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エピローグ『僕らの世界』

 帝が運転する車の中で、リナリアは彼女から一枚の写真を渡された。

 一瞬女かと思ったが、よく見るとそれは少年だった。栗色の淡い髪は羊のようにくりくりしていて、丸い瞳は活力というものを全く感じさせない。制服らしい服装の隙間から見えた首筋を考えるに、かなり華奢な体つきをしているようだった。

「私の息子だ。名前は愛生。愛に生きると書いて愛生だ。明日からはそいつに守ってもらえ」

 どうやら帝は自分をこの人のところへ預けるようだった。リナリアには帝の真意はわからず、厄介払いされた程度にしか思っていなかった。

 自分で助け出したのに、自分で守ってくれるわけじゃないんだ。

 それもまた当時のリナリアにはどうでもいいことだったので、すぐに忘れたのだが。

「頼りない見た目をしているが……実際頼りない。ああいや、違うな。頼れるのだが頼り甲斐がないというか……」

 リナリアの無言を不信と受け取ったのか、帝は愛生は頼れるやつだと言葉を尽くす。……が、そうしようとして、ますますドツボにはまっていくようだった。リナリアとしては彼が頼れるやつかなんてどうでもいいので、聞き流していたのだが。途中から帝の話は殆ど息子自慢のようになっていき、あまりにも嬉々として話すものだからつい聞き入ってしまった。リナリアのいた場所には、リナリアに向かってこんな楽しそうに話す人物はいなかったのだ。そして、それがまずかった。

 帝が話したのは愛生の人生の殆どだった。

 最初は自分とは違う親がいたこと。その親のもとで幸せに過ごしていたこと。テロに巻き込まれて、両親を失ってしまったこと。瓦礫の山の中で、愛生を見つけ出したこと――――――

 彼の人生は、決して幸福だとは言い難かった。はっきり言ってしまえば、不幸そのものだ。そんな彼の半生を聞いてく内に、帝が話す『愛生』という人物像を思い描く度に、リナリアは彼が自分と似ていると思うようになっていった。

 リナリアと愛生は似ている。

 痛いのが嫌いで、辛いのが嫌いで、苦しいのが嫌いで、失うことが何よりも嫌で、そして、自分のことが大嫌い。いつか全てを失ってしまう妄想に捕らわれて、いつも膝を抱えて泣いているような、そんな弱い人。

 だけど、リナリアは自分と愛生が似ているな、と思うと同時に違うとも思った。決定的に違うと思った。

 痛いのは嫌だ辛いのは嫌だ苦しいのは嫌だ、そんな風に泣きながら、それでも愛生はいつも痛くて辛くて苦しい中で戦っていた。どうして? 守るためだ。失うことが何よりも怖い少年は、守るために傷つくのだ。それでも守りきれずに、一度彼は大切なものを殆ど失った。だけど、彼は立ち上がった。もう駄目だと泣きながら、折れそうな心を奮い立たせて立ち上がった。そしてまた戦うのだ。大事なもののために、彼は何度でも……。

 対して、自分はどうだろう。リナリアは傷一つない自分の体を見て思う。弱くて情けない自分は、戦うことすら放棄した。失うことが怖いから、何も手にすることなく全てから逃げ出した。感情を閉ざし、心をなくし、痛いことからも苦しいことからも辛いことからも逃げ出した。そうして残ったのは弱いままの心と、それを偽るための仮面だけ。

 似ている。でも、何もかもが違う。

 立ち向かった少年と、逃げ出した少女。

 リナリアは途端に自分が酷く情けないもののように思えた。そしてそれと同じくらい、思った。彼なら、自分を理解してくれるんじゃないか。もう自分ですらわからなくなってしまったリナリアという哀れな少女の全てを、彼なら理解してくれるんじゃないかと。

