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アナ=マリアの邂逅

「お久しぶりです愛生さん」

 と、壁のような男は扉を開けたまま固まって動けない愛生に対して深々と頭を下げた。その見事なまでのお辞儀は相手への敬意がはっきりと表れている。その敬意を向けられているのが自分だということに愛生は違和感を覚えざるを得ない。

「また見ない間に随分と大きくなられましたね」

 頭を上げた男はにっこりと笑いながらそう言った。傷だらけの顔は怖くないと言えば嘘になるが、その笑顔だけはまるで親戚の優しいおじさんのように穏やかだった。

「こちらこそお久しぶりです、護堂さん」

 男のそれほど綺麗には見えないだろうが、倣うようにして愛生もお辞儀を返す。護堂と呼ばれた男はまた嬉しそうに笑った。

 愛生はこの護堂という男を知っていた。護堂は帝の知り合いで、いわゆる商売仲間のようなものだ。愛生も何度か彼のお世話になっており、全く知らない仲ではなかった。なのでこの場に護堂がいることにあまり驚きはしなかったが、しかし護堂が続けざまに、

「お嬢もお久しぶりです」

 とリナリアにまで頭を下げだしたのに愛生はまた驚かされた。知っているのか、とリナリアに聞くとすぐに頷いた。

「帝に助けてもらった時、一緒にいた人」

 と、いうことはつまり、帝と同じように護堂もまたリナリアの恩人だということだ。ただそれ以上に愛生が気になったのは、リナリアの敵がどんなものなのかはわからないにせよ、あの帝が一人ではなく護堂まで連れてリナリアを救出したということだ。そのことについて思考を巡らせていると、ふと護堂が自分とリナリアを見て安心したように笑っているのが見えた。愛生の訝しげな視線に気づいたのか、彼はすいませんと笑いながら言った。

「ただ、帝さんの思惑は確かに当たったんだなと思いまして」

 そんなことを言ってから、護堂は二人に座るように促した。

 なんなんだろう、店長といい護堂さんといい。今日はみんなして思わせぶりなことを言う日なのだろうかと首を傾げながら愛生はまずリナリアを座らせ、その隣に自分も腰を下ろした。するとタイミングを見計らったかのようにいつの間にかいなくなっていた店長がいくつかのケーキとティーポットを持って戻ってきた。

「うん。どうやらまだ内緒話は始まっていないようだね」

 よかったよかったと、沢山のケーキを机に並べながら店長は呟く。

「好きなのを食べてくれ。そこの可愛いお嬢ちゃんも遠慮せずにね」

 ありがとうございますと愛生がお礼を言うと、店長は人懐っこい笑みを浮かべる。

「いいんだよ。君らは帝さんのお客さんだからね。礼は尽くさないと」

「ああ、それなんですけど」

 既に警戒を解いている愛生は先程から気になっていたことを店長に聞いた。

「店長さんは帝さんと知り合いなんですか……?」

 そうだよ、と彼は頷く。

「でも君が思っているような血生臭い繋がりではないよ。僕はあくまでただの超能力者だ。昔はラボラトリの外でパティシエをしていたんだが、世間での能力者の風当たりが強くなっていってね。働いていた店を首になり、それからはどこにも雇ってもらえなかった。そんな時、偶然あの人にケーキを食べてもらう機会があってね。その時彼女に言われたんだ。わざわざ誰かに雇ってもらう必要がどこにあるんだって。人の下につくのなら、尽くす価値のある奴の下にしろってさ」

 だから彼女に尽くすことにした。遠い記憶を辿るように、店長はとても懐かしそうな顔をしていた。

「この店はその時あてがわれたんだ。でなければこんな所に店を持ったりしない。ラボラトリの住人の半分は学生だからね。基本的に商売には向かない土地なのさ。ま、その希少性が功をそうしてうちは繁盛してるんだけど……それはいい。とにかくお二人ほど深い仲にないことは確かだよ。僕と帝さんの繋がりは、たまにこうして内緒話の場を提供することくらいさ」

