第100話:狂気からの覚醒
苦しみながら研美の包囲網を抜け出すことに必死な如月を、カナレはリング下で食い入るように見つめていた。
その目は異様なまでに鋭く、獣が獲物を追うときのように光を帯びている。なのに、どこか濁り、深い底に沈殿した何かがくすむように揺れていた。焦点は如月を捉えたまま外れず、だがその奥には、まったく別の感情が蠢いている。
「さあ、如月選手、研美選手につかまり、必殺の鬼薊でねじ伏せます!こちらまで、その骨の軋む音が聞こえてくるようです!」
古田が興奮を隠さず実況する。しかし、その顔は明らかに険しかった。声だけが昂っているのに、頬の筋肉は強張り、喉の動きはどこかぎこちない。
まるで、リングとアリーナ全体が、別の“誰か”に掌の上で包まれ、握り潰されようとしているような。
観客のざわめきすら、外部から圧し掛かる見えない手に押しつぶされ、温度を失っていくようだった。古田の耳にも、その冷たい圧力がはっきりと触れていた。
(……嫌な空気だな……)
古田が心の中で小さくつぶやくほどに、それは確かに“存在”していた。
白熱したリング外で時折起こる現象。
意識の乖離。
自分ができないことを、目の前の誰かが当然のようにやってのける。技術、力量、精神力でも。
その差を真正面から突きつけられた瞬間、人間の意識はほんのわずかに軋み、外れ、否定された自身の像にめまいのような揺れを感じる。
まさに今、それがアリーナ全体に波紋のように広がっていた。研美の“存在そのもの”が、人の精神に静かに干渉し始めているかのように。
「……古田君!」
実況席のマイクのマスターカフをOFFにして、古田に声を掛けたのは山北だった。
山北はアリーナに渦巻く熱気以外の雑音を徹底して排除し、目の前の仕事にだけ意識を向けていた。
だからこそ、古田のわずかな乱れにも即座に気づいた。
「君の仕事をしっかりとやり遂げなさい!」
短く鋭い言葉だったが、それは楔のように古田の胸へと打ち込まれた。身体が一瞬震え、意識が強制的に引き戻される。
古田は、まるで落ちかけていた足場に手を掛け直すように、深く息を吸い込むと、カフをONにした。
プロの声色が、喉奥からゆっくりと戻ってくる。
「さて!如月選手はまだギフトを展開しておりません!これからどう動くのか!山北さん、研美選手の“怖さ”が……いや、“圧”が漂ってきますね!」
声は震えていない。
だが、その僅かな恐怖の混入が、かえって実況に異様なリアリティをもたらしていた。
山北は古田の言葉に合わせて的確に答えた。その時の顔はどこか落ち着いていて、どこか暖かかった。
「そうですね、研美選手は各団体でシングルベルトをコレクションのように集めていますが、その中でも最高の価値を持つベルトを如月選手は奪取できるかどうかが見ものですね」
二人の熱い実況が会場やテレビの前の視聴者の熱狂と交差しながら、その狂おしく熱い感情がリングで対峙する二人の戦いへ流れ込んでいく。
(……どうなってんだ!身動きひとつ取れねぇ……)
如月はどうにか研美の技から逃げ出す突破口を模索するが、全身の痛みに耐えながらの思考は重く鈍り、いつものように冷静な俯瞰に持ち込むことができない。
むしろ、痛みと圧力で揺らいだ意識の底から、別の何かが浮上してくる。暴走気味な思考の奔流が、より深く、より濃く染み込み始めていた。
(……なんかどうでもよくなってきたな……)
(……もぅいいよな……)
研美の締めの力が、均等に、冷酷に、如月の生命活動を断とうとしていく。骨の軋みと、筋繊維が悲鳴を上げる細い音が、脳内をゆっくりと侵食する。
視界の端が暗く欠けていき、色が抜け落ちるように世界が遠ざかる。
その薄れゆく意識の淵で、如月は控室で一之進と話したことを思い出し始めた。
あの静かな時間。
あの言葉。
あの視線。
闇に沈みかけた意識の中に、確かにそれが“戻ってくる”気配があった。
控室で如月は一之進の柏手で自分の中からあふれ出る邪気を祓われた。
その乾いた音は、身体ではなく“魂の膜”を叩いたような鋭さを持ち、如月の奥底に沈殿していた澱が、一瞬だけ霧散するような感覚をもたらした。
