事が……」と想像を深め、テオルグの言葉に反さずコクコクと頷いた。何処か使命を帯びた面持ちだった。


「はいっ。おともいたします、テオルグさん」


 紙袋を抱え直して歩き出すテオルグの隣を、セシリーはちょこちょこと着いていった。

 まるで隠密行動ですね、ドキドキします、と小さく呟きながら着いてくる小動物に、危うくテオルグはつまづきかけた。




 建物と建物の間に伸びる、細く狭い路地を通り抜ける。

 陽の注ぐ賑やかな商店通りを離れたそこは、切り取られたように静かな世界が広がっていた。

 建ち並ぶ建造物の裏側、窓から垂れる観葉植物、日溜まりに照らされる煉瓦。表の通りにはない奥深い静寂の中を、セシリーとテオルグの重さと歩幅の異なる足音が響く。

 セシリーがちらりと見上げるテオルグの横顔は、やはり険しく、まるで周囲の気配を探るように研ぎ澄まされている。四本の白い角が伸び、淡い水色を帯びた白鱗が散りばめられた精悍なかんばせを見つめ、何故か一緒になってセシリーも息を詰めた。


 するすると路地裏を進むテオルグに導かれ、辿り着いた先はひっそりと佇む小さな建造物。ふわりとコーヒーの香りがしたので、そこは恐らく。

 「休憩がてら、少し避難しよう。大丈夫か、セシリー嬢」そう尋ねたテオルグへ頷いて、路地裏の喫茶店に入る事になった。


 店内は、一昔前の懐かしさの感じられる、趣きのある落ち着いた装いだった。ルシェ一家の喫茶店は明るく日溜まりのお店といった言葉が似合うが、こちらは路地裏の懐かしのお店という言葉がきっと似合う。もっとも田舎育ちのセシリーには、どちらも甲乙つけがたくお洒落なお店なのだが。

 キラキラする彼女とテオルグを出迎えたのは、人間の男性のマスターだった。齢六十前後だろうか、シルバーの髪を持つ細身の人物だったが、しわを作って笑う仕草は安心感を誘う優しさが浮かんでいる。お好きな席へどうぞと告げる声も、耳に優しい品のある声だ。小さく会釈をし進んだ先は、観葉植物の飾られた窓際であった。

 椅子まで引かれてしまって、セシリーはくすぐったさに恥ずかしくなる。ぎこちなくそうっと腰掛けると、テオルグもセシリーの向かいに座る。椅子に座ってようやく視線の高さが近付いただろうか、なんて暢気に考えたセシリーであったけれど、紙袋を横に置くテオルグの動作を見た瞬間恥じらいなど吹っ飛んだ。

 結局ずっと、持たせてしまった! こういう時の怪力だろうに!

 セシリーは謝ったけれど、テオルグは気にした様子もなく涼しげな面持ちを崩さない。


「重いだろうし、落としてしまう方が辛いだろう。貴女が気にする事ではない」

「テ、テオルグさん……」


 さりげない気遣いが、なんと優しい事か。

 村で暮らしていた過去、重量物を我先にと持たせられたり、川に落っこちて上がれなくなった牛(毎朝美味しい牛乳を届けてくれた女の子)を抱え上げて救出したりと、力仕事を請け負ったのは他ならぬこの華奢なセシリー。雑な扱いをされてきた彼女にとって、じわりと胸に染みてくるようだ。


「それに、転んでしまったら大変だ」


 ……いや、この優しさは、子どもへの配慮に近いのかもしれない。

 実際、テオルグは見たところ二十代半ば、あるいはもう少し上ほど。対してセシリーは、結婚する年とされる齢十五を過ぎた十六歳だ。外見から比べても、年の差は明確である。

 彼からしてみれば、目の前のセシリーは、ただの小さく薄ぺらい少女でしかないのだろう。だからきっと、そうして優しく接してくれるのだ。嬉しいな、と思う反面、少し寂しくも思う彼女がいた。


 その時、ちょうどくよく店のマスターがメニューを届けにテーブルの側にやって来た。テオルグはコーヒーを、セシリーはミルクティーを注文し、それらと併せて軽食のトーストも頼む。にこやかにマスターが下がっていった後、セシリーは気を取り直しテオルグへ礼をした。


