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桜の森の満開の下で、

作者: 秋野京

 壱


 また、逃げ出した。

 幾度と無く舐めてきた其の気持ちは諦めと自己嫌悪が濃く出ていて相変わらず苦かった。

 二度目の辞職。大正八年から今に至る四年の間、地方でとは言え教鞭を執らせて頂いたという事実は僕のような人間にとって身に余る光栄であるのにも拘わらず、つまらぬ理由で逃げ出した。

 此の逃避癖は幼少の頃より身に纏ってきた傲慢と臆病の相反する外套が原因であることは明白だろう。要するに他者を否定してしまうのだ。何かの弾みに自分の思想を過剰なまでに押し付けてしまう。その身勝手な刃は当然、生徒にも向き、問題になる。自覚はあったが抑え切ることは出来なかった。だから今に至るまで幾度と無く逃げ出してきた。他者を傷つける傲慢な刃は持ちあわせても、向き合う勇気はなく、逃げだす臆病さしか持っていなかったのだ。其れは二十八になった今でも変わらない。

 暫く、自己嫌悪という醜い傷の舐め方をしていると、がたんごとんと揺れる僕だけを乗せた汽車がやがて止まる。終点だった。

 僕は怪しい古物商から手に入れた訳の分からぬ切符と地図を見る。切符の方には「果て」、としか書かれていない。こんなもので汽車に乗れるのかと最初は鼻で嗤っていたが、どういう訳か乗れてしまった。そして行き着いたのが此処だ。「何事もやってみる迄は分からない物なのだな」、と呟きながら僕は弄んでいた切符を仕舞うとトランクを持ち上げ外へと向かう。

「此れは」

 無人のホームを抜けた僕を出迎えたのは唯一本の桜の木。まだ満開には遠いが、見る者の心を奪うには十分過ぎる程であった。一寸(ちょっと)ばかり其の幻想的とさえ言える桜色に魅入られた後、僕は大正の空の下を歩き始める。

 其れなりの時を地図を頼りにしながら分かれ道を選び進んでいくと前方に洋風の大きな屋敷が見えてきた。

 あれが鬼の屋敷か、僕は地図に書かれた其の文字を見て笑みを零し、古物商が言っていた他愛もない小噺を思い出す。人を喰い殺し、その身の糧として永遠の生を得る鬼。全く、あらゆる物事から逃げるために始めたとはいえ、もう少し行き先を考えるべきだったかも知れないなと自嘲する。

 其れは兎も角、駅のホームからも薄々と感じてはいたのだが、どうやら此処はとんでもないくらいに田舎らしい。其の証拠に先程から小一時間は歩いているにも拘わらず、人ひとり見かけない上に民家や店のような物もない。在るのは唯有りの侭の姿を見せる自然のみ。

 また暫く進むと緑が徐々に濃くなり、陽の光の殆どを遮り始めた。本当に鬼の棲家に迷い込んでしまったと錯覚させる程度には雰囲気が出ていた。森が深くなるに連れて威圧するように騒騒と音を鳴らす木々の楽隊が何とも言えない不気味さを増長させていく。僕は立ち止まった。何故かは分からないが、背後に何かとんでもないものが居る気がしてならないのだ。大の男が居るかも分からぬ影に怯えている。情けない話だったが怖くて堪らない。早く走るなりして逃げるべきだと身体が悲鳴を挙げている。だが、見えない糸で身体を縛られているかの様に足が、身体が、ぴくりとも動かないのだ。脳裏に地図が浮かび、そして鬼の姿が映し出される。焦りが心に染み出し、動機が激しくなる。息が、息が吸いたい。どうしようもない圧迫感であった。

 そんな中、不意に背後から「もし」、と小さいながらも澄んだ声が聞こえた。

 弾かれたように僕が振り返ると其処には紫に染まった矢絣(やがすり)の召し物と袴に編上靴(ブーツ)という出で立ちの鬼には程遠い可憐な少女がいた。歳の頃は十五から七といった処か。少女は僕に向かって森が作る闇を照らす様な柔らかい笑みを送ると「このような処でどうされたのですか」、と問うたのだった。


