怒り、暴走
不良に連れられて到着した場所は俗に廃墟などと呼ばれるような所だった。今を持ってして街全体が開発中であるラボラトリには特別な理由がある訳でもなく人が住まなくなって放置された建物が点々と存在していた。ここもそういった建物の一つなのだろう。こうして廃れた場所は大抵不良のたまり場になるか、心霊スポットや都市伝説などの根拠のない噂の場になるかのどちらかだった。この場所は前者のようである。
立ち入り禁止と書かれた看板を潜り抜け、雑草で包まれた地面を踏みつけながら進むと、元はこのビルの入り口だったであろうものが見えた。ガラスばりの自動ドアのようだったが、すでにガラスはない。ドアの枠も片側しか残っていなかった。
「入れ」
不良の一人に言われ、愛生は黙ってもうどこからが中でどの辺りからが外なのか判別がつかないようなビルに足を踏み入れた。
身を包むような湿気がここが建物の中であることを教えてくれた。日当たりが悪く、昼間なのに薄暗い。照明も何もなく、そもそも電気が通っていないであろうここには薄暗い空間を照らしてくれる灯りもなかった。床には割れたガラス、ほこり、コンクリートの隙間から生えた雑草などが散乱していた。
愛生は廃墟があまり好きではなかった。何か、寂しい気持ちになるからだ。
「リナリア」
自分の手を握る、小さな女の子の名前を呼んだ。リナリアは何も言わずに愛生を見上げた。愛生はリナリアを抱き上げる。これから、不良らと一戦交えるかもしれないのだ。なるべくリナリアに危険が及ばないように、少しでも近くに置いておきたかった。もちろんリナリアにそれを説明する時間や余裕はなかったので、リナリアは最初何が起こったのか理解できない風に落ち着きを失くしたが、愛生がリナリアの顔を見ながら少し微笑んでやると、すぐにいつもの冷静さを取り戻した。
笑顔は強いと愛生は思う。例えそれが作り物だとしてもだ。
かつかつと足音を立てながら階段を上がる。その間、誰も何も言わなかった。音だけが響いていた。
「ここだ」
言われて愛生たちは一つの部屋に入る。かなり広い大広間のようにも見えたが、よく見てみると壁を砕いて複数の部屋を一つにしているだけのようだった。そのだだっ広い空間の中央に、まるで自分がボスだと主張するかのように一人の巨漢がふんぞり返っていた。その巨漢には見覚えがあった。円藤だ。やはりあいつが頭かと、愛生は思考を開始するが、部屋にいた男の人数を確認しようと周囲を見渡したその瞬間、自分の両の目に飛び込んできたものに愛生の思考は塗りつぶされた。
「花蓮ちゃん!」
中央。円藤の隣で一人の男に乱暴に腕を掴まれていた花蓮が見えた。酷く怯えた顔で愛生を見ている。
「花蓮ちゃんを放せ、お前ら!」
愛生は叫ぶが、それは男たちの笑いを誘うだけだった。
「おいおい笑ってやるな、テメェの女の名前を呼んだだけじゃねェか」
円藤がニヤニヤと顔を歪め、馬鹿にするように言う。
「……そもそも、その子は僕の彼女じゃない」
知り合ったのだって最近だと、愛生はふつふつと湧き上がる怒りを必死で抑えながら平坦な口調で言った。
「あん? なんだ違うのか。その抱えたガキはこの女とデキたもんじゃねぇのか」
「違う。この子は……えっと、親戚の子だ。それに花蓮ちゃんの歳を考えろよ」
「だろうなぁ、お前にんな甲斐性あるわけゃねえもんなぁ!」
笑い声。大勢の下卑た声が愛生の抑えられている怒りを刺激する。
「ま、誰だってよかったのさ」
円藤がおざなりに発した言葉に愛生は大きく反応した。
「ガオー、お前をここまで引っ張ってこれりゃぁ、俺はそれでいいんだからな」
「待てよ。お前らまさかそんな理由で、自分勝手な都合のままに花蓮ちゃんを……!」
激昂しかけた愛生に、怒るな怒るな、と円藤は半笑いでたしなめた。
「ほら、女は返してやるよ」
円藤は花蓮の腕を掴んでいた男に放せと短く言った。男はいいのかと聞き返したが、円藤は構わないと更に短く言った。花蓮が解放される。
少しふらつきながら、花蓮は愛生のもとへ駆け寄った。ふらつく花蓮を愛生は右手で支えた。左手はリナリアを抱えている。