「今日は、色々とありがとうございます」


 ぺこりと頭を下げると、色素の薄い髪が柔らかく跳ねる。下げられたセシリーの頭の天辺が再び戻ると、慎ましい花に似た微笑みがテオルグの前に現れる。


「気にする必要はない。むしろ、それは私の台詞だろうな。ただ、竜の方の私では無かった事が、少しばかり申し訳なかったな」


 セシリーは、うっと声を詰まらせる。その様子を、テオルグは愉快そうに眺め見た。


「す、すみません、全然気付かなくって……」

「いや、早々分かる事ではないから、それが当然の反応だろうな」


 テオルグは、やはり気にした様子はなかった。セシリーは、ちらりと彼を窺う。耳は尖り、鱗が散りばめられ、額から四本の白い角が伸びているけれど、黒髪と碧眼を持つ精悍なかんばせと鍛えられた肢体は人間と同じ。それでいて、あの美しい白竜の姿にも転変するのだから……竜人とは、何だか不思議な存在だ。

 すると、テオルグは片腕を机の上に伸ばし、袖をまくった。露わになる筋の浮かんだ腕を、セシリーは小首を傾げて見つめる。その時――肌の上に散りばめられた白鱗の欠片たちが、瞬く間にテオルグの腕の全体に広がった。筋張った手の甲や、長い五本の指も覆われ、セシリーの眼下は薄氷色を帯びた白鱗で煌めいた。

 それはあの、地を踏みしめる大きな白竜の手であった。

 わあ、とセシリーは表情をキラキラさせた。


「残念ながら、屋内や街中ではこれが限界だ」

「え? どうしてですか?」


 テオルグは、ふっと薄い笑みを浮かべる。


「全身を竜に変えるには、服を脱ぐ必要がある」


 服は大きさを変えられないからな。そうテオルグの呟いた言葉の意味は、初心なセシリーも理解せざるを得ないというものだ。何故だか猛烈に謝りたくなり、ごめんなさい、と頭を下げる。精悍な顔立ちが変化する事は無かったけれど、悪戯っぽく微笑まれている気がして、慌てて話題を変える。


「りゅ、竜に変身する一族ですもんね、竜人と呼ばれる人達はっ。ま、まだまだ勉強不足で……!」


 恐らくは顔が赤くなっているだろう事は、セシリーも自覚する。テオルグがそれに触れなかったのが、唯一の救いかもしれない。

 「……そうだな」テオルグは不意に、静かな声を漏らした。蒼い瞳は、彼自身の白鱗に覆われた腕を見下ろす。


「人から竜に転じる……だが、逆も言えるのだろうな」

「え?」

「人の姿にも転じる竜であると」


 意味もなく恥ずかしくなって火照るセシリーの頬が、すう、と熱を引く。テオルグは、先ほどと変わらず静かな面持ちであるけれど、何処か遠くを見ているようだった。


「人の姿はしているが、私達の本質は人間とは違う。腕一本でも、簡単に傷など付かないだろう」


 竜の片腕が、机の上でゆっくりと裏表を反転させる。


「そう思うのは、他種族の入り乱れる環境に飛び込んで、種族の違いを何度も見せられ、味わってきたからなのかもしれないな」


 テオルグはその言葉の後、差し出した腕を引っ込めた。片腕の全体を覆った白鱗が消え、肌色の腕へと変じる。まくり上げた袖を戻す動作を、セシリーはぼんやりと見た。


「つまらない事を言ってしまったな、これは忘れてくれ。私に限らず、多くの者達が一度は思う事だ」


 テオルグは、そう言って終えたけれど。

 独り言のようなその呟きが、酷く耳に残っているのはどうしてだろうか。

 店内にゆったりと響く音楽と、コーヒーの香りに包まれながら、不思議な静寂が一度セシリーとテオルグの間に流れる。


「――テオルグさんは、凄いですね」


 セシリーの口からこぼれ落ちたのは、そんな言葉であった。

 向かい側に座るテオルグから、不思議そうな眼差しが注がれる。


「それでも、お勤めを果たしてるんですね」


 セシリーがテオルグへ向けたのは、憐憫などの類ではなく、純然とした尊敬の念だった。湛えた微笑みが、小動物感の漂うふんわりしたものではなく、深みを感じさせるものであったのは、全てとは言えずともほんの少しなら分かるような気がするからだろう。


