それはまるで呪いのようで
それは愛生たちが第27研究所に向かう前のこと。秋風竜司はとある病院の病室に足を運んでいた。竜司はその生来の鋭い目つきを隠すこともなく、果物ナイフを手に林檎の皮を剥いていた。それを見ていたその病室の主が似合わないと笑う。
「お兄ちゃん、もう少し嬉しそうな顔をして剥いてよ」
「してる。これが俺の普通なんだ」
「嘘ばっか」
そう言って、彼女は笑った。その少女を一目見れば誰もが何らかの病を患っているとわかるだろう。華奢というのも優しい細すぎる体、そのまま透き通って無くなってしまいそうな白い肌。何より光の灯らない瞳が、彼女の症状の酷さを表しているようだった。
「ね、あたしうさぎさんがいいなぁ」
「子供か」
「子供だもん」
「そう言うなら自分で剥けよ」
「やだよ、刃物怖いし」
「子供め……」
「うん。子供だよ」
ぽつりぽつりと紡がれる兄妹の会話。竜司はふと彼女の腕に繋がれている点滴に目をやった。また増えたのかと、口にも顔にも出さずに落胆する。
「ねぇ、お兄ちゃん」
ベッドの上で、枕に顔をうずめるようにして少女は言う。それはどこか甘えたようなしぐさだった。その頭を撫でながら、竜司はなんだと返す。
「お医者さんがね、もう無理だって」
その言葉に一瞬だけ竜司の腕が止まる。しかしすぐにそれを悟られまいと平静を装う。本当は気張る必要はない。ここは個室病棟、他に見てる人間もいない。だけどそれでも、この弱々しい妹の前で兄は決して弱さを見せるわけにはいかなかった。
「そうか、やっぱりあいつじゃ駄目だったか」
「あいつなんて、酷いなぁ」
「一目見たときからわかってたよ、あいつじゃ無理だってな」
「一目でわかるものなの?」
「わかるさ」
「お兄ちゃんってエスパー?」
「お前もだろうが」
そうだった、と少女は笑う。
「……ね、また別の病院に行くの?」
「そうだろうな。すぐにでも用意する」
「……お金、かかるんじゃない?」
「ばーか。それはお前が心配することじゃない」
竜司は剥き終えた林檎を妹に差し出す。雑に剥かれていたそれを少女は喜んで口にした。
「ほどほどにな。飯食えなくなったら、俺が怒られるんだから」
「はーい」
「また子供みたいな返事を……」
「子供だもん」
そう言って林檎と不満で頬を膨らます少女を妹を見ながら、竜司はおもむろに立ち上がった。
「もう行っちゃうの?」
「ああ、今日は用事があるんだ。大事な用事だ」
大事なんだと、言い聞かせるように竜司は繰り返す。
「……次はいつ来れる?」
少女の顔にははっきりと寂しいと書いてあった。竜司は後ろめたい感情を押し込めて、告げる。
「明日だ。明日また来る」
「そんなすぐでいいの?」
「いい。明日は何もない」
また嬉しそうな顔する。竜司は崩れそうになる顔を必死で取り繕い、病室をあとにした。
扉を閉める時、妹がまた明日と言って手を振っていた。
病院から少し離れたところに竜司は仲間を待たせていた。早足でそこにつくと、仲間の一人が竜司に駆け寄る。
「竜司さん、そろそろ時間が……」
「わかっている。車を出せ」
止めてあった黒いバンに乗り込む。仲間の内の背の高い坊主の男が運転していた。動き出す車内にて竜司は思考する。
明日と言った。明日また来ると。そのためには今日を生き抜かなくてはいけない。
「……結局これだけか」
車内にいるのは竜司を合わせて四人。たったの四人。当初はチームの全員で臨むはずだったこの計画だが、半月前の事件のせいで殆どのメンツが今も警察と病院の世話になっている。動けるのはこの人数のみ。あとは犬太郎もいたが、彼はもしもの時のために待機させてある。
竜司は苛立っていた。チームを乗っ取るという計画を潰され、そして今回の計画さえもあの男のせいで破綻しかかっている。
「大丈夫っすかね……」
