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『ただいま』

 超能力者の街であり、同時に学生の街でもあるラボラトリには似つかわしくない高級マンション。その入口に、一組の男女が現れた。

 男は高校生くらいの少年だった。一見女と見間違うような可愛らしい顔立ちをしている。細見で華奢な体。淡い栗色の髪の毛は癖が強く、まるで羊のようにふわふわとしていた。少年の足元はおぼつかず、とても疲弊しているのか、目には活力というものが全く見られない。

 少年に手を惹かれている女は小さな子供。長い灰色の珍しい髪色をしている。人形のように整った顔、体つきをした彼女は、しきりに心配するように少年の顔を窺っている。

 二人、支え合うようにしてマンションの中に入って行くと、そのあとはただ夜だということを告げるかのような静寂だけが鳴っていた。

++++++++++

「よ、ようやく帰ってこれた……」

 自宅の玄関を開けた途端、愛生は滑り込むようにして靴も脱がずにその場に突っ伏した。

 降り注ぐ瓦礫から息も絶え絶え逃げ出したのはよかったのだが、発電施設の崩落というとんでもない騒ぎを聞きつけ集まってきた警察が厄介だった。研究施設爆破テロの直後だということもあり、警察は超警戒態勢。問答無用で捜査網を広げ各所に検問を設置。普段の状態ならやましいこともないのでなんなく通り抜けられるが、土山との戦闘を終え、ボロボロの状態で警察に見つかったら、確実に怪しまれてしまう。仕方なく検問を避け、警察の目を盗むようにして帰路についたのだがこれが思ったよりも遠回りになってしまい。途中からは殆どリナリアのための観光案内でもするかのごとくラボラトリの各所を回ってきた。

 家に帰ることができたのはざっと六時間後。もうとっくに日は落ちてしまっている。

「大丈夫?」

 リナリアが心配するように愛生の顔を覗き込む。彼女の回復能力は体力まで回復してくれるのか、リナリアはいつまで歩いても疲労した様子はなくピンピンしていた。

「大丈夫だよ。ちょっと、疲れただけ」

 愛生は笑顔でそう返す。嘘はついていない。本当に疲れただけなのだ。竜司との戦いの傷も、土山からのダメージもすでに殆ど回復してしまっていた。六時間歩き続けた疲労感だけはどうしようもないが、あの瓦礫の雨の下で無傷で脱出できたことは奇跡と言っていいだろう。

 まあ、自分が頑丈なだけなのかもしれないけれど。

 実際、愛生はかなり頑丈である。とある人物のもとで特殊な鍛え方をしたのが大きいが、それ以前に愛生にはそういう才能があったらしい。帝も愛生の頑丈さだけはいつも褒めてくれていた。

「あんまり、嬉しかったことはないけどさ」

 自嘲するようにそう言って、愛生は体を回転させて、仰向けになった。すると、上から愛生を見つめる人物。

「愛生、車に引かれた子犬みたいになってますよ」

 そこにいたのは千歳。愛生の幼なじみが何食わぬ顔で立っていたのだ。

「ああ、千歳。いたのか」

「つまり死にかけで臭いということです」

「いや、そんな毒舌の説明はいらないから」

 臭いは酷いだろう臭いは。

 そう言いながら愛生は体を起こした。いつまでもここで寝ているわけにはいかない。臭いと言われてしまったし、お風呂に入ってそのまま寝てしまおう。なんていったって今の愛生は疲れているのだ。可能ならばすぐにでも寝られるくらいだ。

「ところで愛生。私は今凄くお腹が空いています」

「え?」

「私は今凄くカレーが食べたいです」

「……」

「私は暗にカレーを作れと言っています」

 大事な幼なじみの言っている意味がわからず、愛生は困惑する。

「いや、あの、千歳さん千歳さん? 僕、今とても大変な大激闘と大逃走を演じて命からがら帰ってきたところなんだけど? それに暗にっていうけど、全く隠れてないというか隠す気がないというか……」

 危険を察知した愛生の脳が面白いように言葉を紡ぐ。喋るのさえ億劫だったはずだが、命のかかった時の人間は凄い。そんな無意味な感動を覚えていると、リナリアが愛生の裾をくいくいっと引っ張った。

「お、おおリナリア。お前からも言ってくれ。この悪女、このままだと本当に僕に今からカレーを作らせる気だぞ」

 リナリアは愛生の目を見て短く一言だけ言った。

「お腹空いた」

「……」

「カレー」

「……………………………………食べたいのな。ああはい。わかりましたよ」

 たっぷり悩んでから、愛生はため息と共に立ち上がる。

 全く、この世界はままならない。

 それでも、それを笑ってしまえるようになるくらいには自分も成長できているのだろうか。

「あ、そうだ千歳」

 愛生は大事な約束を思い出し、リナリアと一瞬だけ目配せする。それだけでリナリアも愛生の言わんとすることがわかったのか、小さく頷いた。

 せーのっ、という掛け声のあと、二人は声をそろえて言った。

『ただいま』

 千歳はが優しく微笑んで「おかえりなさい」と、そう言った。


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