風呂場の侵略者
「そうだ。リナリア、お風呂入りたくない?」
愛生の突然の提案にリナリアは首を傾げた。
「いや、帝さんって生活力がないというか、普通に生活する発想そのものがないような人だから、帝さんと一緒にここまで来たっていうんなら風呂も何も入ってないんじゃないのかと思ってさ」
仮に入っていたとしても、さっきまでダンボールに詰められていたのだから、汗くらいはかいるだろうと愛生は予想していた。リナリアは少し考えてから返事を返した。
「……よくわかってるね。帝さんのこと」
「まあね」
言いながら、リナリアは抱えた膝を伸ばして立ち上がった。どうやら自分の推測は当たっていたようだと、愛生は少し嬉しくなった。
風呂場に案内すると、リナリアは来ていた簡素なワンピースをあっという間に脱ぎ捨てた。恥ずかしがることも怖がることもなかった。子供だからというのもあるが、それでも堂々としているというか、まるで何も恐れていないようだった。千歳や帝とは根本的に背筋の伸ばしかたが違うようにも見える。ただ、なんにせよ彼女が無口なのは緊張しているわけではなかったようだと、愛生は安心した。
全ての衣服を脱ぎ捨てると、リナリアはじっと愛生を見上げていた。とりあえずタオルの場所やらを教えてあげている間もずっとだった。不思議に思い、愛生はリナリアにどうしたのと聞いてみた。するとリナリアはもっと不思議そうに首を傾げる。
「あなたは脱がないの?」
「へ?」
「日本ではみんなが同じお風呂に一緒に入るって聞いたの」
それは銭湯の情報ではないかと愛生は思った。そもそも、リナリアの顔立ちは生粋の日本人だ。日本語だって訛りがあるようには聞こえない。なので名前が変わっているだけでただの日本人だと愛生は思い始めていたのだが、どうもそうでもないようだった。
「ずっと外国にいたの」
愛生の疑問に気づいたのかリナリアはなんでもなさそうに言う。
「周りの人も日本人だったし、みんな日本語だったけど日常生活はちょっと外国よりだったから。ここに来るまでに帝さんに色々教えてもらった」
「……あの人の言うことは割とテキトーだから、信じないほうがいいよ」
「じゃあ、あなたがドーテーだっていうのも嘘なの?」
「それは今すぐ忘れろ」
「ドーテーって、何?」
「なんでもない。なんでもないから忘れてくれ」
子供になんてことを教えているのだ、あの人はと愛生は心の中で呆れた。リナリアは愛生が何を言っているのかわかっていないのか、不思議そうに首を傾げたままだ。愛生はため息をついた。
とりあえず日本の風呂事情に対するリナリアの誤解を解くために色々説明をした。その間リナリアは素っ裸のまま黙って聞いていたのだが、家族や小さい子供となら一緒に入ることもあるという説明に食いつき、じゃあ一緒でいいじゃないかと結局愛生は押し切られる形でリナリアと入浴することになってしまった。
このご時世にいくら小さいとはいえ今日会ったばかりの幼女とお風呂に入ると言うのはギリギリでアウトかもしれないという考えは愛生の中には全く存在しなかった。それはつまり、幼女趣味の傾向が欠片もないということなのだけれど。
裸の付き合いとも言うし、これで仲良くなれたら儲けもんくらいに愛生は考えていた。
適当に体を流してから湯船に浸かる。体の芯がじんわりと暖かかくなっていくのを感じた。
愛生の部屋の風呂場はそんなに大きくはないが、子供と一緒に入るくらいならば困らない大きさだった。いつもと違い、足が伸ばせないくらいの不都合でしかない。愛生はふとリナリアに目をやる。相変わらず感情の読み取れない目をしているが、風呂に入って気持ちよくない人間はいないと愛生は思っているので、きっと気持ちいだろう。
そういえば、こんな時間に風呂に入るなんてめったにないなぁ、と風呂場についている小さな窓から夕日が射すのを見ながら愛生はぼんやりとそんなことを思った。
