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素敵な手、探しています

作者: 向井 かむ

「サイトウさん、足元に注意して。手、貸してください」


 友達のクミコに紹介してもらったスズキ君は、とても感じのいいさわやかな青年だ。正直、私にはもったいない、と思うくらいに。

 見に来た映画は上映間際。館内はすでに暗く、スクリーンに映る新作映画の予告編が不規則に客席を照らしていた。


「えっと、は、はい」


 私は恋愛には奥手な方だ。二十四歳、社会人二年目だというのに生まれてこのかた彼氏がいたことは無い。

 デートだけは数回したことがあるのだけど、手を繋ぐ以上のことはしたことが無かった。

 クミコからは「天然記念物よ、アンタ」なんて言われたこともあったっけ。

 スズキ君の手は少し細身で指が長い。ピアノか何かを昔やっていたんじゃないか、なんて、想像をしてしまう綺麗なフォルムだった。だけど、男性らしく手入れには無頓着なようで親指にささくれが出来ていた。

 この手を私が握っていいんだ、と思うと鼓動があっという間に早くなって、耳たぶが熱くなり、彼へと伸ばした手が震えてしまった。


「大丈夫?」

「う、うん。きっ緊張しているだけなので」


 彼が優しく私の手を握ると思ったよりも体温が高く、湿っていた。皮膚の厚さは思ったより薄いような。

 見る分にはいいのだけど、なにか違うような。

 どうしても、繋いでいたいと思えなくて。

 座席に着くと、私は両手でジュースを持って、そのあとの手つなぎをやんわりと阻止してしまった。



「で? どーだったのよ、昨日の映画デートは」

「えっとね、主演の俳優さんがすっごくかっこよかったよ! それに紅葉の風景が綺麗で、旅行に行きたくなっちゃった! もう、紅葉は終わっちゃったけどさ」 


 会社の休憩所でクミコと一緒にお昼を食べていると、彼女は長い溜息をついた。


「誰が、映画の批評しろっていったのよ。スズキ君、なかなかいい人だったでしょ?」


 視線が少し怖い。


「う、うん。エスコートもしてくれたし、男らしかったし良かったよ」

「で・も?」

「まだ会って間もないのに手を握るなんて……やっぱり」


 気がすすまない……と私が続ける前にクミコは呆れ声を上げた。


「もーアンタお子様?」

「そーですよーだ」


 だって、無理なものは無理なのだから。


「アンタにはもう、無理やりいろいろしちゃうS系男子の方がいいのかしら? 壁ドンとかしちゃう感じのさ」


 クミコの意地悪な笑みから出た声は、妙に休憩所に響いた。


「ちょっ何言ってるの? SとかMとかそんなのありえないよ」


 私は小声で非難した。

 壁ドンというのがどんなものなのか、いまいちわからない。けれど、尋ねたらまたそれはそれで面倒だから、あとでこっそりと調べておこうっと。


「ま、ひとつの提案ってだけよ。アンタは鈍感だから気付いてないけど、結構モテる見た目してると思うんだけどなあ」

「そうかなあ。ありがと」

「さすがだわ。サイトウキョーコ」

「なんでフルネームを言うの?」


 クミコはふふっと軽く笑った。


「ん? なんとなく。いいでしょ?鈍感純情少女サイトウキョーコ」

「あはは、やめて。もう、はたち超えてるのに少女とか」

「アンタねぇ、少女漫画だって手繋いでドキドキとか、はじめだけよ?」


 少しは勉強しなよ、なんて言いながらクミコは私に漫画雑誌を渡してきた。

 中高生に向けたはずのそれにはディープなキスとか、三角関係ドロドロとか、もっときわどいものが載っているらしい。

 「はじめだけよ?」とか言われても始まらないんだからどうにもならないとも思う。