 セシリーの柔らかい眼差しを受け、テオルグはかぶりを振った。


「自分で望んで飛び込んだ、なら望んだ以上は全うするべきと思っていただけだ。それに……他に、思いつかなかったのだろうな」

「え?」

「力持つ者として、存分に使えて、高められる場所が」


 他の種族と比べて、竜人は特に戦いを好む精神――つまりは闘争本能――が強いとされている。その種族に生まれたテオルグに自覚はないものの、頑強な肉体と造りは幼少期から理解していた。周囲からも多くその評価を受けるので、恐らくはそうなのだろう。そうして彼は当然のように、存分に戦える場所へ引き寄せられていった。

 騎士を目指して入ったわけではなく、結果として騎士に至っただけの事であり。籍を置く以上はその務めを果たし矜持を貫いて、結果として一部隊の副隊長に就いただけでもある。その地位を蔑ろにするつもりはないが、苦笑いものだ。


 セシリーは、言葉を紡ぐ低い声を、身動ぎ一つせず聞いた。テオルグは肩を竦め「これもつまらない事だな」と言ったけれど、セシリーは首をぶんぶんと振る。そんな事ないですと告げるセシリーは、少し前のめりになり勢い込んでいた。テオルグの丸くなった瞳を見て、途端に恥ずかしくなり椅子に座り直す。少し息を整えて落ち着かせた後、セシリーはそっと呟いた。


「えっと、その……私にはやっぱり、貫ける事は、凄い事だと思います」


 くすぐったそうに微笑む仕草に、テオルグの方がくすぐったくなっていたけれど。


「私は……生まれ育った村を、飛び出してきちゃったので」


 途端、柔らかなそよ風に似た声が、陰りを帯びた。テオルグの向かいでちょこんと座った少女は、少し寂しそうに微笑む眉を下げていた。


「……そういえば、この街へ少し前にやって来たと」

「はい。街に来てからびっくりする事が多いくらい、田舎の村で。良いところ、ではあったのですが……」


 家族以外の良い思い出は本当に数えるほどの、長い間疎まれてきた場所でもあった。

 とは、さすがに言わなかったけれど、セシリーが知らず浮かべた苦さはテオルグも嗅ぎ取り、暴くような真似はしなかった。


「だから私には……テオルグさんが、凄いと思えるんです」


 その時、注文したコーヒーとミルクティーが届けられる。縁に模様がついた、白いカップと対になる受け皿が丁寧に置かれた。カップから漂う温かい湯気と共に、芳しい香りがふわりと鼻腔を撫でる。

 セシリーはカップを両手で持つと、すう、と吸い込む。その正面では、テオルグもカップを持っていた。白鱗の散りばめられた手の甲が、きらりと窓辺の陽射しに煌めく。

 セシリーは、カップの縁に小さな唇を押し当てた。含んだミルクティーはほのかに甘く、ほっと安堵の溜め息が出る。


「すごく、美味しいですね」


 囁くように呟くと、テオルグの蒼い瞳が瞬き、薄い笑みを浮かべた……ような気がした。長い指で持ち手を取りカップを傾ける彼の姿を、セシリーはこっそりと見つめた。


 冷静としながら精悍な、整った造作を持つかんばせ。光を受けてもなお深い黒髪から、白い四本の角が伸び、露わになる耳は尖って先端を上向かせている。

 人と竜の姿を持つという、高潔な種族――竜人。

 どちらの姿も見た上で、確かにその通りだとセシリーは思う。今こうして目の前に居る長身の男性も、大きな翼を広げ空を駆る美しくも勇ましい白竜も、本当に誇り高い。けれどきっと、セシリーがそう思うのは、テオルグという人物個人の気質が何よりも大きいのだろう。

