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彼女の見た幸せ

 暗い暗い檻の中。その冷たい場所に、彼女は突然現れた。そこには一人の少女がいた。冷たい奈落の底にいた少女。その傷一つない体を見て、その凄惨な在り様を見て、彼女は迷わず手を差し伸べた。握れ、と彼女は言った。そして「生きろ。抗え」と、そう言った。それは懇願でも提案でもない。紛れもない命令だった。まるでそれが私の決定だと言うように、逆らうことは許さないと彼女は告げた。あまりにも横暴で荒々しい救いの手。

 誰よりも威風堂々と、まるでその立ち姿が自身の全てを物語っているとでも言うように誇らしげに立つ彼女の姿。その姿があまりにも輝いて見えて――――

 だからだろうか。少女がそれを醜いと思ってしまったのは。

++++++++++

 頭上で空気の爆ぜる音が聞こえた。銃声だ。同時にぐちゅり、と自分の脳みそが侵入した異物にかき乱される音が耳の奥の方から聞こえてきた。しかしそれも一瞬で、気づいた時には彼女の耳にはどうしようもない静寂と、傷一つない自身の体だけが残っていた。

「ふ、はははは」

 それを見て、男は笑った。彼女に向けて拳銃を構え、その引き金をためらいなく引いた男は心底面白そうに笑う。

 白衣を着た男だった。適当に伸ばされた不潔な髪の毛と細すぎる体。見るものに不健康なイメージを植え付ける彼の姿は、まるで科学者の駄目なところを集約したかのようだった。

「……やはり、てめぇはフェーズ5なんかじゃねぇよなぁ」

 傷一つない彼女の――リナリアの体を舐め回すように見て、男は呟いた。

「竜司の野郎が掴んだ情報は偽物ってことか……。問題は何故偽の情報が出回っているかだよなぁ。隠匿、もしくは攪乱? どっちにしろ、これほどの存在が今まで表ざたにもならずに隠されてきたってことだ。なあ、おいフェーズ7。そこんとこ、てめぇはどう考えんだよ」

 男の質問にリナリアは答えなかった。ただ黙って、どこともない虚空を見上げるだけだ。男は不機嫌そうに舌打ちをすると、拳銃をしまってリナリアに近づく。

「無視ですかそうですか。そっちがその気ならこっちだって勝手にさせてもらうぜっ」

 言って、男はリナリアの顔を蹴りつけ、床に倒れた彼女の胸を踏みつけた。情けや容赦など感じられない。メキメキと音を立てて肋骨は折れ、肺は圧迫されて潰される。リナリアの超回復も足を乗せられてたままでは意味がなかった。回復するべき隙間がないのだ。

「……っか! ああ……!」

 リナリアの口から小さく声が漏れた。表情のなかった顔は苦痛にゆがみ、苦しい苦しいと逃げ場を探して手足をばたつかせる。

 男はそれを見て、鼻で笑った。

「呼吸ができずに苦しがるってことは、痛覚だとかがないわけじゃねぇ。銃弾で頭をぶち抜かれても平気な顔をしていたのは単に我慢か。ま、あれだけ瞬間的な痛みの方が我慢がきくってことか?」

 ヘラヘラと監察結果を口にしながら、男はリナリアから足を放す。リナリアの胸は痛々しいまでにはっきりとへこんでいたが、数秒とたたずにそのへこみはなくなり、リナリアの中から痛みも消えていった。

「二秒ってとこか。外側の方が治療が速いようだから、視覚的には一秒もたってねぇ。ははは、まるで化け物じゃねぇかフェーズ7! 不死身の怪物がこの世にいたとはなぁああ!」