 言いながら、店長は愛生とリナリアに紅茶をついだ。そして護道の紅茶をつぎなおすと立ち上がる。

「アッサムだ。僕はケーキ専門だから、あまり紅茶にはこだわらないんだけど、その中でも帝さんが一番美味しいと言ってくれたものだよ」

 それではごゆっくり、と仰々しくお辞儀をしてから店長は部屋をあとにした。

「それじゃあ、護堂さん」

 早速愛生は本題に入ろうとする。愛生の焦る気持ちを察してか、護堂はまあまあと窘める。

「そう急がずに。少々複雑な話でもありますので、まずはケーキでも。リナリア嬢はどのケーキが食べたいのですかな」

 護堂にそう言われたリナリアは、なんでもいいとそっけなく返した。

「そうですか。なら無難にショートケーキでよろしいかな? 愛生さんはモンブランなどどうですか。ここの一番人気はモンブランだそうですよ」

「確かにここのモンブランは美味しいですよ。でも今は――」

「ほう、食べたことが終わりで」

「ええ、この前千歳に一口貰って……じゃなくて!」

 愛生は自らの太ももを叩く。気持ちばかりが前に出ていることが自分でもよくわかった。せめて落ち着こうと深く息を吸い込んでから続ける。

「……複雑な事情だと言うのなら、まずは簡単に答えがでそうなことから聞きます。僕は帝さんに言われてここに来ました。なのにどうして、あなたがいるんですか」

 いや確かに目印だと言われた帽子を護堂は被っていた。赤いリボンのついた黒いハット。しかし明らかに女物であるその帽子が大柄な護堂の頭に入るはずもなく、そのモヒカンの上にちょこんと乗っかっているだけになり、何かとんでもなくシュールな見た目になっている。

 愛生の言わんとしたことがわかったのか、護堂は帽子を外しながら答えた。

「すみません。帝さんではなく私の方から連絡差し上げるべきでしたね。ろくに帰らず連絡もしない人なので、これでも気を回したのですが裏目だったようで。確かに帝さんの方から愛生さんに連絡が行きましたけれど、帝さんは一言も自分が行くとは言っていないのでは?」

 その通りだった。帝は一言も自分がそこにいるとは言っていなかった。そもそも帝自身がそこにいたのなら、目印を付ける必要はなかったはずだ。そのくらいの結論ならばすぐに思い至ってもいいはずなのに、そこまでに至らなかったのは、もしかしたら心のどこかで自分は帝さんに会えることを期待していたのかもしれない。と、愛生は考えた。きっと浮き足立っていたのだろうと。

「まあ私が行くとも彼女は言っていないでしょうから、愛生さんの責ではありませんよ。それと、この帽子はお預けしておきましょう。帝さんにそうするように言われましたゆえ」

 愛生は護堂から帽子を受け取る。これもまたナイフと同じ帝の私物。彼女が肌身離さぬパーツの一つだった。愛生と面識のある護堂にこれを持たせたということは、目印よりもこの件の重要性を表す意味の方が強いのだろう。これは、私が私を作るパーツを一つ預けるほどの件なのだと、彼女は言っているような気が愛生はした。

「わかりました。この帽子は僕が預かります。それで護堂さん。つまり帝さんの代理として護堂さんはここに来られたと」

 ええ、と頷く護堂。それを聞いて、愛生は頭が痛くなってきた。

 護堂はその手の業界では名の知れた戦闘屋だ。親子三代続く家業のようなものである。この手の業界では親子で戦闘屋や殺し屋などを営むことは非常に珍しい。大体の人間は子供を作る前に死ぬ。よしんば子供を作れたとしても、それはその戦闘屋にとって弱点になりかねない。だから、子供ができた戦闘屋も大体死ぬ。家族共々皆殺しだ。そんな過酷な世界で、護堂は三代にわたって戦闘屋を続けている家だ。それは強さの証明に他ならないだろう。強くなければ生き残れない。だからこそ護堂家の人間は強い。それは勿論、現当主である目の前の男にも言えること。帝ほどではないにせよ政府から直接依頼を受けることもある護堂。それほどの男を代理だけのために用意することのできる帝の力を再確認すると共に、そのデリカシーのなさにも驚愕する。こんなもの、有名な画家にお金を渡して写真を撮って来てほしいと依頼しているようなものだ。

 そう思うと途端に申し訳なくなった愛生は反射的に護道に頭を下げた。

「すいません。帝さんがまた無理を言ったようで……」

「いえいえそんなことはありませんよ」

「でも、護堂さんをこんなお使い程度の案件に駆り出すなんて」

「だから、大丈夫ですよ。そりゃ私は戦闘屋ですし、こんな依頼は初めてだ。しかしそれが帝さんの命令とあらば私は逆らいませんし、何より今回はあなたも関係している。少しでも恩人のためになるのなら、この程度」

 恩人のために、というその言葉に愛生は歯がゆさを感じた。

「忘れて下さい。それは昔のことでしょう?」

「忘れることはできません。護堂の家がこうして存命しているのも全てあなたのおかげだ」

 そんなことはない。自分は何もしていない。自分には何もできないのだから、僕のおかげなんてことはありえない。そう言いかけた言葉を愛生は飲み込む。いつもなら言っていただろう。弱々しく情けない言葉を恥ずかしげもなく。それを言わずに踏みとどまれたのは、きっと隣にリナリアがいたからだ。