 そう思った時にはもう、リナリアの目には愛生しか写らなくなっていた。

 それが幸運なことなのか、不幸なことなのか、それはまだ、誰にもわからなかった。

「この人がいい」

 リナリアが言った。助け出されてから、何も言わないまま黙っていた彼女が初めて口を開いたのだ。帝はそれに少し驚いたあと、ふっと微笑んだ。

「そういうと思っていたよ」

 言いながら、帝はリナリアのいる後部座席へダンボールをよこした。それは子供一人なら余裕で入れそうなかなり大き目の箱だった。

「色々考えたんだがな。やっぱりラボラトリへの侵入は宅配便を使うことにした。それが一番安全だし確実だ。なぁに。ほんの半日その中で丸まっていればすぐに愛生に会える」

 リナリアは何も言わなかった。というか、言えなかった。まさか成人した女性の口から「一〇歳にも満たない幼女を宅配便で運ぶのが一番安全」みたいな言葉がでるとは思わなかったのだ。続けて帝は言った。

「ああ、安心しろ。きちんとガムテープは私が貼ってやる」

 常識のない成人女性はリナリアが全く心配していないところで安心させようとしていた。その声が妙に優しいのが、リナリアの気持ちを全く理解していない証拠だった。

 もしかしたら自分は死ぬかもしれないな、なんて不死身の少女は至極真面目に考えながら、渋々とダンボールの中に入って行った。

++++++++++

 リナリアが昼寝から起きると、既に時刻は夕方になっていた。汗でびしゃびしゃになってしまった衣服をリナリアはすぐに脱ぎ捨てた。驚異の回復能力を持つリナリアの体だが、体から出て行くものに関しては意外と無頓着だった。汗もおしっこも、普通の人間と同じように出て行く。そのくせ、証拠隠滅でも図るかのように血液だけは体から流れ出る事もなく瞬時に蒸発するのだから、たちが悪いなとリナリアはいつも思っていた。

 どうせならこういう汗も回復してくれたらいいのに、とリナリアはベタベタする体を見ながらため息を吐く。

 夢を見ていた。

 途中までは一ヶ月ほど前に帝に助け出された時のこと。後半はダンボールに詰め込まれた自分が西へ東へ大冒険する話。無論ダンボールに入ったままなので外の景色など見えはしない、夢特有のどうしてだかわからないけど理解できるあの感覚で、自分が酷く遠くまで来ていることくらいはわかっていた。そんな大冒険も、最終的にはダンボールごと焼却炉に入れられて終わるのだが。

 そりゃ汗もかくはずだ。

 ただ、夢の中の自分の体が炎に包まれたまま焼け死んでいったのは、少しだけ羨ましいと思った。

 今日もリナリアの体は一切の傷も許さず存在している。

 ぎゅるるる、と不意にお腹が鳴った。そういえば昼ごはんも食べずに寝てしまったことを思い出す。そろそろ愛生が帰ってくる頃だ。愛生と一緒に食べようと、リナリアはキングサイズのベッドから飛び降りた。

++++++++++

 愛生が学校から帰ってくると、来客が来ていた。いや、確かに来客だが間違いなくその人は来客という雰囲気ではなく。その姿が自身の全てを物語っているかのように堂々と、それでいて偉そうにふんぞり返って、リビングのソファでくつろいでいた。

「久しぶりだな、愛生」

 なんでもないような顔をして愛生を迎えるその人こそ、日本が誇る世界最強の超能力者。我王帝だった。

 一八〇以上ある長身の女性。足はすらっと長く、スタイルは恐ろしくいい。鋭い目つきをしているが顔立ちは端正。喪服のごときパンツルックのダークスーツがよく似合っていて、淀みの一切ない見事な黒髪を肩口よりも上の辺りで切りそろえている。

 彼女はその長い脚を見せびらかすように足を組み、座っていた。

「……来てたんですか、帝さん」

「ああ」

「でも確か、ここの鍵はまだ渡してないはずですよね」

「知らないのか? 私はピッキングができるんだぞ」

「いやここの鍵、電子キーですし指紋認証だし……」

 なんにしても不法侵入であることに変わりはない。

 警察を呼んだ方がいいのだろうか。

 愛生は制服のネクタイを外しながら、帝の対面に座った。

「料理を始めたようだな」

 そういう帝の手元には愛生がリナリアのお昼に作って行ったハンバーグとスープがあった。すでに半分以上食べている。

「捻りはないが、まあ美味い。家庭という感じがする」

「褒めてくれるのはありがたいんですけど、それリナリアの分じゃ……」

「昼も食べずに寝ているようだったからな。早く食べないと味が悪くなってしまう」

 もっともらしいことを言ってはいるが、ようは幼女の昼ごはんを奪っただけのことである。

 やっぱり警察を呼ぶべきかもしれない。

 愛生が本気でその可能性を検討していると、帝が手提げほどの紙袋を突きだした。

「案ずるな。代わりの物は用意してある。空弁というんだったかな。空港で買える弁当だ。久しぶりに普通の飛行機に乗ったから、ついでに買ってきたんだ。千歳の分もあるから、あとで持って行ってやるといい」