「花蓮ちゃん、大丈夫? あいつらに何かされなかった?」
未だ怯えた様子の花蓮は何度か首を縦に振った。花蓮の体は震えていた。愛生は花蓮の肩を掴んで大丈夫だと言った。
「大丈夫。もう怖くないよ。僕は強いんだ。こんなやつらみんな倒してやる」
愛生は自分を強いと思ったことはなかったが、せめて彼女のために虚勢を張った。もちろん負けるとは思っていなかったが、それはそれだけだったのだ。
花蓮の体の震えは止まらなかった。当たり前か、恐怖とはそう簡単に拭えるものではないのだ。そう愛生は納得しかかったが、すんでの所で花蓮の様子がおかしいことに気づいた。しきりに口を動かしている。だけど声が出ていない。
「花蓮ちゃん? どうした花蓮ちゃん!」
愛生は花蓮の肩を揺らした。花蓮はようやく言葉に声を乗せることができたようだ。
「あ、愛生さん……」
小さな声だったが、愛生の耳にはきちんと届いた。愛生は大きく頷いて見せて、きちんと聞こえたことを花蓮に伝えた。
「愛生、さん。愛生さん……! あれ、あれ!」
花蓮は揺れる声と共にある一点を見つめた。それは彼女がさっきまでいた場所のちょうど足元の辺りだった。
そこにあったものに、花蓮が『あれ』と呼ぶ『それ』を見つけて愛生は言葉を失った。
どうして気が付かなかったのだろう。花蓮にばかり気を取られ、愛生はそこにもう一人女がいたことに気付けなかった。
女は衣類も何も身に着けていなかった。裸の体はそこらじゅう痣や傷だらけで、足は不自然に折れ曲がっていた。死んではいないようだったが、その目に生きている証拠はないように見えた。
物言わぬ人形のようになった女がそこに転がっていた。転がされていた。
二人の視線に気づいた円藤が女の髪を掴み乱暴に顔を上げさせた。
「こいつはよ、この前いい女だと思ってここに連れてきたんだ。だけどまあハズレだったな。耐久力がなくてすぐに壊れちまった」
こうしてな、とそう言ってまるで本当に人形を投げるように女を放った。
「円藤さんって、女は無理やりじゃないと興奮しねぇとか言って毎回こうして女を連れてきてはこうなんだぜ」
「変態だよ、変態」
男たちにそう言われると円藤は顔の歪みを更に酷くして返した。
「おいおい、人の趣味をとやかく言うんじゃねェよ。それに、今回はお前らだって楽しんでただろうが」
湧き上がる笑い。あまりに下衆な声どもに愛生の体に鳥肌が立った。
なんでこいつらは笑っているんだ。
「まあ、この女のことはどうでもいい。どうせまた竜司が揉み消してくれんだろうからよ」
「どうでもいいだと!」
耐え切れず、愛生は感情のままに叫んだ。
「彼女をそこまで滅茶苦茶にしておいて、それをお前はどうでもいいと言うのか!」
その怒声に花蓮の体が怯えたようにビクリと反応したが、それを気にしている余裕は今の愛生にはなかった。ただ、膨れ上がる怒りを抑えるのに必死である。
「なんでテメェが怒ってんだよ、ガオー。テメェはまず自分の心配をするべきじゃねぇのか?」
理解できないとでも言うように首を傾げる円藤。愛生は続けようとした言葉を咄嗟に飲み込んだ。
もうこの男に言うことはないと、そう思うことにした。わずかに残っていた理性が愛生を繋ぎとめたのだ。
それに円藤の言うことも一理はあるのだ。何よりまず自分が助からねば、あの横たわる女を助けることもできやしない。無論それはそれだけの意味であり、一理以上に納得する要素は皆無ではあるが、そう思い込むことで愛生は平常心を保とうとしていた。
何よりまずはリナリアだ。彼女を抱えたままではあらゆる行動が制限される。戦うどころではないだろう。リナリアは不死身であるし、最悪の事態はないにせよ、もしも傷を負いそれが高速で治る場面を不良たちに見られたら事だ。さすがの彼らでもそれがリナリアの治癒力が常軌を逸していることには気づくだろう。そうして騒ぎになれば、政府にリナリアを取り戻す理由を与えるようなものである。では逃げるのはどうか。それもできない、と愛生はすぐに否定。リナリア一人なら抱えたまま窓からでも飛び降りればいいが、花蓮がいる。それに横たわった女もだ。全員を抱えるには愛生には腕がいくらか足りない。
