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彼の見るヒーロー、彼女の知るヒーロー

 夜も更けた、午後八時過ぎ。愛生はリナリアと一緒に自分の部屋へと帰ってきた。電車に乗って、三〇分も掛かっていない道のりだったが、やっとかと愛生は疲れ果てた様子で安堵した。

 近隣住民からの通報によって駆けつけた警察によって真っ先に捕らえられた愛生は、ついさっきまで取り調べを受けていた。不良たち二〇人以上を素手で相手取った超能力を持たない少年のことを彼らは危険視していたようだった。その判断は正しいと愛生は思う。一方で、意味のない心配だとも思ったが。このまま永遠に続くかと思われた尋問じみた取り調べだったが、突然脈絡もなく釈放を言い渡され、現在に至る。同じように話を聞かれていたリナリアと一緒に帰ってきて、この時刻だった。

 家の中には誰もいない。ただいまを愛生は言わなかった。リナリアも黙ったまま。警察署からここにたどり着くまで、愛生とリナリアは何も話さなかった。それは千歳といる時のような安心感のあるものではなく、むしろ気まずさを大いに含んだものだった。

 愛生はリナリアになんて言ったらいいのかわからなかったのだ。あんな姿を見せておいて、この小さな女の子にかける言葉が見つからなかったのである。

 とにかく靴を脱いで部屋に上がった愛生は、ソファに腰かけた。

 どうして僕は釈放されたのだろう。そういえば花蓮ちゃんがいなかったけれど、先に帰ってしまったのかな。怖かったと言っていたようだし、あとで謝りにいかないと。今回のこと帝さんになんて言えばいいんだろう。また千歳に怒られそうだ。その時はなんて言って頭を下げようか。

 考えることはいっぱいあった。しかし、どれ一つとしてまともな答えがでてきそうにない。思考がまとまらない。疲れているのか。

 ふと横に目をやると、リナリアが隣に座っていた。いつの間に座ったのだろう。それすらわからないほど自分は疲弊しているのかと、愛生はため息を吐いた。

「……あのね、」

 突然、リナリアが口を開いた。

「あのね、あ――」

「今日はもう寝ちゃおうか」

 リナリアの言葉を遮るようにして愛生は言った。怖かったのだ。この少女に何かを責められるような気がして。別にリナリアに限った話ではない。今の愛生はたくさんの人から責められている気分だった。自分の愚かさを笑われているような気分だったから。

 もう今日は誰とも話したくない。

「色々あって、リナリアも疲れただろう? 僕も疲れた。今日はもう寝よう」

「あ、でも……」

「お風呂は、明日でいいだろう? 朝一で溜めるから、それで我慢してくれ。もう布団をひいて、今日も僕がソファで大丈夫だから。それで……」

「あ、あのね。でも言いたいことが――」

「うるさいな!」

 まだ寝たくないと言うリナリアに、愛生は声を荒げた。

「もういいから、黙って寝ろよ!」

 そう言って、リナリアを睨んだ。リナリアは愛生に向かって手を伸ばしていたようだった。愛生の怒鳴り声を受けて、その手はすぐに引っ込められた。

 彼女の小さな手は何を掴もうとしていたのだろう。

「…………」

 僕は何をやっているんだ。

 直後、愛生は大きな後悔に襲われた。こんな小さな女の子に大人気なく怒鳴り散らして睨みつけて、そんな自分がどうしようもなく恥ずかしくなった。

 リナリアは表情を変えなかったが、視線だけは愛生に固定されいた。ただそれは決して愛生を見る視線ではなかった。その目が自分を責めるようで、愛生はすぐに目を逸らした。

 怒り散らし、怒鳴り散らし、まるで獣のようだと愛生は自分を責めた。たくさんの人から責められている自分を更に責めた。それで気分が晴れることはない。ただどんよりとした雨雲のような重さが自分の背中にのしかかるだけだ。

 僕は……僕は…………――――

「怖いんだ」

 気づくと愛生は何かを話していた。それは無意識の内に発せられた言葉だった。

「お父さんとお母さんが死んだ、あのテロのこと。今でもはっきり覚えている。忘れるわけがない。忘れられない。気が付くと、みんな死んでたから。目を閉じて、開けた時にはもうみんな死んでしまっていた。本当に一瞬だったんだ。何もわからないままにみんな死んでしまって、僕だけが生き残った」

 怖いんだ、と愛生は繰り返した。

「また、あんなことが起こるんじゃないかと思うと、怖くてたまらなくなるんだ。気づいたらみんな死んじゃうんじゃないかって、次に眼を閉じたら、もう開くこともできなくなるんじゃないかって、僕はそんなどうしようもない妄想にいつも怯えている」

 自分は何を話しているんだろう。こんな小さな女の子に何を語っているのか。そんな風に思う自分を愛生はきちんと意識していたが、それでも止まらなかった。溢れ出る言葉はもう本人にすら止められない吐露となって、目の前の女の子に伝えられる。

「僕が不良たちの行いに過剰に反応したのはそのせいなんだ。結局、僕は怖がっていただけだった。ああいう『悪』や『暴力』が怖いから、必要以上に反応する。もうやめろと牙を向く。僕の怒りは恐怖から生まれるまやかしだ。虚勢と同じだよ。自分よりも体の大きな相手に向かって吠えて、必死に威嚇する犬と一緒だ。そこには正義も使命もない。僕はただ怖いから戦うんだ。戦って、暴れるんだ」

