プロローグ『冷たい世界』
彼女が我王愛生について知っていることはそれほど多くはなかった。
髪は淡い栗色。
天然パーマとまではいかないが、癖はかなり強い。
背はそれほど高くない。
細身。
活力のない眼をしている。
女の子のような可愛い顔をしているが、正真正銘の男の子。
高校生だ。何年生かまでは知らなかった。
……とまぁこんなもの。彼女が彼について知っていることはこの程度のものだった。殆ど外見の特徴だけというのが、彼女と彼に直接的な接点がないことを如実に表していた。
精々見かけたときに挨拶をする程度だ。つまりはご近所さん。それも最初に声をかけてくれたのは彼のようだった気がする。が、それも気がするというだけのことであり、彼女の中の薄ぼんやりとした記憶を辿っただけの確証のない事実でしかない。もしかしたら自分から先に声をかけた気がしないでもないが、それも本当かどうかは怪しいものだった。
なんにせよ、彼女と彼にはご近所さん以上の関係は存在していなかった。顔見知りと言うのもなんだか憚られるような、そんな関係。そんな関係で、それだけだったはずである。
それだけでも彼にとっては十分な理由だったということに夢井花蓮が気づくのはもう少しあとのことだ。
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例えば目の前に悪漢に襲われる少女がいたとして、その悪漢を退け、少女を救い出そうとする人は世の中にどれだけいるだろう。
答えはいない。
あまりに淡泊でいっそ清々しいほど単純なこの答えこそが正解だと、花蓮は知っていた。
世界は冷たい。今まさに悪漢に襲われながら、花蓮は恐怖に浸食されていく頭の片隅でそんなことを考えていた。
「なあ、頼むよ。俺ら今ちょー金なくて困ってんのよ。少しでいいからお金かしてくんない?」
「後で絶対返すからさ。なんなら俺が体で払ってもいいし」
下卑た笑い声をあげるのは、いかにも素行の悪そうな五人組だった。もちろん彼らは本気で花蓮からお金を借りようなどとは思っていない。貸してくれという言葉は彼らなりのジョーク、面白くもない冗談だ。彼らは花蓮からお金をせびろうとしているのだ。ありていに言ってしまえば、カツアゲという奴だ。
花蓮が不良たちに絡まれたのは、学校からの帰宅途中でのことだった。学校から寄り道もせずに帰ったと言うのに、彼女が住む学生マンションはもう一つ通りを向こうに行けばすぐだというのに、この様であった。
本当についていない。
女子中学生からお金を巻き上げようなんて、恥ずかしくないのかとも思ったが、それを口にする勇気もなく、そもそもそんなことを言って彼らの機嫌を損ねたら、それこそ一大事だ。それに、彼らにしてみれば、女子中学生の方がお金を巻き上げやすくていいのだろう。好都合でしか、ないのだろう。
花蓮は泣きたくなる気持ちを抑えて、せめて不良たちの前では気丈に振る舞おうと努力しているが、それもいつまで続くかわからなかった。
昼間とも夕方ともいえない微妙な時間帯だからか、あるいはただ単に人通りの少ない通りだからか、そこそこ開けた場所にも関わらず、あまり人はいなかった。時たま通りかかる人も不良に恐れをなして花蓮を助けようとしてくれる人はいなかった。
また一人、花蓮とは違う中学の男子が花蓮たちの前を通りかかったが、不良の一人にぎろりと睨まれると、歩くペースを不自然に早くして足早に去って行った。ただ、花蓮はそれを薄情だとは思わなかった。むしろ、賢明な判断だと思う。何も自ら危険に飛び込んでいくことはない。自分だって、もし同じような状況に出くわしたら、彼と同じように足早に去っていくだろう。何も見なかったことにして、一刻も早くその場から離れようとするだろう。例え今日の日の恐怖を、今まさに花蓮が感じている恐怖を覚えていようと、同じ恐怖から誰かを救ってあげたいとは思わない。その恐怖を味合わないためにも、今度はもっと早く逃げ出すだろう。そしてたいしてそれを気に病むこともなく、明日もまた元気に学校に向かうのだ。いつもの日常に戻るのだ。
でも、もしこの場に自分の友達が通りかかったらどうするのだろう。他人ではなく、いつも一緒にいる友達がだ。その子たちは助けてくれるのだろうか。
みんなは私を助けてくれるの?