どうするのが最善か、愛生が理性によって答えを導こうとしていたその時、ふとリナリアの方に視線がいった。その瞬間、まさに一秒にも満たない刹那に愛生のわずかに残されていた理性は跡形も無く吹き飛んだ。直後に襲ったのは驚愕――いや、恐怖だった。愛生は恐れたのだ。何故なら、自分の腕に抱えられたままの少女に表情が見えなかったからだ。
それはつまり、無表情と言うことである。
リナリアはその整った顔に何も浮かべずにいた。ただし視線はしっかりと横たわる女に向けられていた。否、横たわる女を見ていながら、リナリアは無表情だった。
驚くこともしなかった。
怖がることもない。
憐れみ、悲しむことすらしなかった。
リナリアは惨めな女をただそうである風にしか見ていなかった。周りの風景となんら変わりのない『それ』としか見ていなかったのだ。
たった九歳の女の子がだ。
この惨事を見て、それを引き起こした男たちに囲まれながら、それでも愛生の腕に抱かれた少女は何も思わないのか。何も、思えないのか。
この子は感情が死んでしまっている。
この九歳の少女の感情が死んでしまうまでに一体なにがあったのか、それを想像することは難しくなかった。そしてそれを容易に想像できてしまう自分にも愛生は憤る。
その手に抱かれながら、愛生の内から吹きだす感情にも気づかないのか、リナリアの表情はさっきから何も変わらない。その『当たり前さ』は横たわった女と男たちを見て恐怖する花蓮の方が異端なのではないかと錯覚させるほどだった。
なんだ、これは。愛生の内から吹きだす感情が、徐々に形を作っていく。
こんなのおかしい、狂っている。子供だぞ、女の子だぞ、まだ九歳なんだぞ、それがどうしてこんな顔をしているんだ。こんな、なんでもないような顔でいられるんだ。泣いたり笑ったり、そんな当たり前のことを彼女から奪っておいて、それでどうして僕は普通にここにいる。どうして奴らは笑っている。どうしてまだ、世界は回っているんだ。
「こんな世界に誰がした!」
愛生の突然の怒声。その形容しがたい重い響きにその場にいた誰もが動きを止めた。一瞬の静寂。愛生は守るはずの花蓮が誰よりも怖がっていることにも気づかずに続ける。
「どうして、お前らは笑っているんだ。どうして、笑っていられるんだ」
言いながら、愛生は花蓮から手を放し、リナリアも地面に降ろしてしまった。もう二人は愛生の目には映っていない。愛生の目はただぶつけようのない怒りに満ちていた。
この場に犬太郎か竜司がいたら、きっとこう言っただろう。「またあの目だ」と。
鋭さの欠片もない、重く鈍い瞳。ずっしりとした重さが伝わってくるような視線。その目に見られた円藤はまるで鈍器で殴打されたかのような気分になった。途端に体中から汗が噴き出す。
「はん! 大声を出しやがって、それで俺らがビビるとでも思ってんのか」
円藤は吹きだした汗を振り払うように強く虚勢を張った。
「見ろ、この人数を! 俺のチームの全戦力! お前の能力がどんなものなのかはまだわからねぇが、この人数でお前に勝ち目があるわけねぇ!」
立ち上がり、円藤は声を張り上げる。
「俺たちは全員フェーズ1。その中でも更に弱い、能力なんてあってもなくても変わんないようなラボラトリの最底辺だ。だが! そんな俺たちが武器を持ち集まれば、大抵の能力者は震え上がる。強い能力者はより強い落ちこぼれに屈してればいいのさ! 弱肉強食、それがこのラボラトリの掟だろう?」
円藤の言葉と共に男たちがジリジリと愛生ににじり寄る。彼らは全員がその手に武器を持っていた。それは鉄のバットだったりただの木材だったりと、どこでも手に入るようなもの。しかし、人を傷つける力を持った武器たちだった。対して愛生は丸腰。武器なんて持っていない。しかし、男たちは誰もが言いようのない不安を抱えていた。武器を持たない少年に、自分よりも小さい小柄な少年に、彼らは何か嫌な予感を感じ取っていた。それを振り払うように、円藤を含む男達は声を出して、その予感を振り払う。