 男がリナリアの喉を蹴りつけた。呼吸器官を狙って繰り出された手加減のない一撃は簡単にリナリアの顔を苦痛にゆがませた。

「いいぜその顔。子供はやっぱり表情豊かでねぇとな。特に不死身の怪物なくらいだったら、もっと憎悪に塗れた顔でもしてくれよ!」

 リナリアはただ痛い、ということを伝えるだけで、決して男の方を見ようとしなかった。見たとしても、彼女の瞳に男は写らないのだが。

 彼女の世界には一人だけ――

「つまらねぇなぁ」

 張り付くような笑顔のまま男はリナリアに文句を垂れる。

「ただまあ、ただの自己回復リカバリーと結果の知れた実験を繰り返すよりは随分ましだがな。警察がくるまでの暇つぶしにでも思っていたら、まさかこんな化け物が引っかかるとは思ってもみなかったぜぇ。にしたって幸運なのか不幸なのか微妙なところだがな。まともな実験器具もない今、規格外の回復力を見ることしかできやしねぇ。明日死ぬってのに三億でも渡されたような気分だぜ!」

 全く反応のないリナリアを気にすることもなく、男は一人で満足げににやつく。

「だからまぁ、問題はその存在だよなぁ。フェーズ7の隠蔽ねぇ……ま、想像がつかないわけじゃねぇ。大方どっかの研究施設にいたんだろう? 俺も研究者だからな。よくわかる。てめぇほどの便利な実験動物を見逃す手はねぇってなぁ」

 男はリナリアの髪を掴み、無理やり自分の方へ向かせた。何も写さない瞳が男を見る。

「俺は研究者であるが、同時に超能力者でもある。最近はそういうのも増えてんだよ。うちの所長もそうだったしな。だから同情はするぜぇ。もし俺がてめぇと同じ能力持っていたら、モルモットになっていたのは俺だったのかもしれないんだからなぁ」

 ただ、擁護もしない。と男は突き放すように呟いた。

「俺は色々あってちょっと政府の奴らの鼻を明かしてやりたいのさ。本来なら現時点で計画は殆ど成功しているようなもんだが、最後の一撃にてめぇを使ってやるよ。政府がその存在を偽ってまでひた隠した化け物を世間様の注目の的にしてやる。なぁに難しいことはない。てめぇがここにいれば順当に事は運ぶだろうよ」

 男は計画と言った。その意味をリナリアは理解しないが、ただ消え入るような声で一つだけ尋ねた。

「そうしたら……そのあとは、リナリアはどうなっちゃうの?」

「俺はそこまでのことは知らねぇよ。また施設にでも連れていかれるんじゃねぇの?」

 男が興味なさげに呟いたこと。その意味を理解した瞬間、ナギサはどうしようもない恐怖を感じた。

 それは不死身の怪物への死刑宣告でもあったのだ。

++++++++++

 暗い暗い檻の中。彼女の記憶はそこから始まる。それ以前の記憶はない。物心つく前から彼女はそこにいたし、そこ以外の場所は知らなかった。

 彼女に名前はない。記号や数字で呼ばれることはしばしばあった。面白がって、灰かぶりなどというニックネームを付けた珍妙な男が一人だけいたが、しかし大体の人間が彼女のことを『あれ』や『それ』と呼んでいた。それだけで十分。特別な名前など付ける必要はなかった。彼らにとって彼女はモルモット、実験動物でしかないのだから。

 白い衣装を着こんだ彼らは、彼女の周りをせわしなく動き回る。そうして大きな声で今日はどのようにして『あれ』を殺すのかと相談を始める。そうして相談が終わると、彼女はその通りに殺される。しかし彼女はいくら殺されようと死ねなかった。彼女の持つ力は彼女が死ぬことを許さない。それは彼らにとってとても都合のいいことだと言うのは彼女にもわかっていた。毎日毎日、様々な薬品を投与され、様々な衝撃をその小さな体に与えられ、その結果彼女は殺される。そうして今日の分の行為が終わると、彼女はいつもの檻に放り込まれる。そのあと彼らは解散し、真っ暗な檻の中には彼女だけが残される。