 力持つ者であると認め、それを存分に使い、高みを目指す。騎士として、竜人として、けれどそれ以上に彼自身の矜持として。

 僅かとも狂わず貫くのだろうという事は、セシリーにだって窺い知れた。


(私は……)


 そうなる事が、出来なかった。

 人と違う事を、受け止めきれなかった。


 だからこうして、逃げるようにあの村を出てきた。今もまだ不安と恐れに苛まれ、そのくせ村との違いに戸惑っている。


 セシリーは、カップを見下ろす。温かい湯気を立てるミルクティーの水面は、柔らかく揺れている。そこ己の姿はないけれど、きっと、気弱な顔をしているだろう事は自覚した。


 騎士だからではなく、竜人だからではなく。テオルグという男性の持つ、強かさ。ほんのちょっぴり、羨ましく思うと同時に。

 眩しいくらいの、憧憬と尊敬を感じた。


(私も……そうなれるのかな)


 今も脳裏に浮かび上がる、過日の景色。疎まれ、笑われ、遠巻きにされた、あの日々。あれをいつか笑い話にして、隠さず歩けるようになる日が。

 想像も出来ないセシリーであるからこそ、テオルグの強かさに今、憧憬を感じているのかもしれなかった。




 美味しそうにミルクティーを口に含むセシリーから、先ほどの落ちた陰りは消えていた。一口飲んで、ふわっと頬を綻ばせ。さらに一口飲んで、ふわあっと慎ましくはにかむ。小さな花が周囲に舞うような、実にほのぼのとする小動物な少女に、少しの安堵もテオルグは覚えた。

 テオルグがこれまで見てきた生き物の中に、セシリーのような妙にほのぼのとする小動物は居なかった。細く華奢な上に、背丈も小柄。色素の薄い髪は、一本一本がきめ細かく毛先は柔らかい波を打ち、風が吹くと軽やかに泳ぐ。控えめな声は、楚々としたそよ風に似ていて耳に心地よい。

 あまりにもほのぼのとして、うっかり膝が崩れ落ちそうになる場面もあるが(そのたびに地面を踏み抜く勢いで力を入れているので、ばれていないと思いたい)。

 そんな風に全体的にふわふわとしているからか、陰りが落ちるとその陰影が特に濃く感じる。例えば、つい先ほどのように。村を出てきたという言葉を口にした際、途端に曇った少女のかんばせ。苦い理由があるだろう事は感じたが、それをテオルグは暴くつもりはない。彼に限らず、誰にでも覚えのある事だ。

 けれど、何度も「凄いですね」と呟いた少女の音色は、耳に残り続けている。


 その後、注文し届けられたトースト――網焼きをしてソースとチーズを掛けた大きめのピザトースト――を、互いに口へ運んだ。食べやすいようナイフで正方形に切り込みが入れられているそれを、フォークで刺すテオルグの向かいで、セシリーはここでもいかんなくその小動物感を発揮している。小さな手で銀色のフォークを握り、一口サイズのトーストを取り、口に運ぶ。そうして咀嚼するたびに、慎ましい花がふわふわと飛んでいる。物を美味しそうに食べるその姿は、大食いの同僚たちとは方向性が真逆を向いているが、見ていて気持ちが良い。


 ……それに対して、国境支部の騎士であるはずの野郎共の好奇心は、なんと見苦しいものか。

 思い出すだけで、テオルグの眉間にしわが寄る。何故あれらは、一様に浮足立って構おうとするのか、甚だ理解に苦しい。その上、セシリーまでも巻き込んで。


「美味しいですね、テオルグさん」


 ――慎ましく、けれど本当にそう思っているのだと窺える、微笑んだ声音。ふわふわとはにかんで片頬を膨らませる姿は、もう小動物にしか見えない。


 テオルグがこの生き物を好意的に思うのは、確かなのだろう。呪い言を呟いたあのガーデンパーティーから、この第一印象は良い意味で覆らない。しかしそれは、同僚やアシルなどの邪推する感情とは違う。違う、はずである。