「頭洗ってあげようか?」
おもむろに湯船から上がったリナリアに愛生はそう提案する。リナリアは黙って頷いた。
シャンプーを適量垂らし、なるべく優しくリナリアの頭を洗ってやった。彼女の髪は細く柔らかい子供の髪だった。髪の量はとても多く、しかしよく泡立った。殆ど汚れていないのかもしれなかった。劣性形質であろう彼女の灰色の髪は汚れているようにも見えるので、損な髪色だと愛生は思う。
頭を洗われている間、リナリアは何も言わなかった。頭を洗っている間、愛生は何も言わなかった。
頭だけではなんだと思い、体も洗ってやることになった。子供の肌は敏感だというのを愛生はどこかで聞いたことがあった。愛生がいつも使っているタオルでは粗すぎるだろうかと思い、仕方なく手で洗ってやることに。ボディソープをいきなり体に垂らすと冷たいだろうからと、少し手で泡立てて温めてからまず背中を洗ってやった。小さな背中だと、愛生は思った。今にも潰れてしまいそうだ。
「背中終わったから、こっち向いて」
「うん」
短い会話だった。ただ、不思議と嫌ではなかった。
足を洗ってやっているところで、愛生はあることに気づいた。リナリアの体には傷がないのだ。子供の体に傷があることは、それはそれで問題だが、しかしそれにしたってリナリアの体は無傷すぎだった。生傷も古傷何もない。もっと言うなら、痕がないのだ。痣を作った痕だったり、蚊に刺された痕だったり、デキモノの痕だったり、そういった痕跡がまるでない。それは子供にしては不自然だった。人間としても、異常だった。
リナリアの体はあまりに綺麗に整い過ぎていた。
ただそれも、彼女の能力を考えれば頷ける。その不自然さも異常も、すべて彼女がフェーズ7であることで説明がついた。
不死身の能力。
目の前の女の子はとんでもない異能を抱えているのかもしれなかった。
「からだ……」
突然、愛生を見ながらリナリアが呟いた。
「傷、一杯だね」
「そうだな」
愛生の体はリナリアとは対照的に傷だらけだった。体中いたるところに深い傷が刻まれている。それはあまり、見ていて気持ちのいいものではないだろう。一緒に入ったのはやっぱり失敗だったかもしれないと、愛生は思った。
「痛くないの?」
「痛くはないよ。昔の傷だから、痕が消えないってだけで勲章みたいなもんさ」
言ってみたものの、愛生は別に自分の傷を誇りに思ったことなどなかった。こんなもの、弱さの証と変わらない。世界最強のあの人の体にも傷なんてものがないことを愛生は知っていた。
ふと、リナリアが愛生の額に手を伸ばした。くしゃくしゃの髪に隠されていた額には一際大きな切り傷のようなものが刻まれている。リナリアがそれを撫でるように触れる。
その時、がちゃりと音がした。玄関の方からだ。その小さな金属音を愛生は聞き逃さなかった。
何かが侵入してきたのか。考えうるあらゆる可能性を頭の中で羅列しながら、愛生は体を強張らせた。リナリアは音には気づいていないようで、自分の体を洗う愛生の手が止まったことで不思議そうに愛生を見ていた。
「愛生ー」
それは聞きなれた幼なじみの声だった。愛生はほっと胸を撫で下ろす。千歳には合鍵を渡してある。基本的に不器用で家事の不得意な愛生のために千歳はよくこの部屋を訪れるのだ。大抵、買い物に付き合った日にはお礼と言って千歳はご飯を作りにくる。今日もそうなのだろうと愛生は予想した。
「愛生ー。いないんですか?」
「ここだよ。風呂に入ってるんだ」
リナリアを洗う手を再開させながら、愛生は風呂場から答えた。
「誰……?」
少し警戒した面持ちでリナリアが尋ねる。なるべく優しい笑顔になるように気を付けながら、愛生は答えた。
「幼なじみだよ。子供好きの。大丈夫、怖くないよ。凄く優しい人だ」
それだけで警戒を解いたのか、あるいは最初からあまり気にしていなかったのか、リナリアは何も言わず、ただ愛生の手を見ていた。
