地球の卵
広大な砂漠の真ん中で、その老人は立ちすくんでいた。
ここにたどり着くまで、どれほどの時間を要しただろう。森をさまよい、山を駆け上り、海岸をなめるように歩き尽くし、サルから進化した「人」の形跡が少しでもあれば、石ころ一粒に至るまで調べ上げて来たのだ。
老人が探していたものは、考古学者として脚光を浴び始めたころ、古墳の奥から見つかった古文書による一つの言葉にあるものだった。「至宝の玉」と書かれ、永遠に手にすることができない物だと解釈される文章がしたためられていたのである。
その宝とは、「地球の卵」。
学者だけではなく、あらゆる方面の知識者たちの興味を誘ったが、一人として追求しようとする者はなかった。抽象的なものなど、探すこと自体、学識を覆す無駄な作業だとされていたからである。
しかし老人は、看過することが出来なかった。
なぜなら、古文書に書かれていた言葉が、以前、プロポーズしたときに言った妻への言葉と同じだったからである。
「君に〈地球の卵〉をプレゼントするよ」
老人――いや、当時青年だった男は、「地球の卵」を探すべく、新婚である家を飛び出したのであった。探し当てるまで絶対に帰らないと誓って……。
――あれから三十数年、最初に探し始めたこの砂漠に、老人はたどり着いていた。
砂漠といっても、ここは以前、遺跡とされていた石柱が乱立していたところだ。しかし近世の人間による仕業だと判明した途端、学者たちは誰も眼を向けなくなった場所だった。
元はといえば、発見したのがこの老人だったのである。一躍スターダムにのし上がるかと思いきや、学者としての人生が一転した苦い場所でもあった。
横たわった石柱に腰を下ろして、老人は溜息をついた。
「私の考えは間違っていたのか……」
そもそも「地球の卵」がどんなものか、最初から分かっていなかったのだ。ただ、その正体を知りたかっただけなのかもしれない。
――目の前を大きな象が横切っていく。象は振り向きざま、
「あんたも馬鹿だね……」
と、呟いていった。
不思議なもので、長年大自然の中をさまよっている内に、動物たちと会話が出来るようになっていた。動物だけではない。昆虫であれ植物であれ、「生」あるものであればいかなる相手でも会話が成立し始めたのだ。
象が去ると、今度はライオンの親子連れが近づいて来て言った。
「また来たのかい?」
「ああ、邪魔して悪いね。笑いたきゃ笑えばいい」
「笑ったりなんかしないさ。人間って馬鹿だね、と思うだけだよ」
「お前らは違うと言いたいのかね?」
「あたしらは大自然の中で生きているんだ。だからあんたが探しているものはよく知っているんだよ。人間だけじゃなく、この地球に生まれ立った生き物は、何が大事なのか見極めなきゃならないからね。人間みたいに欲ばかりかくと、大した一生は送れないものさ」
ライオンはそう言うと、子供たちを引き連れて、地平線へと消えて行った。
そんな動物たちの声は、いやというほど聞いてきた。といっても、彼らと話ができるようになったのはまだ最近である。地球上をさまよい歩き、原点であるこの地に帰って来てからのことだった。
老人はこれまで、何百、何千という生き物たちと話しをして来た。そして誰もが「地球の卵」の存在を知っているという。
「なぜだ。どうして私には見つけることができないんだ……」
――気がつけば、夜の暗闇が広がっていた。
老人はしわがれた手で砂をつかんだ。それを地面へ投げつけようとして――手の中で何かが動いた。
老人が手を開いてみると、握った砂の中から小さなサソリが顔を出した。
「おいおい、乱暴はやめてくださいよ!」
「いや、申し訳ない。気づかなかったんだ」
「さっきから見てるけど、かなり悩んでますね。僕が教えてあげましょうか?」
と、サソリが笑いながらいった。「卵かどうか知りませんが、生命の卵には違いありません。でも、永遠に手にすることはできない、って書いてあったんでしょ? だったらあれしかありませんよ。あなたも見たことがあるはずです」
サソリはそう言って空を見上げた。