 次に続く言葉を護堂は予想していたのか、何も続けなかった愛生を不思議そうに見つめていた。

「どうかしましたか、愛生さん」

「……いえ、なんでもないです。それより本題に入りましょう。護堂さんがここに来た理由ですが……やはり、リナリアの件なんですよね」

 護堂はこくりと頷いた。

「愛生さんの言う通り。今日はリナリア嬢の護衛の件の説明のためにここに来ました。当初は帝さんが自ら説明をするはずだったのですが、来られなくなってしまいまして、その代理としてリナリア嬢救出に少なからず参加したこの私が訪れた次第でして」

「そうそこです。僕が一番知りたいのはリナリアの敵が誰かということです。帝さんと護堂さんがタッグを組んでまで立ち向かった相手が誰なのか」

 まくしたてるような愛生に護堂は右手を前に突出しストップをかけた。

「待ってください。まずは愛生さんが今回の事情をどこまで知っているのかを確認させていただきたい。そうしないと、私もどこから話していいのやらわからなくなってしまいます」

「あ、ああそうですね。でも僕は本当に何も知りませんよ。帝さんが守れと言ったから、リナリアが誰かに狙われているということ。あとはリナリアがリカバリーのフェーズ7だということくらいで……」

「ふむ。ということはやはり、お嬢は何も話さなかったのですね」

 言いながら、護堂はちらりとリナリアを見る。普段の性格こそ穏やかな護道だが、やはり戦う人間。その視線は鋭く尖っている。しかしそんな視線に見やられてもリナリアは眉ひとつ動かさなかった。

 この不死身の少女にはそもそも恐怖などないのかもしれないなどと、愛生はふと考えた。

「ならば、一から説明しましょう」

 おほん、とわざとらしく咳払いをした護堂はポツリポツリと話し始めた。

「そもそも事の発端は帝さんがリナリア嬢の存在を知ったところから始まりました。愛生さんのことなので薄々感づいてはいるのでしょうが、リナリア嬢は正式に登録されている能力者ではありません。また、能力だけでなくその存在からしていないことになっていました。もちろん戸籍にも名前はありません。お嬢はとある研究所に監禁されていたのです」

「監禁、ですか」

「ええ。秘密裏に飼われていたのです。お嬢の能力は研究者から見れば都合のいいものでしたからね。そこで行われていたのは人権を鼻で笑うような非人道的な実験の数々。死なないというお嬢の力を利用したあまりにもめちゃくちゃな行為でした。それもそうでしょう。そもそも彼ら研究者から見ればリナリア嬢は人ではありませんでしたから。人権も人道も通用しない。私と帝さんは偶然にもリナリア嬢の存在を知りました。表世界も裏世界も網羅する帝さんだからこそ知り得た。それで、その……我々はリナリア嬢を助けてあげたいと、そんな風に思ってしまったんですよ」

 何故だか恥ずかしそうに護堂は俯く。

「この世界で生きるために、情などとうに捨てたつもりだったのですが。あまりの非情に失くしたものさえ蘇りまして。あの帝さんが柄にもなく怒っていましたよ」

「それで二人はリナリアを救出したと」

「いえ。すぐには動きませんでした。帝さんはそのつもりだったのですが、やはりリナリア嬢を取り巻く環境についても少し調べておきたくて。何も知らずに可哀そうだからと手を差し伸べるのも、それはそれで無責任ですからね。それでようやくお嬢の敵がわかったのです」

 愛生は首を傾げる。リナリアの敵は研究所の人間ではないのか、と。それを聞いた護堂は首を横に振った。

「違うのです。確かに研究所の奴らも敵です。しかしお嬢にはもっと大きな敵がいる。……我々はまず研究所の資金の流通を調べました。金の動きは人の動きと同義ですから、それでその研究所に多額の援助金が流れていることがわかりました。それも尋常ではない額です。一つ一つはあくまで少量ですが、それを何度も、つまり大金を小分けにして流していたのです。その額からして、これは国が絡んでいると帝さんは踏みました。確かにその通り研究所に流れていた金は国家予算クラス。そう考えるのが妥当ですし、実際その通りでした。政府の流通を調べれば一発。表向きは地方援助金、道路舗装などと銘打った少量の資金が度々流されていました。そのパターンは完全にその研究室の流通の流れと一致します」