そんな二人が控室で短い時間ではあったが語り合う。
それは、研美のギフトに関することだった。
研美のギフト《一騎当千》は強い能力を伴う反面、全ギフトの中でも暴走しやすいという。
しかし、それはあくまでも力の暴走であり、精神までが支配されるものではないと一之進は語る。
強すぎる力が制御の限界を超えた時、筋力や反射、闘争本能が加速度的に膨れ上がる。
だが、そこに“人格の乗っ取り”や“精神汚染”の類は存在しない。あくまでも肉体の器に巣食うモノが荒れ狂うのだと。
一之進の声音には揺るぎがなかった。
闘技場の先達として、武の世界に生きてきた者だけが知る“線引き”を、如月にも伝えようとしているようだった。
如月はその話を聞きながら、小さくうなずくだけで特に言葉を発することはなかった。
興味がなかったわけではない。
むしろ、研美の力の根源であるギフトとは切り離した部分に何かがあると、如月は直感的に感じていた。
研美という存在の奥に、言葉にできない“異質な層”がある。ギフトでは説明できない、もっと深い、もっと暗い何かが根を張っているような。
だがその時は、ただ漠然とした違和感として胸の片隅に引っ掛かっていただけだった。
「如月君は元さんのことを覚えているかい?」
白魔洞窟に湧水を汲みに行った時、出会った老人、あのすべてを射抜くような視線と、すべてを知るような自然と同化したような悠然とした立ち姿を思い出していた。
寒気にも似た緊張が、記憶の底からふっと浮かび上がる。山そのものの呼吸が人の形をとったような、あの不可思議な存在感。
一之進は神妙な面持ちで語り始めた。
その声音は静かだったが、語尾に宿る重さは、過去の恐怖を今もなお思い出させるほど深かった。
研美がギフトに覚醒してから、その力は日を追うごとに強くなっていった。
それは、研美自身の精神を食らいつくすほどの勢いで、徐々に研美の精神力だけでは押さえつけられなくなるほどにまでなった。
本来おおらかで、勝負の場でも相手の気持ちになる研美。
しかし、徐々に精神の奥底から何かが牙をむきだし、対戦相手に襲い掛かる。
必要以上の追撃、まるで自分の力を誇示するかのような攻め。
その姿は、研美という人間が“剥がれ”、その奥に潜む獣が表層に浮かび上がってきたかのようだった。
相手を倒すのではなく、支配し、圧し折り、黙らせようとする強烈な敵意がむき出しになっていた。
しかし、それは試合の範疇での出来事としてあるような場面ではあったが、娘の変わりように一之進は心を痛めていた。
だが、一之進もそんな状況を咎めることができなかった。
咎めようにも、自分の精神力で押さえつければ、研美自身がさらに暴走してしまう様な予感があった。
止めようとした瞬間、その暴走に自ら火をくべてしまう感覚があったという。理不尽なまでに膨張する“何か”が、研美の中でうごめいていた。
親として、勝負師として、神事における最高位の精神力を持つものとして感じていた。
明らかに研美の中に何か得体のしれないものが巣食っていることを。
その“気配”だけで、人の魂を削るような、あの異質な圧。ギフトの単なる暴走では説明できない何か。研美という器の奥で蠢き、主の理性を噛み砕こうとする影のような存在。
一之進は、それを正面から見てしまった唯一の者であり、唯一それを恐れ続けた父親でもあった。
そんな自分が情けなかった。大相撲の最高位である横綱が自分の娘すら救えないのかと。
その言葉は、一之進の胸を掘り抜くような苦悶の核だった。
土俵では誰よりも強く、誰よりも尊ばれてきた存在。横綱は力の象徴であり、品格の象徴でもあり、また調和の象徴でもある。
土俵に上がれば、相手の呼吸、心の揺れ、勝負の流れも読めた。深く“人の気”を理解し、制して、受け止めてきた。
――しかし。
娘の中で暴れ狂う“何か”には指一本触れることも叶わない。押し留めるどころか、その存在に近づくことすら許されないような、底知れぬ拒絶を感じた。
そして悲劇は起こった。