千歳が部屋を歩く音がだんだん近くなっていく。風呂場に向かっているようだ。
「ここにいたんですか、こんな時間からお風呂だなんて良いご身分で……」
勢いよく扉を開け風呂場に入ってきた千歳は得意の挨拶を言い終わることなく固まった。視線はリナリアの足を洗う愛生に固定されている。愛生は何に気づくことなくいらっしゃいなどと呑気に言っていた。
愛生から視線を外し、リナリアを見て、湯船を見て、もう一度愛生に視線を戻したところで千歳は大きくため息を吐いた。幼なじみの様子がいつもと少し違うことにようやく気付いた愛生は不思議がるように首を傾げる。
「どうしたんだ、千歳。何かあったのか?」
千歳は頭に手をやっていた。凄く困っているように愛生は見えた。
愛生は現在リナリアと一緒に風呂に入っていて、そしてリナリアの体を洗ってやっている最中だった。今は足を洗っている。見ようによっては愛生がリナリアの足を持って跪いているようにも見えるだろう。実際千歳にはそう見えていた。その他の状況を確認することでその疑いは晴れたが、それだけだった。千歳の心情は全く変わらない。
その変化に愛生は気づいていないようだった。
千歳は重苦しい口をようやく開いた。
「……いえ、まあ。愛生にそういった趣味がないことは重々承知しているのですが、しかしどうでしょう? 少しは頭に浮かびませんでしたか。このご時世にそのくらいの年齢の男子がそのくらいの年齢の幼女と一緒にお風呂に入る。幼女趣味がないからこその行動ではあるのでしょうが……ですが、その、非常に言いにくいこと……なんですが…………」
千歳は言い渋っているようだった。愛生は黙って次の言葉を待った。たっぷり渋ったあと、千歳は冷たく言い放った。
「絵面的にアウトです」
その一言を言われても何が何だかわからない愛生はもっと首を傾げる。千歳はまたため息。理由はわからないが呆れられているように愛生は感じた。
「愛生、その子はいいから上がりなさい。少しお話があります」
「え。でも僕まだ自分の体も洗ってないし……」
「いいから」
有無を言わさぬ雰囲気だった。少ない言葉に乗せられたたくさんの圧力に愛生は従わざるを得ない。
この幼なじみは時折こうして凄く怖くなるのだと、愛生は今更になって思い出した。
肩を落として風呂場から上がる。少しだけ小さくなったように感じる愛生の背中を自分の体を流しながらリナリアは見つめていた。
++++++++++
それから一時間ほど、愛生は千歳からモラルや常識だの、よくわからない説教を受けた。怒られる理由も千歳が怒る理由も愛生にはわからなかったが、よくわからないままに黙って反省していた。怖いので言い返すこともできない。ただでさえ小柄な愛生の体がもっと縮こまってしまったようだ。
千歳の説教が世界平和だとかよくわからない場所へ着地しようとしている時、ナギサが風呂から上がってきた。さっきと同じワンピースを着ていた。髪や体は拭いたようだったが、長く量もある灰の髪は完全に水分が取れていなく、歩く度にぽたぽたと水滴が垂れていた。
リナリアの姿を確認すると、千歳は愛生に早く着替えるように怒鳴った。あれから愛生はずっと裸だったのだ。体は拭くまでもなく乾いてしまった。着替えも許さなかったくせに早く着替えろとは何事かと愛生は不満を覚えたが、口には出さなかった。男は我慢だと諦め半分に呟きながら、愛生は投げつけられた衣服を着こんだ。
リナリアはそんな二人のやり取りを少し見つめ、すぐに興味なさそうにソファに腰を下ろした。千歳は急いでクローゼットからドライヤーを取り出していた。そんなところにあったのかと愛生が驚いているのを無視して千歳がリナリアの隣に座る。
「髪、乾かしてあげるね」