「そんな! それが本当なら……!」

 リナリアを利用した実験に政府も絡んでいたとするならば、リナリアの敵は政府。国そのものではないかと、愛生は驚きと同時に震えを感じた。

「まだ驚くところではありませんよ」

 と、護堂は険しい顔をして言った。

「まだ、何かあるっていうんですか」

「あります。考えても見てください。フェーズ7の存在を隠蔽することのデメリットを」

 護堂に言われ、愛生は思考を巡らす。フェーズ7隠蔽のデメリット。それは勿論、その存在が露見した後のことだろう。フェーズ7などというとんでもない存在を隠していたとなると、政府への批判は避けられない。国民の信頼を大きく損なうことになる。それも国家が傾きかねないほどに。

 その愛生の答えを護堂は違うと突っぱねた。

「確かにそれもあります。しかしもっと問題なのは諸外国です。フェーズ7一人で国一つの力を持つと言われるほど、そんな存在を隠していたとなれば各国から批判は必須。それは無断で核兵器を大量に所持しているようなものです。いえ、むしろそれを発射したに等しいかもしれません。最悪戦争に発展する恐れもあります」

「世界大戦ですか……。ということは、そのリスクを負うほどのメリットがリナリアには……?」

「それもあるでしょう。実際そうなのでしょうしね。しかし、愛生さん。リナリア嬢の監禁されていた研究所は日本のものではありますが、その場所は海外、それもロシアだったんです」

「ロシア? ロシアに日本の研究所があったって言うんですか?」

「これがアメリカだというのならまた違った可能性も考えられたのですが、ロシアだというのなら話は別です。あの国と日本は二〇年前にほぼ国交断絶状態になったはずです。しかしそこに日本の研究所は存在し、つい最近、我々がお嬢を奪取するまではきちんと稼働いていました」

「表では国交断絶のふりをして、ロシアと日本が秘密裏に手を組んでいたということですか。いやでも、そんなことあり得るんですか。リナリアは二〇年前には生まれていませんし、あの事件は本物でしょう。切れた糸は元に戻りませんよ。国と国の縁も同じようなものなんじゃ……」

「そうでしょう。その通り。そう簡単にロシアと日本が手を組むはずがない」

 しかし、と護堂は若干息を荒くして続ける。

「この二国が手を組まざるを得ないとしたら? 日本の技術をロシアの国土に置くということで、過去の過失を忘れ去るほどのメリットが生まれるとしたら?」

「なら、そのメリットはいったい……」

「残念ながらこれは単なる推測です。しかし確実に言えることは、ロシアに研究所があった以上、お嬢の存在はロシアも知っていたということです。いえロシアだけではない。我々が掴んだ金の流れはごく一部です。他にも世界各国がこぞってあの研究所に金を流していたことでしょう」

「何を言っているんですか護堂さん!」

 思わず、愛生は声を荒げた。彼の言うことが確かなら、それでは――

「それでは、世界はリナリアの存在を知っていたということになる。だとしたら、だけど……そんなこと」

「しかしそれで歯車は噛み合うのです。世界がお嬢の存在を知っていたのなら、世界大戦という最悪のリスクが回避され、さらにそこに新たな利益も生まれる。世界中の国々が金を出し合うほどの何かがリナリア嬢にはあるのだという何よりの証拠だ。リスクと利益の天秤が、釣り合うどころか利益に傾く」

 護堂の言葉に愛生の頭はとっくに納得していたが、しかし心が否定する。そんなことはありえない。ありえないでくれと泣いているようだ。何故なら、そうだとしたリナリアの敵は……。

「勿論、これは我々の想像、推測の入り混じった見解です。帝さんでさえ、まだ世界がそこまでしてリナリア嬢を欲しがる理由もわからない。しかし最終的に我々が出した結論は、リナリア嬢の敵は世界そのものだということです。いいですか愛生さん、帝さんはあなたに世界と戦えと言っているんです」

 リナリアの敵は世界だという。世界が寄ってたかって一人の女の子の自由や感情や、そのほかの全てを奪いそれをよしとする。その図は途方もなく滑稽で、だからこそ自分程度では触れてはならないことのような気が愛生はした。世界中がこの小さな女の子に踊らされていると考えると、呆れを通り越して笑えてくる。それと同時に震えも感じた。それは怒りによるものではない、恐怖だ。

 怖い、怖い、怖い、怖い。

 愛生は怖気づいたのだ。リナリアの敵に、世界という途方もなく大きな相手に。

 昨日の夜には挫折した。もう自分にはこの子は守れないと思った。だけれど、次の朝には決心がついた。誰にも話さなかった。きっと自分にさえこれ以上語ることはない。それでも誓った。リナリアを守ろう、この子を守ろう。自分はきっと、ヒーローにはなれないけれど――――