 弐


 人間、内なる欲求には抗いがたいものだ。故に空腹を覚えていた僕が招かれた屋敷の中で豪華な料理を振舞われていたとあらば、多少がっついてしまうのも致し方のないことと言える。無論、最低限の礼儀は払ったつもりではあるが。

「助かりました、なんとお礼を言えばいいのか」

「お気になさらず。此の様な辺鄙な処でお会いしたのも何かのご縁ですので」

 やけに高い天井と地面を踏んでいるのか雲を踏んでいるのか分からなくなる位に柔らかい朱の絨毯が敷かれた部屋に相応しい広いテーブルの上に出された料理を綺麗に平らげた僕が礼を述べると、向かい合うようにして座っていた少女が傍に控えた女性にしてはやけに長身で目より下を布で隠しているメードを一瞥すると笑って言った。

 其の侭しばしの間、お互いの名前を教え合ったり雑談に興じていると彼女、八千代さんが言った。

「しかし、本当に珍しい処でお会いしたものです。もしや、此方に何かご用向きが御有りでしたか?」

 加えて幾年ぶりかの来客だと言う八千代(やちよ)さんに僕は事情を説明した。此の歳の男が他人に……しかも、彼女のような身分の高い女性に話すには余りにも粗末な物ではあったが。

「でしたら、此方で暫くの間、滞在しませんか? 何分、此の様な所に長い間一人きりで住んでいると人と触れ合うことの大切さも忘れてしまいそうなのです」

 僕は其のありがたい申し出を固辞したが、次に発せられる言葉に否が応にも応えざるを得なかった。

「私の命はあと七日しか保たないのです。願わくば、其れまでの此の寂しさを和らげて頂ければと」


 参


 三日目の朝。僕は先日から頼まれた通り此の屋敷の主である八千代さんを起こすため、部屋のドアを叩いた。すると直ぐに「どうぞ」、と声が返ってきた。

「もう起きておいででしたか」

 寝台の上で上半身だけ起こし、静かに本を読んでいた八千代さんは窓掛けから零れた陽の光と微かに漂う春の匂いに彩られ、此の世のものではない何かに見えた。

「フアウスト……八千代さんは独逸文学に興味が御有りでしたか」

「いえ、偶々屋敷にあったので読んでいるだけです」

 私がゲエテと森林太郎の名が刻まれた本の表紙を見ながらそう言うと彼女は恥ずかしげに答え、其れからゆっくりと目を閉じて続く言葉を紡いだ。

「しかし、様々な物語を読んでいると時折、羨ましさを覚えます。物語の主人公は私のように幼い頃から不治の病に巣食われた身体という決められたレイルに乗せられていたとしても、現実に生きる人間と違い自らの意志や外的要因によって残酷な運命を変えることが出来ます。其れが堪らなく羨ましいのです」

 そして窓を眩しそうに見やると「彼らはいつも幸福な世界に生きている。其れが、許せない」。そう吐き出した。

 そんな八千代さんの姿から其の綺麗さの内側に渦巻く、醜いものが見えた気がした。そして其の言葉が僕の心に触れてしまった。だから、自然と口から刺が出てしまう。

「違う」

「えっ」

「良く決めれれたレイルに沿って生きているとか言うけど、そういうのは思考を停止した唾棄すべき人間だ。人形と言ってもいい。運命というのは最初から決まっているモノのことじゃない。そんな不安定な言い訳じゃないんだよ。生きていく中で何度もやってくる必然の選択の果てに引き寄せる未来の形、世界の形、其れが運命というものなんだ。自分の運命が自分の世界を創る。自分が観る世界を決める。運命というのは貴女が言う様な揺らいだものでは決してない」