 ありがとうございます、と素直に受け取る。普通じゃない飛行機ってどういうのかというツッコミは入れない。アメリカくらいだったら歩いて行けると真顔で言う人物なのだ。聞いてもこちらが驚かされるだけである。

「それで、帝さん。今回もまた仕事で日本に?」

「いや、今日は違う。仕事と仕事の間に多少の余裕ができたから、息子をの顔を見がてらな。余裕と言っても本当に多少だから、このあとすぐにまた旅立たなくてはいけない」

 それを聞いて、愛生は少しがっかりした。その気持ちを悟られたのか、帝がふっと微笑んだ。

「それにしてもお前たち、中々上手く行っているようじゃないか」

「そう、でしょうか……」

「何か心配ごとがあるようだな。二つ、か。その左腕のことと、一か月前の事件のことだな」

 まずは左手から聞こうか、と帝が見透かしたように言う。間違いではなかったので、愛生は素直に応じた。

 まず愛生は包帯が巻かれたその腕を一度ギュッと握りしめてから、包帯を解いた。そこに現れたのは形こそ以前のフォルムに戻ってはいるが、色は完全に変わってしまった義手。鋼色だったその腕は今は塗りつぶしたような黒に染まっている。

「ふむ。見事な色に染まっているな。黒はいい。私の象徴だ。で、これはどうしたんだ?」

「事件以来、こうなってしまいまして……鋤崎さんに調べてもらったら凄い驚いてましたよ。物質も原子も地球上には存在するはずのないものだって」

「ふむ」

 帝が身を乗り出して、愛生の左手を観察する。

「お前が新しく覚醒したという能力については乾から報告を受けている。制御不可能な強大な力を発揮する能力だと聞いていたが、物質変換まで兼ね備えているとは。他に何かわかったことはあるのか?」

 愛生は首を振った。

「何もわかっていません。鋤崎さんに調べてもらっているんですが、世界中のどの能力パターンとも一致しない所かかすりもしないって。左手の件と合わせて、今凄い頭を抱えています」

「能力のことは他に誰かに話したか?」

「いえ。あとは千歳とリナリアくらいです。僕自身、本当にこれが超能力なのかどうかもわからないので……」

「それがいい。何かわかるまでは秘密にしておけ。私の方でも調べておこう」

 そう言って、帝はまたふんぞり返るようにソファに体重を預ける。

「では次の心配事。お前にとっては最も気に病んでいることだろう。実を言うと、今日ここに来た目的の半分はそれなんだ。半月前の、あの事件」

 竜司と土山との戦いが、愛生の中で鮮明に思い出される。

「今日来る途中で中央通りを見てきたが、まだ殆ど修復していなかったな。ただ倒れただけの他のビルなどと違い、あそこは崩れた発電施設に落ち込む形だったからか、瓦礫の撤去も遅れているようだった。汚い光景だったが、王の凱旋のための催し物だと思えばさほど悪くもなかたぞ」

「お祭りは、今年は無理かもしれませんね」

「やらないということはないだろう。ラボラトリの一大イベントの一つだ。ただ、今回のテロの傷が言えるまではお預けかもしれんな」

 ハンバーグの残りを口にしながら、帝が続ける。

「主犯、土山含鉄。協力者、不良団体チームの面々。多数の死傷者を出しながらも、奇跡的な速度で事態が収縮したという今回の事件。崩れた瓦礫の山のおかげで自分に捜査の目が回ってくることもなく、終わったはず事件にも関わらずお前がまだ気にしていると聞いた時は意味がわからなかったが、調べればすぐに理解できたよ。お前は、あの不良どもを救えなかったことを悔やんでいるんだ」