「おら、どうした能力者! 何か言いやがれ!」
「震えちまって声もでねぇのか?」
「なんとか言えや、能力者ぁ!」
その威圧を込めた言葉も愛生にはなんの意味もないようだった。愛生はただ一言、彼らが予想もしていなかったことを呟いた。
「――持ってねぇよ」
「はぁ?」
円藤が訝しげに首を傾げる。愛生はその鈍器のような瞳で円藤を睨みつけながら続ける。
「能力なんて、僕は持っていない。強い能力者はより強い落ちこぼれに負けるんだって? なら円藤、お前らは更に強い無能に負けるんだ」
円藤には愛生の言っている意味がわからなかった。愛生は円藤たちなどよりも遥かにレベルの高い高校に通っている。能力だって、上のはずだ。いや、そもそもラボラトリにいる以上能力を持っていないなんてことはありえない。ここは超能力者の街だ。何かの比喩か? と円藤は勘ぐるが、それに意味はない。何故ならそれは言葉通りの意味だからだ。愛生は難しいことなど何も言っていない。彼はただ、事実を語っている。
「知らないのなら覚えておけ。僕はラボラトリ唯一の無能力者だぁ!」
瞬間、愛生は駆け出す。まるで予備動作のないスタートにその場にいた誰もが愛生を眼で追うだけで精いっぱいだった。それは円藤も例外ではない。愛生は真っ先に円藤の元に向かい、右の拳を振り上げた。
++++++++++
夢井花蓮は怯えていた。不良に怯え、滅茶苦茶にされてしまった女に怯え、それを行った男に怯え――――そして今は、いつか自分を助けてくれた恩人に怯えている。
「ああああああああああああ!」
もう何回目かの誰かの悲鳴。痛々しいそれは先程まで武器を振り回してデカい顔をしていた不良の一人が発した声だった。
二〇人以上いた不良たちの殆どが今は地に伏し顔を上げることはない。死屍累々の中心に立つのは花蓮を助けた男、我王愛生だった。
男たちが愛生に武器を振り上げてから、もうどれだけの時間が経っただろうか。花蓮には永遠のように感じられた時間だったが、しかし実際の所まだ五分もたっていない。たったそれだけの時間で愛生は不良らの殆どを倒してしまったのだ。花蓮にはその間に何が起こったのかいまいち理解出来ていなかった。ただ、覚えているのは愛生がおよそ人間が発するとは思えないような怒声とともに暴れ狂っていた様子と、それに合わせて次々と倒れていく男たち、その画だけが嫌になるほど鮮明に花蓮の頭に残っていた。
誰かの悲鳴が途切れたことによって、花蓮は反射的にその声がしていた方向を向いてしまった。そこには口から泡を吹いて気絶している男と、その男の上腕を右手で握っている愛生の姿が見えた。愛生が男の腕から手を放す。物理の法則に従い男はゆっくりと地面にぶつかった。愛生が握っていた男の腕は人には不可能な曲がり方をしていた。
これでこの場にいる意識ある者は倒れた男たちの中心でたたずむ愛生と、気絶こそしてないものの最初に愛生に殴られてから目の前で起こる事態に恐怖しとうとう一度も腰を上げることなく震える円藤。そしてこの期に及んでもなんの表情も見せないリナリアと、それに縋るようにリナリアを抱きしめる花蓮だけになった。
何より驚くべきはこの惨状を作り出したのが愛生だと言うことだ。彼の言うことが真実で、我王愛生が本当になんの能力も持っていないというのなら、この惨状はあまりに異質だ。人ならざる力を持つのが超能力者であり、彼らが人ならざる結果を出すのならそれは理にかなった必然でしかない。しかし、愛生が本当に無能力者だというのなら、この事態は必然でも偶然でもない。もっと違う茶番めいた何かにしかならない。
花蓮は自分を助けてくれたはずの少年に大きな恐怖を感じていた。その恐怖は円藤も感じていたようで、愛生がその鈍器のような視線を円藤に向けると、彼は短く悲鳴をあげた。愛生は円藤に向かって一歩踏み出した。その際、愛生の足元に転がっていた男を踏みつけたが、気づかなかったのかあるいは気づくつもりがなかったのか、愛生は自分の周りに転がる男らを踏みつけながら円藤のもとへと歩み寄る。