 しまったと思った時はもう遅かった。幾度と無く自分と周りの人間を傷つけた悪い癖が出てしまった。涙を浮かべる生徒、怪訝な顔をする教師、呆気にとられた様子の友人……様々な顔が僕の脳裏に浮かぶ。其れはある種の恐怖と言っても良かった。逃げなければ。本能的に身体が行動に移り始める。悪癖に悪癖を重ねていることは分かっていたが、止められなかった。

 しかし、其の悪癖は僕が腰を浮かしかけた処で止まった。八千代さんがとても可楽しそうに笑っていたからだ。

「申し訳ありません。真っ向から私に意見をした方に始めて出会えた嬉しさと余りに熱っぽい様子に思わず喜びを抑えきれませんでした。お許し下さい」

 八千代さんはくすりと笑みを零すと「少し外に出ませんか」と僕を誘った。

 八千代さんに連れられた僕は屋敷から少し離れた処にある桜の森の下に居た。此処も花乃宮家の敷地、つまりは八千代さんの所有地らしいがそんなことよりも無数に舞う花吹雪に僕は唯唯心を奪われた。しかし、八千代さんに云わせればまだまだらしい。何故かと問えば今はまだ満開には至っておらず、此の森が真の美しさを魅せるのは今から四日から五日後の桜が満開になった時だと言う。

「しかし、満開でない状態で此れ程の美しさならば、満開になった時はどうなるのか楽しみですね」

「ええ。其の時は先生も是非に見に行きましょう。きっとお気に召す筈です」

 其の侭暫く、桜の森を歩いていると八千代さんが再び口を開いた。

「しかし、不思議なものですね。今でこそ桜は綺麗な物の象徴として扱われていますが、古くは恐ろしい物の代名詞だったそうなのです」

「桜が、ですか」

 僕は確かめるようにして問い掛けた。此の美しい桜色が恐ろしい? 純粋に其の疑問から出た問いであった。八千代さんは其れに対し、唄うようにして答えた。

 曰く、人攫いに我が子を奪われた母が子を探し回った後、桜の下で子の幻想を想い描いたまま発狂して死んだ。曰く、桜の下には誰とも分からぬ屍体が埋まっている。曰く、桜が縁で出会った男と母娘が永遠の愛を桜の下で誓ったものの後に痴情のもつれが原因で三人とも死んでしまった。

「桜は人を狂わせる。いつしか其の様な噂が蔓延し、桜の下には人が寄り付かなくなった時代もあったそうです」

 そして一言、八千代さんは零すようにして呟いた。

「此の桜の森には悪魔が棲んでいる、そんな言い伝えもあるのですよ」

「悪魔……?」

 僕がそう言うと一陣の風が桜の花びらを舞い上げた。桜色の吹雪にほんの一瞬目を奪われるが、直後に僕の目に其れどころではないものが飛び込んできた。

「八千代さん」

 彼女が、斃れていたのだ。僕は慌ててその傍へと駆け寄る。手で胸を押さえ、頬が紅潮し、息も幾らか荒い。しかし、意識はあるようだった。其れを見てあの長身のメードに聴かせられていた発作なのだと確信する。僕は直ぐに八千代さんを桜の木に寄り掛からせ、楽な姿勢を取らせるとメードを呼ぶために全力を持って屋敷へと走るのだった。


 肆


 明くる日の朝、次の発作が来ればもうお嬢様は保たないだろう。メードからはそう聞かされた。医者は来ないのかと問うと、薬師が調合した薬こそあるものの、もう随分前から万策尽きた状態のようで一週間前、つまりは僕がこの屋敷へ来る少し前に八千代さんの方から「助かりもしない自分よりも別の方を」と医者を切り離したらしい。メードが言うには屋敷で好きに過ごしている今は死を前に迎えた最後の自由期間なのだと言う。此れは医者からの勧めでもあると言った。