「お見通しなんですね」

 愛生は俯きながら、薄く笑った。

 警察の調べによってわかったこと。不良たちは何も好き好んで土山に協力していたわけではないという。犯罪行為の証拠をちらつかせ、ある者は肉親の命まで人質に取られていた。要は脅されていたのだ。狂気に憑りつかれた自殺志願者に、彼らはテロを強要されていたのだ。

 土山を殺したことは、別に気にしていない。あの男を許そうと思えるほど、愛生は強くないし、この程度の汚れを今更気にするほど愛生の手は綺麗じゃなかった。だけど、彼らは別だ。あの不良たちは嫌々、仕方なくあの場にいた。むしろ救われるべきは彼らだったのかもしれなかったのだ。

 思い出す、必死に食らいつく竜司の顔。彼もまた自分と同じように、大切なものを守ろうとしていたとしたら? 自分はそれを気にすることもなく、ただ打ち砕いたのだ。

「それでも、お前が気にすることじゃないと思うがな」

 帝は慰めるわけでもなく言う。

「普段からやましいことなんかせずに素直に警察に行っていれば、それでテロは起こらなかったかもしれない。それにお前が先だって奴らのチームを解体していなければもっと多くの人間が犠牲になっていたことだろう。結果的に、愛生。お前は今回誰よりも多くの人間を救っているんだ。土山とかいう男が馬鹿にした無能力者が、超能力者よりも多くの人間を救ったんだ。それはこれ以上ない勝利じゃないのか?」

「僕は勝ちたかったわけじゃないですから……ただ、リナリアを助けたかっただけなのに、それだけで誰かが死んでしまうのは、嫌だなって」

 帝が思案するように腕を組む。

「例えば、こういう話がある。ある二隻の船が沖にいた。船にはそれぞれ一〇人の乗客がいる。突然の嵐で二隻の船は沈没してしまう。乗客の命は絶望的かと思われたが、それぞれの船で一番泳ぎの上手い男たち二人が自分の船の乗客を一人ずつ連れて岸まで泳ぎ切ったのだ。人々は彼らを英雄だとほめたたえたが、しかし二人の男は泣きそうな顔でこう言った。『八人も救えなかった』『一人しか救えなかった』とな」

「それって、二人とも同じことを言っているんじゃ」

 どちらも自分の船の乗客を全員救ってやれなかったことを悔やんでいる。しかし、帝は違うと首を振った。

「どちらも前向きとは言えないが、しかし後者は生きている人間を見ている」

 いいか、愛生。と帝が言い聞かせるように迫る。

「救えなかった数を数えるなとは言わない。それは背負え。私の息子ならそれくらいはしてみせろ。だがな、いつまでも死んだ人間ばかり見ていても仕方ない。お前が後ろばかり見ていたら、お前が救ってきた者たちまで前を向けなくなってしまう」

 帝はおもむろに立ち上がり、愛生の隣に座ると、愛生のポケットから財布を取り出した。あまりにも当然のように行われた一連の動作は愛生に反応する隙を与えず、帝はその財布から一枚の写真を取り出した。まるで最初からそれがそこにあることを知っていたかのように、自ら確認する前にそれを愛生に向けた。

「見ろ。これがお前が救った人間だ」

 そこに移っているのは、リナリア。それも、笑顔の写真だった。この一ヶ月で彼女は不器用だが、笑顔を見せるようになってきていた。中々笑わないことには違いないので、これは奇跡的とも言える一枚だった。偶然にもおさめられたこの写真を、愛生はいつも持ち歩いていた。