仲間の一人が呟いた。大丈夫なわけがない、と竜司は怒鳴り散らしてやりたくなった。とてもじゃないが、この人数でできることではない。それでも、『奴』はやれと言った。そう言われた以上、竜司に逆らう術はない。やらなくてはならないのだ。
秋風竜司は戦わなければならない。生き残らなければならない。
繰り返す。
秋風竜司は生き残らなければならない。生き残らなければならない。生き残らなければならない。
竜司はまるで呪文のように、その言葉を繰り返すのだった。
++++++++++
その音に最初に気づいたのは愛生だった。採血が終わり、あとは血液検査をして結果を待つだけ、という時。外で聞いたことがあるような音がした。それは小さな音だったが、同時に空気を震わせるほど勢いのあるものだった。
「鋤崎さん、なんか変じゃありません?」
「んにゃ?」
鋤崎が気づいた様子はなかった。愛生は昔、帝の仕事を手伝っていたことがある。その時に身に着けた生き残る術の一つが周囲に対する注意力だった。何も人より五感が優れているわけでもない愛生だが、その注意力のおかげでこういう普通ならば気にしないような小さな音でもはっきり聞き取ることができた。ただ、今回に限ってはその注意力は余計なものだったかもしれない。鋤崎が気づかないような音なら自分の気にしすぎなのだろうと、そう思うことにした瞬間だった。
ごごごご、と空気が震える。それは先程のような小さな振動ではなく、圧倒的な速度と物量を持った音の波。その震えが届くと同時に愛生の耳に明らかな爆発音と思しき轟音が響いた。愛生と鋤崎は瞬間的に互いの顔を見やる。今回の轟音はさすがに鋤崎の耳にも届いたようで、その顔にははっきりと驚愕が現れていた。
「え? なになに、今の音」
混乱する鋤崎をよそに愛生は窓に駆け寄る。すると、轟音の正体はすぐに知れた。
「爆発です。向こうのビルが倒壊している!」
二つほど先の通りで、このビルよりもいくらか小さなビルが音をたてて崩れ落ちていた。しかもそれだけではない、パッと見るだけでもいくつもの建物が先のビルのように白い煙を上げて倒れかかっているのだ。そうしてこうしている内もまたどこかで聞いたことのある音が鳴る……。
「ラボラトリが攻撃を受けている……」
同時多発の爆撃テロだろうか。反超能力者団体か、宗教団体か、ラボラトリを敵視する団体を上げればきりがないが、多分その手の奴らの仕業だろう。
「ど、どうなってんのかな、これ」
愛生の隣に来た鋤崎が呟く。
「おそらくテロです。どこかの組織か団体だかが攻め込んできたんでしょう」
「でもでも、そんな敵地の真ん中に入れるものかい? ここはラボラトリにゃのだよ?」
「……抜け道なんて、いくらでもありますよ」
そうは言う愛生だったが、しかし内心抜け道の存在を否定していた。どれだけ世間から超能力者が蔑まれようが、過激派差別団体が闊歩しようが、このラボラトリだけは超能力者にとっては安全だったはずだ。そうでなければ三千万人以上の能力者たちがこんなところに閉じこもっているはずはないのだから。その神話が崩れたということだろうか……。
「ん、あそこって――」
思考を続ける愛生に鋤崎は告げた。
「36研究室のある方向じゃない……? あの建物は22研究室だし、あっちも……」
「狙いは研究施設なのか?」
しかしそれは早計かもしれない。単に目立つ場所を点々と狙っているだけかも。
「なんにしても、ここから避難した方がよさそうですね。確かこの近くの公園の地下ってシェルターになってましたよね? とりあえず外に出て、もしもの時はそこに逃げ込みましょう」
「そうだね。ここにとどまって爆発なんて洒落にならないのだよ」
少し落ち着きを取りもどしてきた鋤崎は残っていたコーヒーを飲み干した。
「じゃ、私は放送で避難を呼びかけるから、愛生ちゃんは誘導をお願い。それと、子供たちも岩波ちゃんが面倒みてると思うけど手伝ってあげて」