 僕はそんな事を淡々と告げるメードと顔すら知らない医者、そして八千代さんに些かの憤りを覚えた。全てが八千代さんが死ぬという前提で動いている、其れが大変に気に入らなかったのだ。だけどそう思った所で解決策など無く、胸に抱いた此の想いも僕の身勝手な感情に過ぎない。其れは良く分かっていた。でも、本当に解決策は無いのだろうか? 運命を引き寄せるのは意志と行動に他ならない。其れをする前に諦めてしまったら其の人は永遠に不幸な世界に取り残されてしまう。不幸を断ち切るには幸福な世界へと行かなければならないのだ。

 しかし、何も思いつかない。だからせめて、今は彼女の為に出来る事をしよう。そう結論づける。暫く思案して僕はあの桜の森に行って彼女の部屋に飾る花でも採って来ることにした。起きた時に綺麗な花の一輪でもあれば少しは心を潤す事が出来るのではないかと思ったのだ。

 善は急げと足早に歩いて桜の森に辿り着くと、早速草花の物色に移る。花についての知識は全くと言っていいほど無いので頼れるのは自分の美的感覚だけというのが心許なかったが仕方ない。

「贈り物か何かか。其の歳で随分と健気な事をする物だな」

 一心不乱に花を集めていると高圧的な音を含んだ声を掛けられた。振り返ると其処には見知らぬ女が立っていた。小さくない違和感を覚えつつも僕は応対することにした。

「誠意に歳は関係ありませんからね。此の程度では恩返しにすらなりませんが」

「お前はあの娘を助けたいのか?」

 僕の言葉を遮って言う彼女に芽生えていた違和感が花を咲かせた。口調が可笑しいのは勿論の事だが、どういう事か僕が花を見繕っている理由を知っているようだ。何より、其の女が纏っていた雰囲気は明らかに異質だった。

「失礼ながら貴女は誰でしょうか。初対面にしては余りに不躾です」

「悪魔だよ、悪魔。あの娘が言っていただろう、此の桜の森には悪魔が棲む、と」

 そう言うと瞬きの間に女の姿が赤い肌に山羊のような角と大きな翼を持ったものに変わっていた。人間は余りに現実感が伴っていない事象に遭遇すると驚きよりも呆れの様な感情を覚えるらしい。僕の顔が苦味を含んだ笑みを形作るのが分かった。

「参りましたね。僕は夢でも見ているのだろうか」

 ある日突然、メフイスト・フエレスと出会ったフアウスト博士も今の僕のような心境だったのだろうかと何となく考える。

「薔薇の花でもぶつけてみるか?」

 僕の心を見透かしたように目の前の悪魔はそう言って笑った。驚くことに此の奇妙な生き物には人の世の学があるらしい。呆れという苦味しか無かった笑いに愉快という名の甘みが付加される。

「あの娘に残された時間は少ない。三日後に娘は死ぬ。しかし、私には其れを変える力がある」

「勿論、無償という訳では無いのでしょう?」

 悪魔とは古来より対価を求める生き物だとされている。しかし、其れ以前に悪魔が運ぶものは……。

「無論だ。対価はお前とあの娘以外の人間の命……そうだな千人程で良いか。それを捧げると私に宣言し、其れを娘が受け入れたのなら娘の病を取り除いてやる」

「随分と変わった条件ですね。当事者である僕達には何の害もない」

「私はお前たちの反応が見たいだけだからな。あの娘が死のうが他の人間が死のうと特に興味はないし、其の命が欲しいとも思わない。お前とあの娘がどういう決断を下すのか、私の興味は其処だけだ」