「あいつのこんな笑顔。お前じゃなければ取り戻せない。少なくとも私には無理だ。誇れよ、愛生。お前はこの世界最強ができないことをやったんだ」

 彼女なりに、自分を励まそうとしてくれているのだろうか。その気持ちが愛生には素直に嬉しい。本当に自分が誇れるような気になってくる。こんな、自分をだ。

「しかし、それにしてもいい写真だ」

 愛生に突きつけていた写真を見ながら、帝が呟く。

「やはり、リナリアをお前に預けてよかった」

「それなんですけど、帝さん。どうして僕にリナリアを預けようと思ったんですか?」

 ずっと気になっていたこと。素朴な疑問をぶつけると、帝は当然のように返した。

「リナリアとお前は似ているからな。きっと合うと思ったんだ。お前も昔、研究施設に監禁されていただろう?」

 何気なく発せられた言葉を愛生は否定する。

「監禁なんて、そんな。あくまでただの研究の一環として……」

「まさか。養護施設にも入れず里親申請さえも拒否して研究所に置いておくなど、監禁以外のなにものでもない」

「でも、リナリアほど酷くはありませんでしたよ。あくまで、人権のもとでの実験でした」

「だろうな。お前の場合はリナリアと違い、換えが効かない希少種だ。しかし実験動物のように見られていた点では同じだろう。小石が私に助けを求めなければいずれお前もリナリアのようになっていたと思うぞ。遅かれ早かれな。そもそも私はお前という前例がいたからこそリナリアを助け出そうと思ったのだ。誰に依頼された訳でもなくな」

 写真を財布にしまい、それを愛生に差し出しながら帝は言う。

「だからこそ、お前はあいつの気持ちを理解し、ただのボディーガードじゃなく仲間か、兄妹のようなものになってやれると思っていた。結果的には成功だが……お前に同じような境遇の女の子を助けてあげたいと思うような気持ちがなかったとしたら、どうしてリナリアをここまで守ろうと思った? 私に言われたからはなしだぞ。逃げようと思えばいつでも逃げれたはずだ。それなのにどうしてお前は、リナリアの味方になったんだ?」

「どうしてですかね……」

 財布を受け取りながら、愛生は答える。

「正直、自分でもよくわかっていなくて。放っておけないといえばそうなんですけど、それだけじゃないような……ああ、いえ。やっぱり言葉にするのは難しいかもですね」

 困ったように笑う愛生を見て、帝はどうしてか嬉しそうに微笑んだ。

「それが言葉にできた時、お前はきっと今以上に強くなれるさ」

 そう言って、立ち上がる。足の長い帝は座っている時よりも立っている時の方が大きく見えた。

「それでは、私はそろそろ行かなくては。次の仕事に間に合わない」

「リナリアには会って行かないんですか?」

「わざわざ起こしてか? そんなことしなくとも、あいつは私のことなんか気にもかけないさ」

 帝はひらひらと手を振りながら玄関へ歩いて行く。愛生は慌てて、リビングで保管しておいた帽子とナイフを取り出した。

「待ってください、帝さん。これ、預かりものです」

 玄関で靴を履いていた帝にそれらを渡す。

「っと、そうだった。今日来た理由の半分がこれなんだった」

 ナイフを懐にしまい。帽子を被る。赤いリボンのついた黒のハット。彼女を象徴するそのアイテムは、ようやく彼女の手元に戻ってきた。

「やはりこれがあるとしっくりくるな。手入れもされている。感謝するぞ、愛生」

「いえ、そんな」

 そんなことないです。とそう言おうとした愛生の口を塞ぐように帝が屈んで愛生の額にキスをした。真っ赤になって恥ずかしがる愛生をからかうように栗色の髪をかき回す。

「それじゃあ、また来る。今度はもっと沢山の料理を食べさせてくれ」

 それを別れの挨拶に、我王帝は息子の家を後にした。

 千歳にしろ帝にしろ、どうも女性にはからかわれてばかりの気がするなぁ、とぼんやりと考えながら、リビングに戻る。帝が食べた食器を片づけて、ソファに座りテレビを付けると、リナリアが部屋から出てきた。出てきたのが自分の部屋だということに驚いて、リナリアが何も着ていないということに更に驚いた。

「お前、素っ裸じゃないか……。服はどうしたんだ?」

「汗、気持ち悪い」

 寝汗をかいて気持ち悪かったから脱ぎ捨てたということかと愛生は解釈した。リナリアが脱ぎ捨てたという服でも回収しに行こうかと思った矢先に、リナリアが愛生の膝の上に座った。愛生と対面になるようにして、首に手を回して座る。これでは立ち上がれない。