 その誓いがたった今崩れ去った。弱い、情けない。そう自分を責めるも、状況は変わらない。今朝立てたはずの誓いすら守れない情けない男はずっと自分の中にいるのだ。消え去ってはくれない。

 一人震える愛生に護堂は冗談見たく優しい口調で語りかけた。

「帝さんはあなたなら適任だと思い、リナリア嬢を預けた。しかし正直な話、私はあなたを巻き込むことに反対だ。たった数年とはいえ、世にも名高き始末屋の右腕として活躍していたあなただ、きっと世界相手にも渡り合えるでしょうよ。しかし今のあなたは引退した身、愛生さんの今の生活、日常を侵害するのは忍びない。…………いえ、これは建前だ。私はただ、もっと単純に、あなたにこれ以上戦ってほしくない。我王愛生はこれ以上傷つくべきではないと考えます」

 この件から手をひけ、全てを忘れて日常に戻れと、護堂は言った。

 なんて甘い言葉だろうと、愛生は思う。揺らいでしまう。今すぐにでも逃げ出したかった自分の心が意思とは関係なく頷くのがわかった。体だけは必至で抵抗するが、我王愛生の弱い心は逃げよう逃げようと言っていた。

 そうですね、世界なんて相手できるとも思えないし、痛いのも辛いのも苦しいのも嫌いだから、僕はこの小さな女の子を放って日常に帰ります。明日からまたただの落ちこぼれとしてまあまあ楽しく生きていくことにします。

 そう言って逃げ出したい。それだけで自分はきっと随分楽になるだろう。例え今ここで逃げで出しても誰も愛生を責めることはしないはずだ。千歳は最善の選択だと言うだろうし、帝はきっと何も言わない。何も変わらない。日常に戻るだけ、あの退屈な日々こそ自分が望んだ幸福なのだから。リナリアを見捨てるだけで、愛生は幸せになれるのだ。

 愛生は自分の隣にいる少女に目をやった。思えばこの部屋に入ってから初めて彼女を見る。無意識の内に避けていたのかもしれない。彼女はその小さな手でフォークを動かし、ケーキを食べていた。聞いていないというわけではないだろうが。まるでこちらの話に興味がないようだった。むしろ聞かずとも結果は同じだとでも言うように……。

 愛生の視線に気づいたリナリアが愛生を見る。二人の視線が重なる。リナリアは何故愛生が自分を見ているのかわからないのか、それともその時の愛生がよっぽど酷い顔をしていたのか、きょとんと首を傾げてしまう。

 どうしてだろうか、彼女の物言わぬ視線が信頼を語っているように見えたのは。

 自分はここでこうしているだけで、きっとこの人は助けてくれる。何を言われても自分を見捨てはしないだろう。そう信じているように思えたのだ。

 愛生は、リナリアのヒーローだ――――

 自分を信じ、全てを預けてくれている少女の言葉。それが今ではこんなにも重い。重く、重くのしかかった彼女の言葉が愛生の背中を押しつぶそうとしているようだ。

 やめろ。やめてくれ。そんな目で見るな。僕には無理だ。僕では君を守れない。だってそうだろう、世界だぞ。そんな途方もなく大きなものに立ち向かって勝てるはずがないんだ。立ち向かう勇気だってないのだから。これは僕なんかが関わっちゃいけないことなんだ。このまま君を見捨てるだけで僕は戻れるんだ、逃げられるんだ。だったら何を迷っているんだ。我王愛生は弱い人間だ。情けない男だ。受け入れろ。受け入れろ。僕には無理だ。逃げればいい。弱く情けない男はここで逃げるべきなんだ。受け入れろ。受け入れろ。受け入れろ。受け入れろ。受け入れろ受け入れろ受け入れろ――――

「それは、できない……!」

 震える声で絞り出したのは愛生自身思ってもみなかった言葉だった。

「リナリアを見捨てるなんて、僕にはできない」

 全身から汗が吹き出す。額を流れるそれを拭おうとした手を見て、愛生は今自分が驚く程震えているのがわかった。

 弱く、情けない。だけどそんなこと自分はずっと昔から知っていた。他ならぬ愛生は誰よりも自身の弱さを受け入れていた。

「別に見捨てるわけじゃない。あなたが手を引くのなら、私が責任を持ってお嬢をお守りします」

 それはなんて素晴らしい提案なのだろう。護堂ならば愛生よりも遥かに護衛として優れている。しかしそれでも、

「すいません。そういうことじゃないんです」

 愛生はその言葉を否定した。愛生は怖かった。自分をヒーローだと言ってくれたこの女の子に失望されることが、ようやく見えてきた信頼のような光が消えてしまうことが怖かった。だって、それだけでこの小さな少女は壊れてしまいそうだったから。壊れて崩れて、死んでしまいそうだったから。その危うさが怖かった。世界なんかよりもよっぽど怖い。