「……貴方は随分前から八千代さんの傍に居たようですが、其れは何故でしょうか?」

「あの娘の頭の中が面白かった、此れに尽きる。外側は実に綺麗に出来ているが中身は様々な色が混ざっていて醜悪だ。人間は皆そうだが、あの娘は特に色が多い」

 そう言うと悪魔はばさりと羽を一度はためかせ一言残した。

「あの娘を助けたいと思ったならば、最期の日に此の桜の森に来るといい」


 伍


 また一日が終わろうとしている。八千代さんは幸いにして起き上がれる程に回復したが、其れとは対照的に与えられた部屋の一室に明かりも付けずに蹲った僕の心は迷いの森の中に在った。あの悪魔の言葉が爪痕のようにして僕の心に刻まれていたのだ。千人の命と引き換えに一人の命を救う。もし、其の選択を僕が選ぶのならば人は笑うだろう。お前はモノの計算もまともに出来ないのか、と。しかし、僕は常々こうも思っているのだ。自分の知らぬ者の命に幾らの価値があるのかと。僕が観ていないものは僕の世界に存在しないも同じなのではないかと。ならば僕は自分の好ましい人だけ、幸せを願うに足る人だけが助かれば良いのだとすら思う。勿論、まともに成り立ってすら居ない自己の正当化だというのは分かっている。逃げの一手だと言われれば否定もしない。一週間にも満たない期間を過ごした女に何をうつつを抜かしているのだと、お前のような者が人を哀れむのかと嗤われもするだろう。しかし、触れてしまったのだ。彼女は未だ見ぬ者達とは違い、僕の世界に確かな形を持って現れてしまった。其の存在を、観てしまった。

「僕は、八千代さんを救いたいのだろうか」

 血反吐を吐くようにして其の言葉を捻り出す。出口は未だ見つからない。


 陸


 此の屋敷に居候をして丁度一週間になる。其れは八千代さんの命が尽きる日であることを意味していた。しかし、当の本人は不気味さを覚えるくらいにいつもと変りなく、朝食を摂っていた。そしてメードもまたいつもの様に空気と同化しているのでは無いかと思うくらいに身動ぎ一つせず傍に控えている。

「先生、朝食を終えたら直ぐに桜を見に行きましょう。実は今朝早くに少し見に行ったのですが其れはもう綺麗に満開の様を見せておりました。きっとお気に召す筈です」

 初めて出会った時と同じ矢絣の着物に身を包んだ彼女はにこりと微笑む。此の屋敷に合う様な洋服や華軽羅(ドレス)などはお召しにならないのかと問うたら、動きにくい華軽羅よりも此の着物が気に入っているのだと答えた。身分相応の華やかのものよりも自らの好みを優先する辺り、貴女らしいと僕は笑った。

 こうして凪のように穏やかな時間を過ごしていると、ひょっとしたら彼女は死なないのではないだろうかと思ってしまう。事実、次の発作が来れば死ぬという事は一週間経てば死ぬという事とイコールには成らない気がする。発作の周期の様なものを計算しているのかもしれないが、其処まで正確に人の身体を把握するのは可能なのだろうか。僕は頭を振った。余りにも意味のない仮定だったからだ。そんな僕を見て八千代さんは「どうなされました」と微笑む。此の笑顔を見る為なら何も惜しくはない、そう思えるほどに綺麗であった。

 そうして幾らかの時が過ぎると僕と八千代さんはあの桜の森に向う事にした。屋敷を出る際、あのメードと目が合った。主人と一言も交わさない影。何かを訴え掛けているような不思議な色を宿していて、それが妙に印象に残っている。

 森へと向かう道中、僕と八千代さんは無言であった。互いに何かを感じているのかもしれない。其れが何か分からない侭、目的地に辿り着く。

 ひらり舞う花が僕の頬を静かに打った。空を舞う粉雪のような無数の桜色。辺りを別の世界に染め上げる無垢なる華。そうだ此処には桜しか無いのだ。此処だけが俗世から切り離されたような空間として存在している。僕は息を呑んだ。あの日見たものと此処まで違うものなのか、僕は今何を観ているのか、何処にいるのか、そう思ってしまう程に此の景色は僕を不安定にさせる……余りにも輝きすぎていたのだ。