そう花蓮は自分に問いかける。もしかしたら助けてくれないかもしれない。あの男の子と同じように何も見なかったことにして逃げてしまうかもしれない。それは少し寂しいことだけれど、仕方ないとも思った。やっぱり自分も、同じだろうから。友人だろうと赤の他人だろうと、率先して危険を冒したくない心は変わらないのだ。さすがにそれは薄情だと言われるかもしれないが、仕方ない。現実なんてそんなものだし、世界とはそういう風にできているのだ。
何故だろう、花蓮は幼い頃から世界は自分の思っている以上に冷たいものだという、漠然をした確信のようなものを持っていた。別に特別頭のよかった子供じゃなかったはずだ。おままごとや綺麗なビーズが好きだった、普通の女の子だった。普通の両親に普通の友達を持つ、普通の女の子だった。しかしだからこそ、自分は世界は冷たいのだと言う確信を幼いながらに持てたのかもしれないと、花蓮は思う。きっと、自分にはこれ以上の幸せなんて訪れないと悟っていたのだ。世界はこれ以上幸せにはならないと、温かかったものがやがて冷えて冷たくなるように、この世界は冷たくなる一方でしかないのだと。
いっそ世界を丸ごと電子レンジにでも突っ込んでしまえたらいいのだが、残念ながらそんな大きなレンジは存在しなかった。
誰か発明してくれたらいいのに、と花蓮は思う。
「聞いてんのかよぉ! おい!」
不良の一人が声を荒げる。気丈に振る舞うつもりだった花蓮だったが、突然大きな声で怒鳴られてしまっては怯えるしかなかった。声に合わせて体を震わす。そんな自分の姿を情けないと思い、少し笑いそうになって、そしてやっぱり泣きそうになりながら、花蓮は学校指定の鞄から財布を取り出す。が、震える手では中々取りだすことは難しく、手間取ってしまう。そうしている時に一人の不良と目があった。五人組の内の一人のようだったが、眼鏡の奥の鋭い瞳にははっきりと「つまらない」と書いてあった。どうやらあまり乗り気でないようだ。
だったら助けてくれればいいのに。
ほんの一瞬そんな風に思って、花蓮はすぐに後悔した。
助けてくれるはずがない。
人は誰かを助けないし、
人は誰も助けられないのだから。
世界はそういう風にできている。
私の世界はそういう風にできている。
ようやく取り出した財布をひったくるように不良は奪った。もたもたしてんじゃねぇよ、そう言われた気がした。
これでようやく終わるという安堵と、終わってしまうという悔しさを感じながら、彼女はとにかくこの場から逃げようとした。逃げることしか考えていなかった。そんな自分の弱さも嫌になったが、仕方ないと諦めた。
「どうしたの?」
そんな時、突然声をかけられた。不良の仲間かと思ったが、違った。知らない人? いやそれも違う。声をかけてきたのは花蓮も知っている人物だった。
我王愛生。
淡い栗色の癖っ毛。女の子みたいな顔をした、彼がそこにいた。まるで当たり前のように彼は花蓮に話しかけた。花蓮を囲む不良たちは明らかに彼を不審に思い、威嚇するように睨みつけるが、愛生には見えていないようだった。見て、いないようだった。
「夢井さん、だよね? どうしたの、この人たち。お友達には見えないんだけれど……」
はっきりいって、花蓮には彼が何をしているのかがわからなかった。彼が言っていることはわかったが、その言葉の意味までは彼女の頭に届いていなかった。
――この人は、この人は何をしているの?
ただその疑問だけが花蓮の頭を埋め尽くしていた。
実際、この時この少年は見るからに素行の悪そうな人物に囲まれた少女の身を案じて声をかけたのだが。そんなこと花蓮には思いつくはずもなかった。
だって世界は冷たいのだから。
誰かが誰かを助けるなんて、そんなことはありえない。
この街では、そんなことはあってはならない。
「何、こいつ。彼氏?」
不良の一人が花蓮に訊いた。突如現れた意味のわからない男に苛立ってか、男の視線は鋭かった。視線に怯えてしまった花蓮は彼氏じゃないと言おうにも上手く口が回らなかった。少年はそんな彼女の様子を不思議そうに見つめていた。
眼鏡をしてつまらなそうにしていた不良が舌打ちをした。面倒なことは嫌いだと言わんばかりである。その男が顎で不良たちに何か合図する。
「家帰って彼氏に慰めてもらえ、糞ガキぃ!」
げらげら笑いながら、不良の一人が花蓮の背中を蹴り飛ばした。小柄な花蓮の体は男の力に簡単に吹き飛ばされる。その方向には少年がいた。女の子の体重とはいえ、これだけの速さがあれば尻もちぐらいついてしまうだろう。不良はそれを狙っていた。倒れた少年を笑いながら帰ってやるつもりだったが、彼らの思惑通りにはいかなかった。
少年は花蓮の体を当然のように受け止めたのだ。
腰を落とすなり、構えを作るなりしていたわけでもなかった。直立のままの姿勢で、飛んでくる人間の体をよろめくこともなく受け止めたのだ。
ただ、残念ながらその現象の凄さに彼らは気づいていなかった。澄ました顔して彼女を受け止めて見せた少年を生意気だと思っただけだ。不良たちの中で無言のまま少年を暴行しようという結託が成された時――
――その時初めて、少年は不良たちを見た。
見た、ただそれだけだった、ただそれだけで彼らは鈍器で殴打されたかのような衝撃を受けた。鋭さとは無縁の鈍く、重い瞳が不良たちを捉えた。そこにいた少年はさっきまでの穏やかな顔ではない。もっともっと荒々しい、強い表情をしていた。
「うぜぇ」
少年が不良たちに発した言葉はそれだけだった。その言葉を最後に、彼らの世界は暗転する。