「本当にー?」


 私は少し大げさにリアクションをして漫画を受け取る。

 ま、お話の世界だから。

 あまり深く考えないようにして、私はデスクへと戻った。親指の長さくらい厚さのある漫画雑誌はいくつか常備している紙袋にしまった。


 もうすぐ仕事の時間だ。

 私は午後から使う資料を取りに資料室へと向かった。

 資料室はいつもインクと書類の独特な匂いがする。

 必要な資料は一番奥のあたりかしら。

 スチールの棚をしっかりと確認していく。

 お目当てのファイルを見つけ手に取った瞬間、駆けてくる足音が聞こえた。私は思わず顔を向ける――

 ダンッ

 目の前には黒い影、いや、後輩のタカハシ君だ。顔が近い。息がかかりそう。

 左右には伸ばされたタカハシ君の腕。

 私の後ろは資料室の壁。

 これってさっき聞いたばかりの壁ドン? ってやつですか?


「た、タカハシ君?」

「はぁ、はぁ、サイトウ先輩」

「び、びっくりしたー」

「えっと、あの」


 私はしどろもどろな彼の脇をくぐり抜けて、分厚いファイルの背でタカハシ君の頭を軽く叩いた。


「びっくりさせないでね」


 タカハシ君は顔を赤くして振り返った。よほど壁に衝突したのが恥ずかしかったらしい。


「えっと、あのサイトウ先輩」

「勢いよく走るから……あ、手のひら大丈夫? 私、仕事があるから行くよ?」


 うーん、これがリアル壁ドンってやつかあ。びっくりするだけだったな。

 さっそくあとでクミコに壁ドンは却下ということを伝えておかなくちゃ。

 面白い体験したなあ、などと考えながら、午後の仕事は思った以上に速いスピードで進めることが出来た。



 帰り道、クミコに会ったので駅まで一緒に帰ることになった。

 話題はやっぱり壁ドンのこと!


「クミコ、私、タカハシ君に壁ドンされちゃった」

「聞いた。タカハシも不憫ねえ」


 クミコはなぜか目を細めた。


「ん? 頭叩いたこと根に持たれてる?」

「そーじゃないのっての。アンタ壁ドンってどういうものかホントに知ってるの?」

「え? 壁にドンってされるんでしょ?」

「そう、だけど」


 クミコは明らかに「わかってないなあ」という顔をしている。


「もっとドーンって壁にぶつけられる感じだった? 張り手とかプロレスみたいに」

「違うわよ。どうして知識が偏ってるのかしらねー」


 クミコがいうことは時々難しい。趣味の違いだろうか。私は少女漫画より推理小説の方が好きだし、なにかお約束があるのかもしれない。

 とりあえずタカハシ君にドキドキしたりすることが無かったので、私はMじゃないのだと思う。


「アンタ、ドキドキしたり、キュンとしたりしたことないの?」

「昨日はドキドキしたよ?」

「でもスズキ君はだめだったんでしょ?」

「うん。なんか、ね」

「もーわけわかんない」

「うん、私もよくわかんない」

「ま、気になる人が出来たらアタシに相談してよ?」

「もちろんだよ」



 駅に着きクミコと別れて、私はいつもの電車に乗る。

 定時に会社を出られたので、電車には家に帰るとおぼしき疲れた感じの学生やくたびれたスーツを着た人が多い。

 朝のラッシュのような身動きできない混み具合ではないけれど、思った場所に移動するのは難しいだろう。

 私は人の流れのままにドア近くの場所に落ち着いた。確かこちら側のドアは五駅は開かない。

 暇つぶしに私は鞄から文庫本を取り出した。ベテラン作家の人気シリーズだ。今回は時刻表がカギになりそう、かな?

 しおりを一番後ろにはさんで小説の世界に入り込む。

 犯人が二人目の被害者を殺すシーンにさしかかったとき、太ももに違和感を覚えた。

 ひょっとして、痴漢?