「とても、綺麗ですね」

 どれくらいの時間が経っただろうか。僕はようやく其れだけを口にした。

「喜んで貰えたようで何よりです。私も最期に此れを観ることが出来て良かったと思います」

 そう言うと八千代さんは傍にあった桜の木に寄り掛かるようにして腰を下ろした。気のせいか汗をかいているように見える。僕は慌てて駆け寄った。

「八千代さん」

「何となく、分かるのです。自分はもう死んでしまうんだという事が。不思議ですね、死を悟る時、人は穏やかな気分になると良く聞きますし、物語でもそうでした。ですが、今の私は怖くて堪らない」

 其れでも彼女は微笑んだ。僕が余りに情けない顔をしたからか、死を前に恐怖を感じた自分に向けたのか、其れとも別の何かか。兎に角、笑った。其の余りにか弱く、強い笑みを見て、僕は決めた。

「八千代さん、貴女は死ななくても良いんです」

「先生?」

「おい、見ているのか」

 僕は桜の森に向かって叫んだ。すると、瞬きの間に此の場に不釣り合いな赤色が現れた。

「見ているとも。其れで、決めたのか」

「ああ。何でも捧げるから彼女を助けてくれ」

「いけません」

 八千代さんが突然立ち上がって僕と悪魔を見据えた。相変わらず汗をかいてはいたが、瞳は力強い。其れどころか怒りすら感じるほどに顔を強張らせていた。

「あれと出会ってしまったのですね、先生。そして誑かされてしまったのですか」

「誑かすとは相も変わらず失礼な娘だ。私は唯道を提示しただけだというのに」

「必要ありません。確かに私は死にたくありません。生きたい。生きて生きて、他の誰より生きて、生を全うしたい。ですが、全うしたいのは自分の生なのです。得体も知れぬ貴方に誂えられた生ではありません……私の命を、私の生きてきた時間を……汚さないで下さい! そんな助けなど要りません、無用です! 貴方が今此の場で私の最期を汚そうと私は持って行くんです。此の桜色に染まった門を広々と開け放って、皺一つ! 染み一つ付けないままで! 私の……心意気を!」

 其の言葉には尋常では無い熱が宿っていた。花乃宮八千代という人間の全てが宿った言葉の奔流に他ならないような気がした。

「忌々しい音色だ。祝福を受けた薔薇の花よりも此の身体に毒な言葉。桜の数だけ積み上がった茶番」

 そう言って言葉に流されるようにして悪魔は消え去る。其れとほぼ同時に八千代さんも斃れた。僕は自分のした事に絶望しながらも慌てて其の身体を支えた。

「少々、格好を付けてしまいました」

 僕は何も、言えなかった。唯此の身体を支えた時、死が其れを包んでいることが分かった。忌々しい程にはっきりと。彼女はとうの昔に発作を起こしていたのだ。其れに耐えてあの言葉を悪魔と……僕にぶつけた。

「自分を鼓舞する為に名作の言葉を借り、あれだけの事を言ったのにやはり恐怖は拭えませんでした。怖い……とても、怖い」

 彼女は今の自分の状態を自覚しているのか、早口で喋り続ける。僕は其れに対しようやく「申し訳ありません」と自分の行いに対する謝罪を口にした。

「いいえ、先生の事は許しません。ですから……此の八千代から罰を与えます」

 唇に何かが触れた。暫くして僕は八千代さんと接吻をしている事に気付く。何故、の疑問が頭を埋め尽くす前に其れは離れた。

「此れは呪いです、先生。先程勇ましい啖呵を切った私は……今死に怯えている私は……死よりも怖いものがありました。其れは此の世界から私という存在が完全に消えてしまうこと。ですが、もし、私に何がしかの感情を抱いて下さっているのならば、こうする事で先生の中に私は残るでしょう」