それじゃあ、とそれぞれの役割を確認してそれを遂行しようとした時、またしても音が鳴る。しかし今度のは爆発音のような震える轟音ではなく、けたたましい警報の音。愛生たちのいる第27研究所の警報が突如として鳴り響いたのだ。
「な、なんなのだよー! 次から次へとー!」
その畳み掛けるような音の強襲に鋤崎は今にも頭を抱えそうになっている。対して愛生は動じることなく冷静に現状を理解しようとしていた。爆発音の衝撃で警報が誤作動したと考えるのが妥当だが、そうではないのではないかという疑惑が愛生の頭の片隅に居座る。もしも、もしもこの警報が人の襲来を告げるものだとしたら……。
そして、次の瞬間に愛生の疑惑は確信へと変わる。
電気が落ちた。照明や様々な計測機器たちを動かしていた電力がたたれた。同時に警報も鳴りやんでしまう。といっても現在は昼間なので証明が消えてもたいした被害はない。せいぜい部屋が暗くなる程度。計測機器の方は被害があるかもしれないが、しかし今愛生が思うのはそんなことではない。この現象は明らかにおかしい、と愛生は驚きを隠せない。ラボラトリの電力は地下からの直接供給、核やその他の様々な物質によって構成された巨大なエネルギー炉がクモの糸のように張り巡らされ、ラボラトリ全体の電力をまかなっている。よって先程の爆発程度で駄目になるということはない。もし仮にそのエネルギー炉に被害が及んだとするならば、今頃、地区一つ吹き飛んでいてもおかしくないのだ。だからこのビルの電力を止めたいのであれば、このビルに続く地下のパイプラインを破壊し、電力の輸送経路を断つ、それが一番手っ取り早いやり方だった。他にも無数の手はあるが、そのどれにも共通していることは、どの方法であってもこのビルを直接狙わなくてはいけないことだった。
つまりそれは、このビルへの攻撃を意味する。
リナリアが危ない。この襲撃の意味はわからないが、何かの拍子にリナリアが傷つけられでもしたら……。そう考えた途端に冷静さを欠いた愛生は鋤崎といた部屋を飛び出した。
リナリアが傷つけられること、それは能力の露見を意味する。まさに最悪の事態といえよう。政府や世界の狙いが不明瞭な今、リナリアを世間の目に晒すことは控えるべきだ。ただ、この時の愛生はそこまで考えが回っていたわけでなく、ただリナリアが傷ついてしまうかもしれないという思いだけで駆け出していた。
後ろから鋤崎の声が聞こえた気がしたが、愛生は止まらない。廊下を出て、階段に向かう。エレベーターを待っている時間も惜しかった。階段にたどり着くと、愛生は走り幅跳びの要領で一気に段差を飛び降りる。それを繰り返し、三〇秒とかからず二階へ到着。
二階の様子は酷かったガラスは割られ、扉は砕かれ、なんのものかわからない破片があちこちに散らばっている。その一番奥、リナリアたちがいたはずの部屋に向かう。パステルカラーの派手な色をした青の壁は壁紙が所々剥がされている。おもちゃは散らかり、首のとれた人形が嫌に目についた。その部屋の隅、そこに彼女はいた。
「千歳!」
彼女の名前を呼び駆け寄る。すると閉じていた目をゆっくり開けて千歳は愛生を見る。
「あ、あおい……」
「千歳、大丈夫か。お前、怪我は……!」
取り乱す愛生の肩を掴んで千歳は大丈夫だと告げる。
「頭をぶつけただけです。少し痛みますがまあたんこぶ程度でしょう。血も出ていませんし私に心配はいりません。それよりも、子供たちが」
普段の千歳からは考えられないほど焦りと疲労を写した顔で千歳は子供が子供が、と口にする。
「なんだ、どうした。子供がどうしたんだ!」
「……攫われました」
苦悶の表情で千歳は告げる。
「リナリアちゃん。それと、子供の様子を見に来ていた岩波と言う方も一緒に……私は最後まで抵抗していて、突き飛ばされて頭を打って……」