 正義でもなんでもない。自分はただの弱虫だと、愛生は本当はとっくの昔にわかっていた。

 いつだったか、千歳は愛生にどうして助けるのかと聞いた。何が目的なのかと。その時愛生はこう答えるべきだった。目的なんてない。僕はただ怖いだけだと。

 本当はわかっていたのに、そこから目を逸らしていた。逃げていた、そんな自分の弱さも愛生は嫌いだった。愛生は自分の弱さが許せなかった。一一年前の事件に今なお縛られ、そこから一歩も前に進んでいない自分が情けなかった。そして今、昨日知り合ったばかりの女の子に向かってこんな話をしている自分はもっと情けない。

 怖くて震える情けない自分。

 突きつけられる現実のむごたらしさに愛生はついに涙をこぼした。

 そうです。これが僕です。

 こんなみっともなくてみみっちいものが僕の正体です。

 失望されただろうか。情けないと笑われるだろうか。それがいい。そっちの方がいい。もう自分にこの子は守れない。こんな男に守れるものなどありはしない。

 だけれど、次にリナリアが発した言葉は愛生の想像と大きく違ったものだった。

「そっか、愛生はちゃんとわかってるんだ」

 わかっている? 愛生はその意味がわからなかった。そっか、そうだったんだとリナリアは一人何かに納得したようだ。

「わかってるんだよ。あなたはわかってる。自分の弱さとか、人の心の醜さとか、正義の虚しさとか、そういう誰もが受け止められない現実を愛生はちゃんと受け止めようとしてる。その意味をきちんとわかってるんだ。ねぇ、愛生はヒーローって知ってる?」

 突然リナリアから投げかけられた質問に愛生は何も返せなかった。ただその言葉だけは知っていた。瓦礫山に立つあの姿。あれこそまさにヒーローだと、愛生は信じてきた。だからこそ、次にリナリアが言ったことが愛生には信じられなかった。

「リナリアは知ってるよ。ヒーローっていうのはね、強い心と強い力で弱い人たちを助ける正義の味方なの。でもね、きっとヒーローってそれだけじゃないんだ。ヒーローは一通りじゃない。弱くても、みっともなくても情けなくても、格好悪くても、それでも誰かのために立ち上がる人だって同じヒーローだと、リナリアは思うの」

 リナリアの言うヒーローは、あまりに愛生の信じてきたヒーローの姿とかけ離れていた。離れているどころじゃない。それではまるで正反対だ。だって、愛生の信じるヒーローは格好良くて、頼りになる、誰よりも強い、強いヒーローなのだ。

 それでもリナリアは告げた。ヒーローは一つではないと。

「怖がりながら、震えながら、泣きながら、いつだって弱さと一緒に拳を握る人の姿を、きっとみんなヒーローだって言うはずだよ」

 すっと、リナリアは愛生に体を寄せた。そしてそのか細い腕を愛生の首に回し、ぎゅっと抱きしめた。精一杯の力でリナリアは愛生を強く抱きしめた。

「『悪』や『暴力』が怖いなんていうのはみんな同じことだよ。愛生だけが特別じゃない。むしろその『悪』に立ち向かえるだけ、愛生は他のみんなよりずっと凄いんだよ」

 愛生の耳元で囁かれるように語られるリナリアの声は今までの口調からは考えられないほどに優しげな響きに満ちていた。それが愛生の心をくすぐる。

「そんなことない」

 思わず、反射的に愛生は否定した。

「僕は怖がっているだけの臆病者だ。『悪』に立ち向かうのだって、恐怖の裏返しでしかない」

「リナリアはそうは思わないよ」

 愛生の否定をリナリアはあっさりと否定した。

「リナリアの目には愛生が震えながら立ち向かう、ヒーローに見えた」

 震えながらも立ち向かう。それは情けない、もう一つのヒーローの姿。

 僕が、ヒーロー……?

「それに、恐怖だなんだって理由を付けても。愛生があの女の人のために怒っていたことは事実だよ。あの人のために愛生は戦ったんだ」

 もし、もしあの時の自分に恐怖以外の何かがあったとしたら、それはあの女性のことだけではない。愛生の怒りにはリナリアのことだって含まれていたのだから。

 愛生を抱きしめるリナリアの腕に一層力が込められた。リナリアの頬が愛生の肩に乗る。

「帝さんの言う通りだ。愛生はリナリアのヒーローだ」

 その言葉がくすぐったくて、首筋に伝わる彼女の体温が温かくて、愛生は途端に体の力が抜けたような気がした。それと同時に何故だか口元も緩んでしまう。ふっと口から息が漏れた。

 どうしたの? とリナリアが愛生に尋ねた。

「……いや、リナリアは自分のことをリナリアって、名前で呼ぶんだなって思ってさ」

「変、かな」

「変じゃないよ。全然、変なんかじゃない」

「そうかな」

「うん。それに、初めて僕を名前で呼んでくれた」

 ありがとうと愛生はリナリアに言った。たくさんの意味を込めたありがとうだった。リナリアも繰り返すように愛生にありがとうと言った。

 おかしな会話だと思った。不思議と嫌ではなかった。

 こんなにも心地よいのは何故だろう。


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