「や、やめろ! 来るなぁ!」
円藤は泣き叫びながらみっともなく震えた声をあげる。愛生はそれを意にも介さず円藤のもとへとたどり着くと、円藤の頭を右手で鷲掴みにして、なんとそのまま彼の巨体を片手で持ち上げてしまった。これで強化系の能力すらも持っていないのかと、花蓮は戦慄する。
「が……がぁ」
愛生の右手に力が入れられる。ここからでも円藤の頭からミシミシと軋む音が聞こえてきそうだった。円藤は苦しそうに呻くが、そんな声は愛生には聞こえない。手足を振って暴れているようだが、それも意味があるとは思えなかった。
「た、助けて……」
思わず口をついて出たのだろう。円藤の口から懇願が漏れた。その時、花蓮にもわかるくらい愛生の中で怒りの感情が湧き上がった。いや、花蓮だけではないだろう。きっと、その場にいた者なら全員わかるはずだ。愛生の怒りは誰だろうとすぐに察知できる。彼の怒りはむき出しなのだ。そして怒りを制御することが愛生は苦手だった。ましてや今の愛生には怒りを抑えようなどという発想がある訳がない。吹き出し溢れ出したむき出しの感情は、溢れ出るままに流れ出す。
「助けて、だと?」
愛生の声はさっきまでの獣のような怒声よりはいくらかマシだったが、低く冷たい響きは少しもなくなっていなかった。
「助けて、頼む……お願い、だから――」
円藤の必死の懇願を無視して愛生は右手に一層力を入れた。円藤が悲鳴をあげる。
「ふざけるな! 助けてだと、お願いだからだと? 今更お前が許しを乞うのか! 助けてくれと泣き喚くのか!」
愛生の顔は激怒に満ちていた。その瞳には怒り以外のものが見えないほどに。
愛生はその顔に一瞬だけ悲しみをちらつかせ、横たわったまま動かない女を見た。すぐに円藤に視線を戻す。その時にはもう悲しみは見えていなかった。
「あの人だって、お前に言ったんじゃないのか。助けてくれって、もうやめてくれって、お前に向かって言ったんじゃないのか! お前はその時なんて言ったんだ? 答えろ円藤、お前は彼女にどんな卑劣な言葉を返したんだ!」
円藤は答えなかった。恐怖と痛みが彼の口を閉ざしているのだ。その沈黙を愛生は挑発と受け取ったのか、より一層怒りを強めた。愛生は円藤の頭を地面に叩きつけた。その一撃で円藤は完全に意識を失う。それでも愛生の怒りは治まらない。
「お前が、お前みたいな奴らがいつも平気な顔で誰かを傷つけるんだ! 血を流し倒れた人間を踏みにじる! 傷つけられる痛みも知らないお前らが!」
倒れた円藤に跨り、愛生はその顔面を殴りつけた。一回ではない。何度も何度も、愛生は円藤を殴りつける。怒りを暴力に変え、何かを振り払うように拳を振るう。
「お前みたいな奴がいるから、お前みたいな『悪』のせいで……!」
愛生の拳に血が滲む。それがどちらのものかは花蓮には判別がつかなかったけれど、これ以上見ていられないことは確かだった。見るに堪えない。殴られている円藤ではない。円藤を殴り続ける愛生を花蓮は見ていられないと思った。
怒りを爆発させ、ただ獣のように拳を振るう愛生の姿は酷く痛々しいものに見えたのだ。
「やめてください……」
もう彼のこんな姿は見たくない。その一心で花蓮は恐怖を振り払い声をあげた。
「やめて、愛生さん! もう、もうその人気絶してますよ。これ以上やったら死んじゃいます!」
花蓮が必死で絞り出した声は愛生の耳には届かなかった。愛生の拳は止まらない。花蓮の声は届かない。
「愛生さん、やめてください愛生さん! もうやめて――――お願い、だから……」
最後の掠れるような響きはリナリアの耳にしか届かなかった。
結局、悲鳴を聞いた近隣住民の通報によって現場に警察が到着するまでの間、愛生はその拳を止めることはなかった。花蓮は暴れ狂う愛生から泣きながら目を逸らし、リナリアはそんな花蓮を見ようともせず、振り上げては下ろされる愛生の拳を見つめ続けていた。