そして気づいた時には目の前に愛生がいた、と千歳は言った。事態の深刻さを理解した愛生は詰まるような声で言葉を発する。
「どういうことなんだ。まさか政府がリナリアを連れ戻すために……」
「いえ、それはないと思います。ここを襲った相手は不良でしたから」
「不良?」
「はい。よくいるチームのような風貌をしていて、あれは明らかにラボラトリの一般生徒でしょう」
「一般生徒がなんで襲撃なんか……」
「わかりません。しかしただの不良にしては随分と手際はよかったと思います。私たちが爆発に気を取られている間に一気にここまで侵入して子供たちを袋に詰めて、大きな男がそれを担いで持っていきました。反抗しようとした岩波さんも、もう一人の不良に、残りの一人は私を突き飛ばしていきました」
爆発に紛れての侵入。とてもじゃないが偶然とは思えない。もしかすると最初から爆破は囮で本命はこちらだったのかもしれない。しかしそこまでしてこのビルに攻め込み子供を攫う理由が見当たらない。政府の関係者でもない不良グループがリナリアを狙うとも考えにくいし、そもそも彼らにここまでの爆撃を行う力があるのかどうかもわからない。そして千歳の言う手際の良さも気になる。きっと電源が落ちたのも、奴らの仕業。本来なら警報をダウンさせるためだったのだろう。何かの手違いで電源を切るのが遅れて、警報が鳴ってしまった。さりとてそれに慌てることなく応援が駆けつける前に退散する。チームの全員が場慣れしているか、よほど頭のいい統率者がいなければなしえないことだ。
わからないことだらけではあるが、ただ一つ確かなことはリナリアが今危険な状態にあることだ。
すくりと愛生は無言のまま立ち上がる。
「何をする気ですか?」
千歳が愛生を見上げながら言う。愛生は当然答える。
「リナリアを助けに行く。子供たちも一緒にだ」
それは愛生にとっては悩むまでもない決定事項だった。自然と体がそう動くのだ。
「千歳、お前の能力ならリナリアを攫っていった奴らの居場所を特定できるだろう。教えてくれ、今リナリアはどこにいるんだ」
「……それはできません」
その返答は愛生が予想だにしていなかったものだった。
「あなたに彼らの場所を教えたら、迷いもせずに向かうでしょう」
「当たり前だ、早くリナリアを助けないと……」
「駄目です。冷静に考えてください。この件は警察に任せるべきです」
がーっ、と頭に血が上るのを愛生は感じた。湧き上がる怒りと共に考えるよりも先に言葉が吐き出される。
「冷静に考えろだと? ふざけんな! お前こそ冷静になってみろよ。相手は素人だぞ? 警察が大勢で追いかけ回して、何かの拍子に人質が傷ついたらどうするんだ。もしそれがリナリアだったら、あいつの能力が知れてしまう。それは絶対に避けるべきことじゃないのかよ! 仮に無事に保護されたとしても、事情聴取の間に政府の役人がリナリアを連れ去ってしまわない可能性だってあるかもしれないんだ。あいつは極力国家権力や機関からは遠ざけるべきだ!」
「ですが今回の件はわからないことが多すぎる。爆撃といい襲撃といい、敵の全貌も不明です。危険すぎます」
「危険がなんだって言うんだ! あいつらが籠城でもしてくれたなら、僕の方が安全に侵入できる。帝さんと一緒に何度だってやってきた。たかが不良なんてすぐにでも……」
「何を言っているんですかあなたは!」
千歳の怒号。その迫力に愛生は一瞬たじろいだ。
「いいですか、愛生は無能力者なんです。なんの力も持たない正真正銘の一般人だ。例えどれだけ戦場を知っていようと、不良たち相手に圧勝しようと、相手に少しでも高フェーズの能力者がいたらそれだけであなたは死んでしまうのかもしれないのですよ!?」
「だけど――」