 彼女はそうして最期に一言口にして目を瞑った。

「だから、此れは浅ましい女の呪いなのです」

 僕はどれ程の時をそうしたかは分からない。唯目の前に抱いた彼女が既に八千代さんで無くなったことだけは分かっていた。


 漆


 桜に囲まれた森の中、メード姿の僕は唯空と桜色とを見上げていた。

「今回も駄目だったようだな。もう此れで何度目だ。百は超えていると記憶しているが其の先は最早分からぬ。まだ、続ける気か」

 木の枝に其の体を載せた赤色の悪魔が言った。

「当たり前だ。何の為の契約だと思っている。僕は八千代さんを救えるまで止めない」

「無理だと思うがな。あの娘の決意は予想以上に固いし、其れにメードに扮して寄りそうだけのお前は無力。あの屋敷に居候をしに来るお前もまた、無力だ」

 其れだけ残し、悪魔は何処かへと飛び去った。後に残されたのは僕一人。他には誰もいないし、何も無い。

「分かっているよ」

 そう独りごちる。其れでも止める訳にはいかないのだ。僕が望む運命を引き寄せるまで、あの日彼女から受けた呪いの為にも、降りることは出来ないのだ。

 ――桜の森の満開の下で、逃げ出したくなるような静寂の中、僕は何時までも待ち続ける。


 捌


 桜の森の満開の下で、私は此の赤色の姿を消して桜を見上げ何事かに想いを馳せる男を見ていた。奴は気付いているのだろうか、己が運命を引き寄せるだの何だの良いながら具体的な行動は起こさず、唯待っているだけの消極的な姿勢を取っているのだという事を。夢を信じ続ければ叶うなどというのは叶った側の観る景色に過ぎず、ただの幻でしかないことを。

 矛盾。今の奴を一言で表すのなら人は其の言葉を選ぶだろう。事実、私も最初はそう思っていた。しかし、奴と共に長い間環の中をぐるりぐるりと廻っている内に気付いたのだ。

 ――奴は今の状況に満足している。

 恐らく本人に自覚はないだろうが、私は確信していた。其れは何故か? 可憐な少女と儚くも甘い一時を過ごせるからか? 違う。居候とは言え豪奢な暮らしを満喫できるからか? 違う。悲劇的な結末を迎える少女と自分に酔っているのか? 違う。

 逃げても罰がないからだ。もう少し正確に言うならば環の中でなら奴は永遠に世界から逃げ続けることが出来る、つまりは他者を傷付けるという恐怖に怯えること無く、生きることが出来る。此れに他ならない。

 安定。奴は此の環の中で安定していた。自己の内的世界で自分という存在を完結させているのだ。此処でなら奴は何に追われることもなく、満たされている。

 人は独りきりで生きるものだが、一人で生きることは出来ない。究極的に考えれば人は一人で生きているが、誰かと浅くだろうが深くだろうが繋がらずには居られない。其処に短い長いの個人差はあるだろうが、一人で生きるのはとても難しい事であるから繋がりを求める。此れは私が長年人間という生き物を観察してきて出した結論だった。

 しかし、今の奴はどうだろうか。人の世から切り離された此の環の中で、まるで演劇を観るかのように人形が動く様を外から観て満足している。全てが偽物で彩られた世界で奴は音を上げることもなく独りきりで生きている。其れは私には驚くべき事であった。今迄、多少なりとも孤独に耐える者は居たが、孤独を呑み込んだ者は観たことがなかった。

「完成した人間。いや、人間の先の生き物、とでも言うべきか」

 奴は独りきりで、誰とも繋がらず、一人で、完成していた。其の姿を観て、私はとても奴を人間だと思うことは出来なかった。

「そなたの様な者を人は鬼と呼ぶのだろうな」

 私は隣に居る彼女に向かって言った。彼女は、何も応えない。

 ――桜の森の満開の下で、笑い出したくなるような静寂の中、私は独りを見つめていた。


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