「み、帝さんは僕にこの子を守れと言った。あなたではなく僕が言われた。だから守らなくちゃいけないんです……」

 声は体以上に震えていた。もしかしたら自分は泣いているのかもしれないと愛生は思った。情けない。この期に及んでまだ震えている。まだ怖がっている。これだけ息巻いても逃げ出したいと思う気持ちはなくなってくれないし、心は嫌だと泣き続ける。

 不意に震える愛生の手にリナリアの手が重なった。まるで縋るように愛生はその手を握り返す。小さな手。愛生が力を入れればすぐにでも壊れてしまいそうで……。

 こんな子の手を突き放そうとしていたのかと思うと、愛生は自分の醜さに吐きそうになった。

 リナリアに悟られないように愛生は彼女を盗み見た。彼女はいつものように無表情。その眼は何も語らない。愛生はただ、リナリアが何を思っているのかだけが気になった。

 愛生の拙い覚悟を聞いた護堂はどうしてだか安心したような顔をしていた。

「わかりました。そこまで言うのなら止めるわけがありません。私はせめて愛生さんの力になりましょう」

 そう言って、護堂は小さな黒い鞄を取り出した。いや小さいわけではない。机に置かれて愛生は初めてわかったが、それは一般的な鞄と大きさは変わらない。ただ護堂が持っていたから小さく見えただけだ。護堂はそれを嫌なくらい丁寧に開ける。中に入っていたのは赤いファイル。それには何かの書類と思われるいくつかの紙が挟まってた。

「まずはこれらをお渡ししておきます」

 そう言って護堂はそのファイルを差し出した。それを受け取ると、愛生はすぐにその中身を確認する。

「これって、リナリアのラボラトリの住民票? 戸籍の写しまで」

 それらの紙を流し見しただけで愛生にはそれがなんであるか理解できた。これらはつまりリナリアが存在しているという証拠だ。

「全て私が偽造して作ったものです」

 照れくさそうに護堂は言った。その本職こそ戦闘屋である護堂だが、こういう細かい作業も得意だった。明らかに肉体派な見た目をしているが、その実彼は非常に器用な男なのだ。護堂いわく情報戦もまた戦闘の一つだそうだ。それはその通りだと愛生も思うが、しかし片方だけならともかく肉体戦も情報戦もトップクラスの実力を誇る人間などそうそういない。しかしそんな彼の才能も帝に言わせれば「便利な男だ」なのだからいたたまれない。この人は本当に苦労人だよなぁ、と思いつつ書類に目を通していく愛生。さっきまで滅茶苦茶だった愛生の精神が護堂の完璧な仕事を見ることで冷静さを取り戻していく。

「相変わらず凄いですよね。保険証に超能力詳細まで完璧……あ、能力はフェーズ5の自己回復リカバリーにしてあるんですね」

 勿論フェーズ7と書くわけにもいかないので、当然のことだろう。自己回復。常時発動型。破れた血管を瞬時に再生し、切れた皮膚を徐々にだが塞ぐ程度の力。外傷だけでなく内部の異常にも働き、抗ウイルス性も持ち合わせる等々、様々な情報が箇条書きで書き連なる中、補足の欄に少し長い文章が書かれていた。

 極めて優秀な能力だが、制御が難しく、過去に何度も異常回復の影響で自律神経系に問題をきたしている。そのため自身の能力との折り合いが付けられず精神的にも不安定な状態になり、それがまた能力暴走の原因となる悪循環を引き起こしており、通常の学業課程をこなすのは困難と判断。現在は特別区域内に住む親戚と二人で暮らし、自宅学習中である。

 また上手い文句を考えたものだと愛生は感心した。戸籍の写しを見れば確かに愛生の親戚、はとこという非常に微妙な位置にリナリアの名前は刻まれていた。愛生の両親はもう死んでしまったし、親戚もいないのでいくら水増ししても愛生以外に迷惑がかかることはない。戸籍上だけでもリナリアが昔自分が名乗っていたものと同じ苗字を持つことに少しこそばゆい感覚を覚えたが、それは顔に出さないように話を続ける。

「これってつまり存在しないとされたリナリアを存在することにするための偽装ですよね」

「はい。その通りです」

「でもそこいらの不法入国者じゃあるまいし、それがリナリアであれば政府はすぐにでも気づいてしまうんじゃないんですか? 灰色の髪の幼女なんて中々いませんし、証明写真だけですぐに偽造がばれてしまうんじゃ」