「なんだよ、今日は随分甘えたがりだな」

「愛生に悲しいお知らせ」

「ん?」

「シーツ、汗まみれ」

 部屋のシーツが汗まみれで大変なことになっているらしい。続いて小さく洪水、とも言っていたので、結構なことになっていると予想がついた。

「まあ、ここは換えのシーツは沢山あるからいいけど。でも、昼寝くらい自分のベッドでしたらどうだ? せっかく自分専用のがあるのに、数えるくらいしか使ってないだろ」

「いいの」

「いいんですか……」

 そう言われたら、愛生は何も言い返せない。ため息を吐いていると、リナリアが愛生の左腕にすっと触れた。

「冷たいね」

「そりゃ、義手だからな」

「夏は、抱き枕にいいかも」

「やっぱお前、自分のベッドで寝ろよ……」

 そんな愛生を無視してリナリアはテレビに目をやる。そして画面を指さす。そこには夕方ニュースで都市伝説特集なるものが放送されていて、丁度テロのあった中央通りが映し出されていた。キャスターが言うには、崩れて瓦礫の山になったはずの中央通りに一か所だけ瓦礫の積もっていない妙な空間があるらしい。人が一人か二人しか入れない程度の空間なので、そこには何かこの世のものではないものがいたのかもしれないなどと冗談半分に語っている。

「あれ、リナリアたちがいたとこ、だよね?」

「ああー、そうだな」

 どうも愛生が降り注ぐ瓦礫を打ち砕いていたあの場所が、妙な噂の種になっているらしい。まあ一か所だけ不自然に瓦礫の積もらない場所があれば当然といえば当然だが、知らない内に自分が妖怪のような扱いをされていることに、妙な感覚を覚えた。まさか自分たちの名前は上がるはずはないが、それでも気持ちのいいものではない。

 しかしリナリアはそうは思っていないらしく。ゆーめいじん? と少しだけ高揚した声で愛生に尋ねる。一般人、と返すと落胆していた。その様子がおかしくて、愛生は思わず笑ってしまった。

「馬鹿にした」

「してないよ」

「したもん」

「してないってば」

 痴話喧嘩のような会話をしていると、リナリアのお腹が鳴る音が聞こえた。リナリアが音を隠すようにお腹を抑えた。その姿をまた笑いながら、愛生は帝さんがお弁当を買ってきてくれていたことを思い出す。

「リナリア。帝さんが弁当を買ってきてくれたんだ。空弁って言って、飛行機で食べるようなやつなんだけど……」

「美味しいの?」

「多分僕の料理よりは美味い。一緒に食べよう。僕もお腹が空いてるんだ」

 頷くリナリアの目を愛生は見つめる。

 相変わらず、彼女の瞳には誰も映っていない。それもそのはずだった。彼女の目に映るのは彼女の世界にあるものだけ。しかし、その目に映した世界を見るのは他ならぬ愛生の瞳だ。なら、愛生の世界にないものは最初から映るはずがない。愛生の世界に愛生がいなければ、彼女の瞳に何も映っていないように見えて当然なのだ。同じように、きっと彼女にも愛生の瞳には自分が写っていないように見えるだろう。

 二人は似ていると、帝は言った。それはきっと正しい。でもそれは生まれや境遇ではなく、もっと深い根本的な部分から愛生とリナリアは似ているのだった。

 痛いのが嫌いで、辛いのが嫌いで、苦しいのが嫌いで、失うことが何よりも嫌で、そして、自分のことが大嫌い。いつか全てを失ってしまう妄想に捕らわれて、いつも膝を抱えて泣いている弱く情けない心。そして何より、そんな自分の弱さを許せない潔癖こそ二人の抱える最大の共通点だった。

 弱く脆い二人は魅かれあうようにして出会い、そして支え合うようにして今を生きている。

 この出会いが幸運なのか、不幸なのかは誰にもわからない。それでも、愛生はそれを幸運だと言い張ろうと思う。例え嘘でも本当にしようと、そう思えたのだ。

「なぁ、リナリア」

「何?」

「お前、僕と一緒にいて楽しいか?」

「楽しいよ」

「そっか」

 今はただ、その言葉こそが愛生にとっての救いだった。


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