Queen Beeにおける最大最悪の惨劇、研美との試合で起きた痛ましい事故によるミチルの頸椎負傷。
あの夜、アリーナを包んだ沈黙はいま思い返しても胸を刺す。あまりに唐突で、理不尽な、“起こるはずのなかった”出来事。
リングの上に撒き散らされたのは血ではなく、研美という人間の均衡が崩れ落ちた証だった。
これ以上娘がリングの上で悪鬼羅刹となっていく姿を見ることができないと悟った一之進は、すがる思いで各所を回った。
相撲協会から、ギフト保持者の登録・使用許可を管轄する能力競技管理省。ギフト能力を研究する機関ネメシスノイ。
しかし、どこでもよい答えを得ることはできなかった。
机上の理論やデータは並べられるが、“研美の暴走”という事象はその枠に収まらず、誰も明確な処置を提示できない。
最後の頼みの綱でもある光磨殿の女官にも、ヒントとなることさえ得ることができなかった。
神事に最も近い職である彼女たちでさえ、研美の内側で蠢く“何か”に対して言葉を濁した。
途方に暮れているとき、元が現れて救いの手を差し伸べてくれた。
『ワシが何とかしよう……』と。
元の眼差しは、すべてを知り、すべてを見透かし、それでもなお揺らぎがなかった。
その言葉は軽く聞こえたが、同時に“本当に成し得る者の気配”を帯びていた。
そして、なぜか自然と涙があふれ出し止まらなかった。
そのとき初めて、一之進は悟ったのだという。
研美の中に巣食うモノは、人の手では扱えず、人の英知でも祓えず、神職でさえ触れることができない領域に踏み込んでしまっていると。
ただ一人、元だけがそこへ手を伸ばせる者。
元は一之進と共にミチルの事故のショックで意気阻喪としている研美の元へ訪れて語った。
『嬢ちゃん、ついておいでや……』
そう言って研美の手を握ると三人は白魔洞窟へと向かった。
普段は国によって通行禁止となっているが、一之進の伝手で問題なく通行手続きを済ませ、洞窟の奥へ入っていくと、行き止まりに古びた石の祠があった。
今にでも朽ち果てようとしている小さな祠の扉を元が開くと、中には木彫りの仏像が凛として立っていた。
人の手で彫られたとは思えないほど神々しく、傷ひとつなく、まるで時間の外側にある物を見せつけられているような存在感だった。
洞窟の湿気がまとわりつくのに、その仏像の周囲だけは空気が乾いていた。
すると、元はその仏像の下に置かれていた小さな壺を手に取った。
『ええか嬢ちゃん……ちょっと辛いかもしれんけど我慢やで……』
そう言って元はその場に正座すると、経のようなものを唱えた。
その響きは真言、祝詞でもなく、どこか古めかしく、太古の風の記憶を引きずるような音律だった。
しかし恐ろしいほど自然で、空気そのものがその言葉に応じて揺らぎ、洞窟の壁が低く唸り始めた。
心がむき出しになるような解放感がある響きに、一之進は聞き入っていると――。
突然、研美が胸を押さえて苦しみ始めた。
喉奥から押し殺したような声が漏れ、肩が激しく震え、握られた元の手に爪が食い込む。
洞窟全体の温度が、一気に下がったかのような錯覚が走った。
まるで、研美の中の“何か”が、元の声に反応して暴れ出したように。
その直後、研美の体がびくりと震え、口元から白い吐息のようなものが漏れ出した。最初は霧のように淡かったそれは、次第に人影めいた輪郭を帯び、研美の背後にぬらりと立ち上る。
形を持たない影。顔のないはずのそれが、こちらを見ていると分かるほどの、濃密な敵意と憎悪の塊。
洞窟の空気が一気に重みを増し、一之進の背筋に冷たいものが走った。
あれは、力の暴走でも、人格の歪みでもない。深く、忘れ去られた古の、もっと人ならざる何か。
元の唱える古代語のような声に呼応するように、その影がぎしぎしと軋む音を立てながら揺れた。
研美の体は完全に力を失い、その場に崩れ落ちる。気絶というより、魂が一瞬抜けかけたような虚脱だった。
元は迷いなく壺の蓋を開き、その影を手で掴んだわけでもないのに、まるで吸い込むように壺へと閉じ込めた。影の抵抗が洞窟全体を震わせたが、元が蓋を閉じると同時に、ふっと収まり、静寂が戻った。