「それでいいんですよ。この場合政府の全てを騙す必要はありません。あくまでリナリア嬢を知らない一般層を騙せればそれで十分なんです。もし政府が偽造を追及しても、そうした場合、ならこの子はどこから来たんだという疑問が必ず生まれる。そうなってしまえば政府は自ら尻尾を掴んでくれと言っているようなものでしょう。世界大戦の危険はないにしても、お嬢の存在はひた隠しにしなければならないことには変わりありませんから。こうするだけで政府は迂闊には動けない」

 なるほど、と愛生は頷く。守る対象であるリナリアを隠すのではなく、あえて公にすることでリナリアの存在を隠しておきたかった政府の動きを封じたのだ。

「幸いにもリナリア嬢の存在を知るのは政府のほんの一部だけだと昨日わかりましたから。警察とも癒着している様子はありませんでしたし」

 警察と聞いて、愛生はハッとした。今更になって気が付いた。どうして疑問に思わなかったのか。昨日の取り調べの際、警察は自分の素性を正確に調べていた。それならば、愛生と一緒にいたリナリアのことも調べられて当然のはずだ。そうなれば追及は避けられない。そこになんの疑問も抱かずに愛生は今までいたのだった。それだけ精神的にまいっていたということでもあるのだろう。

「もしかして護堂さん。昨日の取り調べの時、帰っていいよって言われたのも……」

「はい、私が警察の上層部に掛け合ったんです。あそこには昔馴染みもいましたから、スムーズに事は進みました。それにしたってリナリア嬢の戸籍等の細工がすんでいなかったら危なかったでしょうね。細工が終わったのもその日の午前中のことですから、正直焦りましたよ」

「すいません……護堂さんには迷惑ばかりかけて」

「なんのなんの。昨日のことはタイミングが悪かっただけですよ。帝さんも笑っていました。あいつも私が知らないところで面白いことをしているななんて言ってましたよ」

 そう言って護堂は豪快に笑う。愛生の不始末をまるで問題にしていないようだ。

「それにもっと私が早く細工を終わらせていれば焦ることもリナリア嬢をわざわざダンボールで送ることもなかったのですから」

「ああ、そういえばあのダンボールって、やっぱり帝さんの考えなんですか?」

「そりゃそうでしょう。世界的に見ても体が小さいこといいことに幼女をタンボールに詰めて輸送する人は帝さんくらいなものです。いやでも本当に、今でも失礼なことをしたと思っているんですよ」

 そう言って笑いながらリナリアに頭を下げる護堂。リナリアはケーキを頬張りながら、別に気にしてないと言う。それがどこまで本気で言っているのかはわからないが、多分この子なら本当に気にもしていないんだろうなと思うと、愛生はなんだかおかしくなってしまった。

「言い訳をするようですが、戸籍やその他の書類は早い段階で用意できたのです。しかしラボラトリの住民票に手間取りまして、それさえあれば我が物顔でラボラトリに入れたのですが、本当に申し訳ない」

「だから、気にしてないもん」

 少しだけ強い調子で言い返すリナリア。これ以上言われても困るということだろう。護堂も苦笑いをして、それだけだった。

「でも護堂さん。住民票がないからって、宅配便で郵送なんて本当に大丈夫だったんですか? どこかでばれてしまう可能性もあったりは」

「ないですね。お嬢が耐え切れず暴れ出したり、郵送中の事故でダンボールが破損したりしなければ露見することはなかったでしょう。ここだけの話、ラボラトリは人の出入りには非常に厳しいのですが、物の出入りは意外と緩いんですよ。最近ラボラトリ内で未成年の飲酒や喫煙が増えていると聞いたことがありませんか? ああいうのは今回のように荷物の中身を偽って送り届けられているんですよ。通常よりも断然高い価格で売りつけますから、売る側からしたらぼろ儲けでしょう」

 そういえば円藤たちもそういう違法なものに手を出していたな、と愛生は何気なく思い出した。関係のない話はここまでにしましょう、と護堂が切り上げる。

「これでリナリア嬢は現実に存在することになった。もう政府は大きくは動けない。仮に動いたとしても、その動きは誰にも知られないよう、ごく小さな秘密任務になるはずだ。愛生さんはその動きだけを撃退すればいい。そうすればお嬢を守り通せるでしょう」

 護堂に力強く言われて、愛生は思わず弱音を吐きそうになったが、なんとか押しとどめて頷いた。それを見て護堂は満足げな笑みを浮かべる。

「なんにせよ、我々がリナリア嬢の秘密を暴くまでの辛抱です。それはお嬢の悲願でもある」

「……そっか、やっぱりリナリアは自分がやられている実験の真意ってやつを知らなかったんだな」

 そうリナリアに問いかけると、彼女は何も言わず頷いた。愛生はまた少しだけ胸糞が悪くなる。この子は何もわからないままに監禁されていたのかと思うと、恐怖などではなく、単純な怒りも湧いてくるというものだった。