「サイコキネシスで体を止められたらどうするんですか、テレポーターに背後を取られたら? 帯電能力者の放つ雷撃を愛生は避けられるとでも言うんですか!?」
愛生は無能力者だ。強化系の能力すら持たない愛生の体はどれだけ鍛えようと人間の域は脱しない。銃弾よりも高速で打ち抜かれる雷撃を愛生が避けれる道理などありはしない。
無能力。その言葉が愛生の心を嫌に刺激する。でもそんなことは誰よりも愛生がよく知っていることだった。
「だけど、行かなきゃいけないんだ。今から帝さんや護堂さんに連絡しても間に合わない。僕が行かなきゃ、僕じゃなきゃ……」
「死ぬかもしれないとわかっていて行くんですか?」
「でも、僕しかいないんだ」
言い訳のように紡がれた言葉。その響きがよっぽど情けなかったのか、自分の言い分を聞こうとしない愛生に心底腹が立ったか、千歳はその端正な顔を崩して泣きだしてしまった。
「どうしてそんな風に……。ここにいた子供たちは、さっきまでここで笑っていたあの子たちは私の目の前で攫われたんですよ? その上愛生まで何かあったら、私はもう……」
彼女の痛みは痛いほど愛生にも伝わった。悔しかったのだろう、目の前で攫われる子供たち。それを助けられなかった自分。その辛さを愛生は痛いほど知っていた。だから逃げ出した。くるりと彼女に背を向け、部屋から出て行こうと歩き出す。もう彼女の涙を見ないように、その痛みに触れないように、自分の傷を開かぬように逃げ出した。どうすることもできないからと彼女の涙を拭わなかった。
背中から千歳が涙声で待ってくださいと叫んでいたが、愛生は止まらなかった。しかし次の一言で愛生の足はまるで釘で打ちつけられたかのごとく動かなくなった。
「まだ帝さんに憧れているんですか!?」
「……」
「まだ、あの人のようになりたいとでも思っているんですか?」
早く、早く動け。そう思っても、足はまるで動いてくれない。耳を塞ごうにも手すら動かないのだ。
「前にも言ったはずですよ。あなたはあの人のようにはなれない。帝さんは世界最強の能力者、対して愛生は最弱の烙印すら押されない無能力者だ。どれだけ努力しようとも、我王愛生は我王帝のようにはなれないんです」
愛生を責めるように千歳は続ける。
「確かに、両親も見知らぬ他人もみんなみんな潰されて死んでしまったあの瓦礫の山から自分を救い出してくれたあの人の姿はさぞ輝いて見えたことでしょう。あなたが焦がれる理由も十分だ。だけどあなたが帝さんの背中を追いかけるのはあまりにも不毛だ! それは徒労でしかない! それがわかったから、ここに戻って来たのではないんですか!? 始末屋なんてとっくにやめたのに、どうしてまだ戦おうとするんですか!?」
「わかってる。そんなことは……」
「わかっていてなお目指すんですか……? 届かないと知っていても、戦うと? それでは、あなたにとって我王帝は目標ではなく呪いのようではないですか――」
呪い。
それは言い得て妙だな、と愛生は場違いにも笑みをこぼした。
++++++++++
その日、気づくと自分は瓦礫の山の中にいた。父さんや母さんの姿は見えない。そもそも自分がいた場所は光すら届いていなかった。見えるはずもない。意識を失う直前に聞いた爆発音から、自分が置かれた状況をなんとなくだが察していた。ポタリ、と突然自分の顔に生暖かい何かが垂れた。舐めてみると、鉄の味がする。きっと上で誰かが潰されているのだろう。瓦礫の山の中にはいたものの奇跡的に自分の体は潰されてはいなかった。まるで最初から自分をいれるために作られたような空洞にすっぽりと収まっていたのだ。だけどそれで生きていたと喜ぶことはできなかった。すぐに息が苦しくなってきたのだ。自分のいるところまで空気が届いていない。何も通さない密閉空間は自分の命のカウントダウンを始めていた。もうじき死ぬのだろうと、幼い頭でも理解できた。怖くはなかった。ただ、もういいやという諦めだけが募って行く。