祠の灯りが揺れ、風のはずのない洞窟の奥で何かが息を吐いた。
その壺を両手で包み込むように持った元は、長い息をついた。
『ここに置いておけば、嬢ちゃんが苦しめられることはあらへん……』
この場所は山の胎内、外界の理とは別の力が満ちており、禍の力は封じられ、動くこともできない。
一之進はその言葉の意味を理解した。これは祓いではなく“幽閉”だ。壺はただの器ではなく、封印するための神器なのだと。
しかし、永遠ではない。
洞窟そのものの力が弱まったとき、あるいは壺の中の禍が力を蓄えたとき、いずれそれは、封を破って外へ飛び出す可能性がある。
――それが5年後なのか10年後なのかはわからないと元は語った。
その時、禍は研美の元へ還ろうとするだろう。それが自然の流れであって、元とて抗う術はない。
ただ元は、淡々と付け加えた。
もしこの禍々しいものを、研美が再び自ら受け入れたうえで、外から叩きのめし、ねじ伏せる者が現れたなら――。
この“禍”は完全に消滅する。
封じるだけでは意味がない。祓うこともできない。
ただ“外から倒す”ことでのみ、根源から断ち切ることができる。
その方法は、あまりにも危険であり、残酷で、研美自身に負担が大きいものだった。
だが、それでも唯一の終わり方であることを、山の沈黙が肯定しているように感じられた。
――如月は音や光もない虚無の中で一人考えていた。
(……面倒ごとばっかりだな……)
言葉で発したわけではないが、どこか避けられない運命を受け入れるように笑っていた。
そして今、意識が薄れゆくこの瞬間になって、ようやくその正体が輪郭を見せ始めていた。
「……上等だよ」
如月の目に生気が宿ると同時に……。
――バキッ!
歓声が飛び交うアリーナに鋭い乾いた何かが折れる音がすべてを遮った。
その瞬間、空気が途切れた。“人間としての認識”そのものが一瞬だけ途切れたような、異様な静寂。
すると、如月は研美の肩に手をかけて、そのままスルリと体を研美の腕から抜け出した。
そして研美の肩を台にして飛び上がると、空中で捻りを加えた伸身ムーンサルトで着地する。
研美の体を利用するその動きは、決死の反撃というより、むしろ必然として導かれた“解”だった。
その場で立ち上がる如月の目は、殺気に満ちた視線ではなく、覚悟を決めた生きる人の目だった。
研美は笑みを浮かべたまま自分の手を見ると、両手の親指と人差し指がありえない方向に曲がっていた。
――如月が折った。
「ヒィ!」
そのあまりにも異様な光景にリングサイドの席から悲鳴が上がる。レフリーでさえその光景に目を留めるだけで試合を精査することができないでいた。
しかし、研美は何食わぬ顔で折れた指を強引に元に戻す。
骨の擦れる生々しい音とともに、皮膚の下で骨が滑り戻る感触だけが観客席にまで伝播したかのような錯覚が走る。
観客は、形容し難い艶めかしく、耳の奥で何かが蠢くような不快感が全身を駆け上がっていくような不快感で直視できなかった。
まるで研美の四肢そのものに“別の何か”が潜んでいるかのようだった。
如月はそんなことを気にすることなく、いつものようにステップを踏み始めた。
先ほどまでの殺気はすべて四散し、リングに立つ如月の姿は、純粋なまでに研ぎ澄ませれた闘技者の姿だった。
「もう容赦はしねえ……!」
誰かと話わからぬモノに対しての宣戦布告と取れる言葉。と同時に如月は左目を瞑ると、強烈な機械音が如月の頭の中でこだまする。
神眼がすべてを射抜き、そしてすべてを射抜く。
視界が二重に開く。
未来の枝がばらばらに散り、あり得た結果が無数の光線となって空間を切り裂き、最後にただ一本だけが、確かな線として浮かび上がる。
如月の心拍が静まり返り、世界の騒音が一枚の膜の向こうへ遠ざかる。
次の一歩。攻防。研美の反応。観客の息。それらが全て、ルールや本能でもなく、“ディフィニション”として脳に流れ込む。
そして、如月の右目だけが、異様なほど澄んだ光を宿していた。