とても優しい声で千歳はリナリアに言った。リナリアは小さく頷くだけだった。千歳に命令されるように愛生はドライヤーのコンセントを入れた。ぶおおお、と熱風が噴き出す音がする。千歳はヘアブラシでナギサの髪をとかしながら、ドライヤーの熱風を熱くならないように揺らしながらあてる。そのヘアブラシもどこにあったものなのかと思いながら、キッチンに立った。蛇口を捻ってコップに水を注ぐ。冷たくも熱くもないそれを喉に流し込む。愛生は喉が渇いていた。
キッチンから戻った愛生はリナリアの髪を乾かす千歳を見て、さてどうしたものかと考えた。まずはリナリアのことを説明しなければいけない。千歳はリナリアが何故愛生の部屋にいるのかもわかっていない。よくわかっていないが、きっとその辺りが千歳が怒っている理由に関係しているのだと愛生は思っていた。
「私は桜庭千歳って言うの。あのお兄ちゃんのお友達。あなたはなんて言うのかな? よかったらお姉ちゃんに教えてくれない?」
「……リナリア」
悩んでいる間に二人は自己紹介を済ませてしまった。早く説明しなければいけないと、愛生は焦る。その様子に気づいたのか千歳は仕方ないなとでも言うように愛生に話した、
「心配しなくても愛生。私はリナリアちゃんのことを帝さんから聞いてますよ」
それは愛生にとって予想外の話だった。
「私の家に帝さんからの手紙が届いていました。今回は少し面倒だから愛生を助けてやってくれとだけしか書かれていませんでしたが……。ですから厳密にはリナリアちゃんのことを直接聞いていたわけではありませんが、まあなんとなく事情は察しました。愛生に子供の相手を押し付けるなんて、確かに面倒なことのようですね」
ドライヤーを止めて、千歳は愛生に顔を向けた。
「愛生は帝さんになんと言われてこの子を預けられたのですか?」
「守れと言われた。それだけだ」
「また随分とアバウトな……一体、何からどう守れというのか、それはわからないのですか?」
「いや、ちょっと待ってくれ千歳」
愛生は一旦会話を区切った。
「話を続けるのなら、場所を変えよう」
愛生としては、こういった話を子供の前でするのには抵抗があった。身よりのいない子供の前で誰が育てるのか親族同士が争っているようなものである。特に、リナリアに関してはもっと注意が必要な気がしていた。
そういう愛生の気持ちを理解していたのか、千歳は構いませんよ、と言って立ち上がった。
「ちゃんと一人で待てるか? リナリア」
愛生は優しい声でリナリアに言った。リナリアの視線は愛生と重なっていたが、しかし目は見ていないようだった。まるで目の奥のもっと大事な部分を見られているような気が愛生はした。
「大丈夫」
なんてことなさそうにリナリアは答えた。愛生は頷くと、戸棚からいくつかお菓子を取り出して机に並べた。
「お菓子でも食べて待っててよ。ジュースは冷蔵庫にあるし、テレビを見てたって構わない。眠くなったらそのままソファで寝てていいよ」
愛生は適当なクッションをソファに置きながら言った。愛生の入学祝いにと帝が買ってきたこのソファは一人暮らしの愛生の部屋には不釣り合いなほど大きく、ベッドと変わらないくらいふかふかだった。愛生が寝るのにも苦労しないので、ナギサが寝る分にはもっと余裕があるだろう。
「とにかく好きにしてていい。でも部屋からは出ちゃ駄目だ。誰か来てもいない振りをして、扉も開けないこと。わかった?」
歳の離れた兄妹に言い聞かせるようにな口調だった。リナリアは愛生が全て言い終わったと確認すると、静かに「わかった」と口にした。その言葉を聞いて安心した愛生は立ち上がった。
「行こう、千歳」
そう声をかけると、千歳も立ち上がった。ドライヤーは床に転がったままだったが、後で片付ければいいだろうと放っておいた。
「じゃあね、リナリアちゃん。お姉ちゃんたち、行ってくるからね」
最後、家を出る時に千歳が言った。返事はなかった。
そう言えばリナリアは一度も千歳の目を見なかったなと、愛生はふと思ったのだった。