 そこでまともな食事を貰ったことはない。死ぬことを許さない彼女の力は、常に肉体を最善の状態に保とうとする。故に食事などとらなくとも彼女の健康状態は維持されてしまうのだ。必要がないから、彼らも食事を与えようとはしなかった。空腹は感じていたが、それももう慣れた。空っぽのお腹は痛くて痛くて仕方ないけれど、その痛みは彼女にとってはもう友達のようなものだったのだ。たまに彼らが興味本位で寄こすお菓子や飲み物だけが彼女が口にする唯一のものだった。投げつけられるようにして渡されるそれを夢中になって頬張る。その姿はきっと不様なのだろうけど、別に気にするほどのことじゃないかな、と彼女は考えていた。

 そう、どうでもよかったのだ。彼女にとっては周りのことも自分のことでさえもどうでもよいことでしかない。彼女の世界には何もない。他ならぬ彼女自身でさえ存在してはいないのだから。

 きっと自分はこのままこの闇の中で一生を終えるのだろう。この不死身の体に一生なんてものがあるのかどうかわからないけれど、それでも自分はずっとこのままだろうと彼女は思っていた。それが当然、当たり前のこと。抗うつもりなんてない。彼女はそれを受け入れている。沢山のどうでもいいことの一つでしかない。

「本当に?」

 誰かが彼女に尋ねる。

「本当にそう思ってるの?」

 本当にそう思ってるよ、と彼女は答える。

「じゃあどうして、帝の手を取ったの? 助かる気もないなら、振り払えばよかったのに」

 それは握れと言われたから。心底どうでもよかったけれど、そう言われたら仕方ないよ。

「本当に?」

 誰かが繰り返す。

「本当にそうなの? 助かる気もなかった。助けられても嬉しくなかった。外の世界に希望を持っていなかったの?」

 そうだよ。助かる気なんかなかったし、助けられて嬉しくもなかった。外の世界に興味なんてないし、あの檻の中だって別に嫌じゃなかった。希望なんてないし、憧れなんてあるはずないよ。

「……じゃあ、またあそこに戻ることになってもいいの?」

 いいよ。彼女が答えた。

 それはどうでもいいことのはずだ。別に最初からわかっていた。光を知れば闇はより深くなる。深く暗く冷たく、彼女を飲み込もうと待ち構える。それはわかっていたことだから。どうでもいいことだから。再び闇に沈もうともかまわない。

 すると誰か――リナリアが泣きながら言った。

「嘘吐き」

 嘘なんか吐いてない。

「嘘ばっか。辛かったくせに、苦しかったくせに、嫌だったくせに」

 嘘じゃないよ。

 辛くなんかなかった。

 苦しくなんかなかった。

 嫌なんかじゃなかった。

「もうあの人に会えなくてもいいの?」

 別にいいよ。

 どうでもいいよ。

「楽しかったくせに。あの人と一緒にいれて……」

 楽しくなんか――

 ない、と、そう言おうとして言葉に詰まる。その先が言えない。

 言わなくては、楽しくなんかない。楽しくなんかない。どうでもいいことのはずだ。あの人のことなんて、どうでもいいのだと……

 初めて人と一緒にお風呂に入った。誰かに頭を洗ってもらったのも初めてで、お腹いっぱいご飯を食べたのもあの時が初めてだった。一緒にテレビを見て、一緒の布団で寝て、下手くそな手料理を食べさせてくれたりもした。口下手な自分の言いたいことをなるべく沢山理解しようとして、一生懸命になって自分の話を聞いてくれた。外に出る時はいつも手を繋いでくれた。