排ガスもスモッグもない、晴れ渡った夜空。ネオンや車のライトによる「光害」もない。
真っ黒い空天の中に、都会では見ることが出来ない満天の星が輝いていた。
「――ほら、あれですよ」
サソリがそう言って首をねじ曲げた。
「どこを見ているんだ。地球の卵は地中に――」
「ほら、またありましたよ」
今度はサソリの首が逆に曲がった。
「どこを見てるんだね」
「真上に決まってるじゃないですか。うぁー、今度のはまたでかいや!」
その方向に老人は顔を向けていた。そして、その目に飛び込んできたのは、一閃の筋だった。暗闇の中に突然現われ、閃光をきらめかせながら一瞬のうちに流れ去るもの。
「あれ、分かりますよね」
と、サソリは笑った。「あなたも学者なら知っていると思うけど、流れ星というのは宇宙のゴミです。でも、そのゴミが集まって、新しい星が形成されますよね。大自然の中で一番美しく、無限で、そして誰にもその動きを止めることが出来ないもの。つまり、星の卵であり生命の卵。昔からあれだけは誰にも奪うことが出来ない宝だとされてきたんですよ」
老人は、無数の星が輝く天空を見つめていた。
また一つ、星が流れた。
「私が探していたものって……これだったのか……」
「我々がいる地球ではなくても、あの流れ星たちが、新しい地球を作ってくれるはずです。憎しみも、争いもない、平和な地球をね」
サソリは手の中からするっと飛び出すと、「宝というものは、あの流れ星じゃないはずです。この地球です。昔の人たちだって、星がきれいに見える地球を守りたかったはずですよ。もっとも、地球が汚れるなんてこと、誰も思っていなかったかもしれませんけどね」
サソリはそう言って、砂の中に消えて行った。
老人は空を見上げた。都会では見ることが出来ない、満天の星空である。しかし老人の目には、それがしだいにぼやけて来た。薄っすらと涙が浮かび始めたからだ。
「私は、今まで、何をやっていたんだ……」
サソリの言葉を聞いた老人は、三十数年の時間が帳消しにされたような気がした。そして、宝というものが、決して形あるものだけではないと、初めて悟ったのだった。
帰ろう、と老人は思った。日本から遠く離れた砂漠の真ん中で……。
電車やバスなど、昔とは全く違うものになっている。乗り方も分からなければ、行き着く先だって分からない。
何とか故郷の町に降り立った老人は、自分の家があるはずだった方向へと歩いて行った。
町並みはすっかり変わってしまった。道路も建物も、老人が子どものころSF漫画で見た情景とそっくりである。
しかし老人がたどり着いた三叉路は、見覚えのある坂と、その角に大きくそびえる楠で、彼の記憶を三十年前に遡らせた。
ここだ……。この坂を上りきった場所が、かつて老人が新居を構えた一角なのだ。
だが、三十年。跡形も残っていないだろうと思いながら歩いて行くと、……。その家だけが、過去の中に取り残されているかのように、ひっそりと存在していた。塀も、小さな門扉も、老人が旅に出たときと同じだった。
表札を確認する。――そこにあるのは、老人の名前だった。
そっと扉を開けてみて、老人は驚いた。庭一面に沈丁花の花が咲き誇っていたのである。
三十数年前、老人は「地球の卵だよ」と冗談めかして妻に贈った物が、この沈丁花、一株だった。僕と君を永遠につなぎとめるために、この花を庭一杯に咲かせるんだ、と言ったっけ。そして、増えた花の分だけ子どもや子孫を残すんだ。新しい地球を作るためにね、と……。
今、老人は花の中に埋もれている。その花の隙間から、庭に現われた妻らしき女性が見えて来た。髪は白髪まじりで、その姿も三十年の長さを感じさせるが、澄んだ瞳は当時のままだ。
「――お帰りなさい」
と、妻が言った。
その後ろから、小さな子どもが母親に手を引かれて顔を出した。そして、元気な声で言った。
「お帰り、おじいちゃん!」
幻か、と思った。いや、奇跡なのかもしれない。
「た……ただいま……」
と、老人は言った。
今まで待っていてくれた妻に。そして、生まれて来たことさえ知らなかった、自分の娘と孫に……。
おわり