 人のなりをしただけの竜を前にし、柔らかくはにかむ小さな少女。

 角の根本が疼いたのも、鱗が震えたのも、気のせいであるとテオルグは言い聞かせた。

 けれど。

 釣られて身体の力が抜ける事ぐらいは――今だけ、少しは大目に見て貰えるだろうか。


 眺め見るテオルグの先で、セシリーは美味そうに物を食べる。緩む白い頬の片側をぷくりと膨らませながら、トーストをゆっくり咀嚼する。細い喉をこくりと震わせ、今度はカップを持ち上げる。

 毛先が柔らかく波を刻む、金とも銀ともつかない色の淡い髪。それは丁度、彼女が持っているカップの中身を満たす、ミルクティーの色にとてもよく似ていた。

 小さな花を飛ばしてほのぼのとする少女の向かい、テオルグの横顔は普段と変わらず静けさを帯びている。だが、額を流れる黒い前髪の向こうにある碧眼からは、張りつめた光が薄らいでいた。





 結局、荷物はまたテオルグに取られてしまった。

 喫茶店を後にして、歩を進める路地裏。セシリーは申し訳なさを手のひらに込め、肩に掛けたショルダーバッグの紐を握った。何とか受け取ろうとしたが、長躯のテオルグに向かってぴょんぴょん飛び跳ねるのはあまりに滑稽であった事と、小娘に対しても礼を欠かない端然とした姿勢に圧された事が要因である。こういう時に、生かすべきゴリラ怪力なのに……。


「……ふむ、表の通りは、落ち着いたか」


 テオルグの呟きに、セシリーは顔を上げる。賑やかな音は微かに耳に聞こえるけれど、この場所から商店通りなどの表の通りはそれなりに距離はあるので、様子を窺い知る事は叶わないはずだが。


「分かるんですか? テオルグさん」

「人間と違って、耳も多少は良い」


 わあ便利ですね、とセシリーはテオルグの尖った耳を見上げた。


「そういえば、事件は収まったでしょうか」


 セシリーが呟いた途端、苦々しさが浮上する。「恐らくは」と囁く低音からはやはり何か大変な出来事があったのだとセシリーは思い、それ以上は尋ねなかった。

 単純に、テオルグが脳裏に蒼服の集団を思い出しただけであるのだが、その勘違いを否定しない。「良かったです」とほのぼのと笑う少女に、国境支部の阿呆共の姿はとても見せられるものではなかった。


「……さて、私の都合に付き合わせてしまった事だし、送り届けよう」

「え! でも、そんな」


 いくらい休みと言えど、騎士様に。セシリーは低い位置で狼狽えた。だが、端然としたその姿勢に圧され、やはり頷く彼女であった。

 けれど、少しだけ異なったのは。

 頷く際その白い頬には、ごく自然なはにかみが浮かんでいた。

 そしてそれに視線を返すテオルグもまた、付けられた渾名が薄れ、微かな柔らかさが宿っていた。


 再び空気は、路地裏の切り取られた静けさから、表通りの賑やかへと変わってゆく。行き交う人々の足並みは、昼を過ぎてゆったりとしてくる頃だが、商店通りとなればやはり忙しない。人が通るたびにうっかり消えるセシリーの頭の天辺へ苦笑いを落とし、テオルグは目印にと片腕を差し出す。セシリーはそれに手を回した。


「あの、テオルグさん」

「ああ」

「今日は本当、あり、ありがとう、ございました」

「……こちらこそ。感謝する」


 高さがまるで合わないそれぞれの頭の位置で、言葉が交わされる。ほのぼのと笑う小動物なセシリーと、そういう非番も悪くはないかと思う鋼の竜人テオルグの頭上で、柔らかい陽射しが注いだ。




そんなチビとデカの、無自覚デートでした。

本人たちも自覚なしで、端から見ればデコボコな組み合わせだけど、何と言おうときっとデートです。


さぞや周りの騎士たちの方は楽しい事になっていそうでしたが、「あれ? あの男がいなくね?」と思った方。多分きっと次回辺りで再び出てくると思います。


それぞれの印象がちょっぴり変わって、変化を持たせたかった話でもありました。テオルグは通常運転プラスアルファですが、セシリー嬢はだいぶ変わったような気がしますね。

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