 そんなはずない。

 でも……ストッキング越しになにか、当たっているような……


「お前何やってる!」

「なんもしてねえよ!」


 後ろで男の怒号が聞こえた。


「あっ、逃げるな」


 私は思わず腰が抜けてしまった。


「大丈夫ですか?」


 目の前に手が差し出され、私はその手につかまってなんとか立ち上がる。

 手は男の人らしく大きくてゴツゴツしていて少し乾燥気味。でもあたたかくて頼りがいがある、皮膚の厚い、そんな手だった。

 私が手に気を取られている間に、男の人は顔も見せずに、痴漢らしき男を追いかけて行ってしまった。ありきたりなダークグレーのスーツで、彼はすぐ人ごみに紛れてしまった。

 胸の奥がキュンとしまって、心臓が大きくバクバクと音をたてている。

 痴漢や起こった出来事にびっくりしただけ?

 だけど激しい鼓動は私の下車する駅になっても治まらなかった。



 結局、男の人は戻ってこなかった。

 痴漢はきっと逃がしてしまったんだろう。

 せめてなにかお礼の言葉でもかければ良かった。

 あの人に、また、会えるだろうか。

 手の感触を思い出し、私は手を握ったり開いたりした。それだけで手が、顔が、熱くなるようで、胸も苦しくなった。

 まるで、小説に出てくるヒロインみたいだ。

 いや、ただ事件にびっくりして、あざやかに事件を解決していく探偵に心惹かれているのと一緒。

 きっと、気のせい。

 それでも。

 こんな気持ちは初めてだった。



 次の日、私は通勤電車に乗ると、頼りがいのある、あの手を探した。

 お礼が言いたかった、ただそれだけ。

 それさえ済ませば気持ちの整理がつく、そう思った。

 朝の通勤電車では見つからなかった。帰りに会ったのだから、私と同じ時間帯に出勤しているとは限らない。

 そもそも手だけで探せる方がおかしいのかもしれない。

 しかし、不思議なことに彼の手と違うということは見ただけでよくわかった。

 時折これはなかなかかっこいい! と思う手もあって、ちょっぴり自分が失礼な視線を浴びせる痴女なんじゃないかと不安になった。



「キョーコあんたって、手フェチだったのね」


 クミコに昨日あった出来事を話すと、親友はようやく謎が解けた二時間ドラマの女探偵のような表情で嬉しそうに決めつけた。


「手フェチ?」

「そう。いっつも手を握るくらいのところでダメになってたでしょうアンタ」


 私はいままでのデートを思い返す。確かに手に関して私は理想が高かったのかもしれない。


「シチュエーションもバッチリ、握り心地も良かったならいくしかないっ!」


 そういうものなのかなあ。私は疑いつつも、お礼も言いたいし、とりあえず帰りも探してみようと決めた。


 

「先輩、昨日は……」


 しゅんと情けない表情をしてタカハシ君が回覧のファイルを持ってきた。

 私は机から判を取り出す。

 こんな私にでも、壁ドンをしてしまったことをまだ気に病んでいるようだ。


「ああ、気にしてないから大丈夫だよ」

「気にして……ないんですか」


 タカハシ君は目をまるくしていた。

 普通にしていれば、年相応なのに、感情の起伏が激しいから、タカハシ君はどこもなく子供っぽい印象がある。

 ここはひとつ、ギャグでも言って場をなごませよう。


「壁にぶつかることくらい誰にでもあるわよ」

「ええっ、そっちーー」

「なんか言葉にするとすごくカッコいいね。なんか、青春ドラマみたい。ただ実際にぶつかっただけなのに」


 私はにやけつつ、我ながら面白いことを言えたな、と思った。

 タカハシ君はキョトンとしてから三秒後に気づいたようで肩がふるふると揺れた。


「キョーコあんたサイコー」


 通りかかったクミコが私の肩を叩いた。


「でしょ、センスあるでしょ」

「あはは、滑り具合がね」


 ええっ、滑ってたの?