 覚えている。あの人の困ったような笑顔を。

 覚えている。あの人と過ごした半月を。

 覚えている。あの夢のような日々がどれだけ楽しかったのかを。

 楽しかった。

 彼女が――リナリアが泣きながら言う。

 楽しかった。楽しかった。

「そうだよ。楽しかったよ。嬉しかったよ」

 リナリアも泣きながら言う。まるで子供のように二人は泣きじゃくる。

 辛かった。苦しかった。嫌だった。

 もうあの闇に戻りたくなんかない。

 あの人と一緒にいた時間は、とても楽しかったから。

 そんな自分の感情に、リナリアはようやく気が付いたのだ。

++++++++++

「――……だ」

 リナリアの口から音が漏れた。

「やだ……嫌だ! 嫌だよぉ!」

 ほんの数秒前までの無表情無感情はどこかへ吹き飛んだ。リナリアはその顔を酷く歪め泣き散らしながら走り出した。

 逃げるように、ただ走る。男からではない。もっと深く、暗い何かから。

「っ! 待ちやがれ!」

 抵抗ひとつしなかったリナリアが突然走り出したことで男は動揺し、急いで彼女を追いかけてその髪を掴んだ。

「嫌だぁ! 戻りたくない戻りたくない! 嫌だ嫌だ嫌だやだぁ!」

「こんのガキがぁ! 急に暴れ出すんじゃねぇよぉ!」

「やだ! 嫌ぁあああ!」

 嫌だ嫌だと癇癪を起した子供のように泣き喚きながら、リナリアは暴れる。

 無感動の仮面を取っ払ってしまえば、彼女に残るのはあまりに脆く弱々しい素顔だった。辛いのは嫌だ、痛いのは嫌だ。そう言って泣きながら逃げることしかできない子供の素顔。それは彼女が必死に隠してきたもの。自分の強さを偽るため、被ってきた仮面は剥がれ落ち、情けない素顔があらわになる。

 わんわん泣きながら全身を使って暴れて男の腕を振り払おうとするリナリア。ぶちりぶちりとその灰色の髪の毛が抜ける。

 ついに煮えを切らした男がリナリアを近くにあったダンボールに押し付ける。

「暴れんじゃねぇよくそが!」

 男はリナリアの手首を握り固定させ、その小さな子供の手のひらに懐から取り出したナイフを突き立てた。ダンボールごと貫通した刃はリナリアの手を磔にする。

「ああああああああああああああああ!!」

 自分の手を鋭い刃が貫通した痛みにリナリアは血の混じったような苦痛の叫びをあげる。その声すら鬱陶しいと思ったのか、男はうるせぇ、と怒鳴りながらリナリアの顔面を蹴りつけた。何度も何度も執拗に、年端もいかない女の子の顔を蹴りつける。その傷痕すらリナリアの顔には残らない。しかし刃の刺さったままの手の傷は治らない。その痛みに耐えかねて、リナリアは声をあげるが、その度に男に蹴りつけられ、最後には悲鳴をあげる気力すらなくしたかのように大人しくなった。

「へ、それでいいんだよ。ガキが調子にのるんじゃねぇ」

 男は額の汗を拭いながら言った。リナリアはぐすんぐすんと止まってくれない涙を拭うこともせずに泣いていた。

「痛いよぉ。痛い……よ」

 その掠れるような声は、きっと誰にも届いていなかった。

「嫌だよう。戻りたくないよ。もう、もう……」

 その時だった。この部屋への唯一の入口である扉。大きな鉄板のような巨大な扉が金属同士がぶつかり合うような音と共にぐしゃりとへこんだ。同じ音が二度三度続き、最後には扉は見るも無残な姿になって吹き飛んだ。そうして開いた入口から入ってきたのはリナリアがよく知るあの人だった。

 その体は不様なまでに震えている。それを悟られまいと必死に拳を握りしめ、その鈍器のような瞳で睨みつけるようにして立つ男の姿。

 まるで怖がりな子供がなんとか恐怖に立ち向かおうとしているようで、その姿はお世辞にも格好いいとは言えないけれど、それでも彼はそこにいた。

「どうして……?」

 どうして、どうしてここにいるの。どうしてあなたが……。

 そんなリナリアの声に男は迷うことなく自分がここにいる意味を答えた。

「助けにきたぞ、リナリア」


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