「では次は新住居の件なのですが」

 続けていった護堂に対して愛生は「へ?」と間抜けな返事を返した。

「し、新住居ってどういうことですか!?」

「今の住居の防犯性も中々高いですけれど、突破されるときは突破されてしまいますからな。もっと安全な場所へ移れと帝さんが。なに今の住居からそう離れてはいませんよ。ここもまたこの店と同じように帝さんの知り合いがやっているマンションでして、結構いいところです。すぐに気に入ると思います」

 そう言いながら、護堂はテキパキと出発する準備を整えている。それを見たリナリアは急いで今食べているケーキを頬張る。焦らなくていいと笑いながら愛生はリナリアの背中をさすった。

「でも護堂さん。引っ越すといっても僕らまだなんの準備もできていませんよ」

「それは大丈夫です。部屋の荷物はすでに乾が新居まで運んでいる頃でしょう」

「乾さんですか……」 

 それもまた愛生には聞き覚えのある名前。乾とは護堂と同じく帝に気に入られて彼と一緒によく無茶ぶりをされる可哀そうな人物だ。乾の職業は暗殺者だと聞いている。聞いていると言うのは、暗殺者ゆえなのか乾には素性というか私情がまったくないのだ。依頼を受ければ遂行する。ただそれだけの存在。愛生も何度か帝の命で乾と仕事を共にしたことがあるが、顔はおろか声さえ聞いたことがない。謎多き人物ではなく謎でしかない人物というのが愛生の印象だった。唯一乾のことをきちんと知っているであろう帝に乾が一体どういう人物なのか聞いてみたことがあるが、「あいつは忍者なんだ」とか本当なのか嘘なのかわからない答えしか返ってこなかった。「あいつはシャイだからなぁ、女だから」という何気ない一言で女性であることぐらいは知っていたのだが、それだけだった。

 しかし乾だからというわけではなく、暗殺者に引っ越しの荷物運びを頼むというのはどう考えてもおかしいと帝さんは気づかなかったのか、と愛生は考えるが、すぐにまあ多分わかっててやってるんだろうなという結論に達した。

「それでは私は車を取ってきます。少し離れた場所に止めたので少々時間がかかる。その間お二人はどうぞごゆっくり」

 そう言って、部屋を出る前に深々と頭を下げてから護堂は部屋をあとにした。部屋には愛生とリナリアだけが残された。

 はぁー、と愛生は気が抜けたかのように大きく息を吐く。緊張しっぱなしだった体が少しだけ緩む。どっと疲れた。早く新居とやらに行って休みたいなと思っていると、リナリアが愛生の腕をつんつんと突いた。

「どうした?」

「ん。愛生って実は凄いんだなって思ったの」

 意味が分からず首を傾げる愛生。リナリアは続ける。

「あの護堂が、愛生を恩人って言ってたから」

「ああそれのことか。確かに凄く見えるかもしれないけど、でもたいしたことじゃないんだ。僕が解決した小さな事件が巡り巡って護堂さんを助けただけなんだよ」

 だからこそ正直、愛生には護堂から向けられる敬意が嫌だった。慣れないし、年上の人物からそこまで丁重に扱われるとこちらは疲弊してしまう。

「でも、凄いものは凄いよ」

 そんなものかなぁと愛生は苦笑する。すると、リナリアが愛生の手元にあるモンブランを見ているのに気付いた。それをすっとリナリアの前に持っていく。彼女は食べてもいいのかと尋ねるように愛生の目を見た。まるで子犬のようだと思いながら、愛生はいいよと告げた。リナリアはフォークでケーキを大き目に切り口に運ぶ。彼女の小さな口はそれだけでいっぱいになり、頬が大きく膨らんだ。その姿がおかしくなって、愛生は笑いを堪えながら美味しいかと聞いた。リナリアは頷く。するとリナリアはまた大き目に切ったモンブランを今度は愛生に差し出した。

「食べて」

 と頬張ったケーキがまだ残る口で小さくそう言った。断ることもなかったので、愛生は素直に口をあーんと開ける。リナリアが少し慣れない手つきで愛生にケーキを食べさせた。

「美味しい?」

「うん。うまい」

 この前は千歳から貰ったモンブラン。同じもののはずなのに、今日のはこの前と少し違うように感じた。リナリアは満足したのか一度だけ頷くとまた黙々とケーキを自分の口に運び始めた。

 自分は与えられてばかりだなと、愛生はふとそんなことを思った。


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