 私はちょっとひかえめに笑うタカハシ君を横目に、彼の持ってきた忘年会のお知らせに判子を押した。

 今年ももうこんな時期なんだなあ。

 何となくしみじみと月日が流れるのを感じた。



 帰りも私は彼を探した。

 朝はそれほど寒くなかったけれど、日が暮れてからは冷え込むようだ。乗車待ちの列には、ちらほらと手袋をしている人を見かける。

 彼も手袋をしてしまっていたら、見つけることは出来ないかもしれない。

 私はほかの乗客にどう見られるかをあまり気にする余裕もなくなって、必死に彼を探した。

 携帯を操作する人、本を読む人、腕を組んでいる人。

 違う、これも違う、筋がちょっと好みだけど違う。

 ひたすらに視線を男性の手ばかりに向けていると、ひどく気に障るブレーキ音を立てながら電車がやってきた。


 時間通りぴったりに止まった車両にどんどん人が詰め込まれていく。

 この混み具合だと見つけるのは至難の業だ……そう思ったのに。

 素敵な手はすぐそばにあった。

 昨日とは違うけれど、似た感じのグレーのスーツに黒のコート。

 胸が高鳴る。

 節のひとつひとつが大きくて、こんなに男らしい手の人はどんな人だろう。

 私は期待しながら顔を上げた。

 

「先輩」


 そこにいたのはよく見覚えのある顔だった。

 いつもいつも頼りなくて、おっちょこちょいな後輩。


「えっ……?」

「俺……昨日アイツ取り逃しちゃって、電車で分かれたあと、心配だったんです」

「じゃあ昨日助けてくれたのは」


 本当にタカハシ君だったの?

 タカハシ君は首を傾げた。


「もしかして、俺だってわかってなかったんですか?」

「あ、あのね、一瞬だった、から」

「それで、会社で壁の話に」


 滑った話を蒸し返されて、 ああ、なんだか顔が熱くなってきた。


「もう、そっちは忘れて!」

「そんなあ、僕結構好きですよ、ああいうクサイ言い回し」

「もう!」


 コートを脱いでも良いくらい、どうにも体が熱い。

 風邪でも引いたかな。


「とにかく! 昨日はありがとう」

「いえいえ。男として当然です」


 そんなことない、勇気のある行動だ。

 私の中でずいぶんとタカハシ君の株が上がった。


「今日は電車乗らないのかも、とか思っちゃいましたよ」

「なんで?」

「いや、学生ならともかく、社会人ならお金もあるし、嫌な思いしたら乗りたくなくなったりしません?」


 そういう発想は無かった!

 というか、痴漢の気持ち悪さがすべて手の感触にもっていかれて、痴漢されたことすら消し飛んでいた。

 昨日の帰りも、今日の通勤も全部全部、温かな手のことでいっぱいだった。

 まるでこれじゃあ、というか、いや、なんというか、私が本当に手フェチで、手に恋をしてしまったみたいじゃない!


「先輩? 赤くなってますけど」


 タカハシ君は手に似合わない純朴そうな顔で私を見つめた。


「いやねえ! まだ滑ったギャグのこと気にしてるだけです」

「ふうん。そうだ、先輩って本当に壁ドンって言葉の意味、知ってるんですか?」

「し、知ってるわよ!」


 私が慌てて取り繕ったところに、タカハシ君は含みのある笑顔を返す。


「じゃあ答え合わせに日曜日、壁ドンが話題の映画見に行きませんか?」

「え?」

「それまで、調べるの禁止」



 日曜日に顔から火が出たのは映画のせいだけじゃない、と思う。


「先輩が手フェチとは意外でした」

「策士め……」

「いやいや、一度失敗してますから」


 映画館から出ると日差しがまぶしい。

 右手をかざそうとすると、左手が動く。


「すみません。手とか繋ぎなれてなくて」


 タカハシ君の言葉で手を握ったままなのに気付く。

 心臓が再び高鳴って、つい、いつまでもいつまでも握っていたいと思ってしまった。




       (終)

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[良い点] あらー! ニクい! ニクいですぞ! 恋に臆病な主人公に幸あれです~!
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