完全に死を受け入れようとしていた、その時だった。愛生の目に赤い夕陽の光が飛び込んだ。粉っぽい空気とともに吹き込んだ光はあまりに眩しくて……でもその光からは目を逸らさなかった。そこに彼女がいたからだ。
誰よりも威風堂々と、まるでその立ち姿が自身の全てを物語っているとでも言うように誇らしげに瓦礫の山に立つ女の姿。赤い光をバックに彼女はこちらに手を伸ばしてきた。
「掴め」
そう言った。それは懇願でも提案でもない、紛れもない命令だった。従え、という威圧を含んだ言葉だったのだ。続いて彼女は「諦めるな」と言った。「受け入れるな」とも。そして最後に「生きろ」と、そう言った。
「生きろ」
そう繰り返す。まるでそれが私の決定だと言わんばかりに、逆らうことは許さない。今ここで死ぬことを私は決して許さない。
あまりにも横暴で荒々しい救いの手。自分はそれを精一杯の力で掴んだ。
彼女こそ、在りし日の少年のヒーローだった。
++++++++++
覚えている。あの姿を、あのヒーローの姿を。助けてくれたこと、親類のいない自分を養子にして苗字までわけてくれたこと、全部、忘れるはずがない。
あの姿に憧れなかったと言えば嘘になる。彼女の背中を追いかけなかったはずもない。だからこそ、わかるのだ。それが決して届かぬ背中であることは、愛生は誰よりも知っていた。
そうだ、知っている。自分は知っているじゃないか。
僕の見ていたヒーローを。
そして、彼女の言うヒーローを。
打ち付けられたように固まった足が動いた。愛生が向かうのは部屋の出口ではない。千歳のもとだった。彼女の前に屈み。濡れた頬をなぞるように手を触れた。
「千歳の言う通りだよ。僕は帝さんみたいにはなれない。あの人のようには僕は決してなれない。でも、あいつは言ったんだ。リナリアは、こんな僕のことをヒーローだって言ったんだ」
――愛生は、リナリアのヒーローだ――
その言葉を覚えている。このどうしようもない自分に投げかけられたその言葉は、愛生にとって救いのようにも思えたのだ。
「僕は帝さんのようにはなれない。正義の味方にはなれない。だからせめて、あいつの味方でいてやりたい。リナリアのヒーローでいてやりたい。今ここで逃げだしたら、僕はもうあいつと一緒にはいれなくなってしまう」
脆弱な自分の心は、あの女の子を見捨てただけで簡単に壊れてしまうだろう。罪の重さに耐えきれず、簡単に。
だから助けなくてはいけない。生きるために守るために。愛生にはもう彼女を助け出す以外の道はないのだから。
千歳はじっと愛生を見つめていた。愛生も見つめ返す。目は逸らさない。そうすることで意志の固さを告げるようだった。逃げない。死なない。助けるんだ。守るんだ。口にしなくても、それは千歳に伝わったはずだった。
「行かせてあげればいいじゃないの」
見つめ合う二人に声をかけたのはいつのまにか部屋の入口にいた鋤崎だった。
「男がここまで言ったんだ。いい女ってのはそれを邪魔立てしたりはしないものだよん」
「ですが……」
「それに、そこまで心配だっていうんなら、眼鏡ちゃんの能力とやらで愛生ちゃんを全力でフォローしてあげればいいじゃないの。どうせ愛生ちゃん止まんないだろうし。今ここで喧嘩したままよりは格段に生存率も上がると思うんだけどなー」
「……」
千歳はしばらく黙って、はあああと長いため息を吐いた。何か言わなくては、と思った愛生の胸を彼女はとんっと押した。
「行ってきてください。そして帰ってきて。リナリアちゃんと二人で、必ず」
一瞬、呆けたあと、ぐっと拳を握りしめて、愛生は「ああ!」と力強く返事をした。そうして、別れの挨拶もなく走り出す。そんなものはいらなかった。言うべき言葉は
一つだけ。
ただいま。
それをリナリアと共に。




