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見えすぎる目

 アタルとの修練で焦点化をある程度習得した。ある程度、だ。


 裏庭の焚き火を基準にすれば、一人の相手に対して真実視の焦点を合わせ続けることができる。焦点を合わせた相手の言葉だけが色彩を帯び、それ以外は薄いぼやけた世界に沈む。頭痛も軽減する。一対一ならば、なんとか耐えられる。だが人混みの中では制御が追いつかない。


 神殿の門前市場を歩いた日、それを思い知った。


 アタルの修練で自信をつけたわけではない。ただ、いつまでも孤児院に閉じこもっているわけにもいかなかった。食料の買い出しは当番制で、キアンの番が回ってきた。断る口実がなかった。嘘をつけば喉が灼ける。体調が悪いとも、別の用事があるとも言えない。


 門前市場は狭い通りの両側に露台が並ぶ雑多な空間だった。布で覆われた台に干し肉や香辛料が積まれ、陶器の壺が列をなし、染め布が風に翻っている。人々が行き交い、声が飛び交い、砂埃が舞い上がる。焼いた肉の脂の匂い、香辛料の刺激臭、人の汗の匂い──そのすべてが一度に鼻を突いた。道幅は大人三人が並べば塞がるほどで、すれ違うたびに肩が触れる。触れるたびに、相手の言葉の色彩が飛び込んでくる。壁際の日陰で老婆が干し果実を売り、その隣で若い男が革紐を編んでいる。通りの向こうでは子どもたちが走り回り、犬が吠えている。


 大量の嘘の色彩が視界を埋め尽くした。商人の値付けの嘘が赤く灼ける。「今日の品は最上級だよ」──濃い赤。客の値切りの嘘が重なる。「他の店ではもっと安かったぞ」──赤。物乞いの身の上話が赤い帯となって視界を横切る。「三日も食べてないんだ」──淡い赤。子どもの強がりが小さな赤い火花のように散る。すべてが同時に、同時に、同時に──


 頭が割れるように痛んだ。


 焦点化など不可能だった。対象が多すぎる。一人に焦点を合わせようとしても、隣の人間の嘘が割り込み、背後から新しい色彩が飛び込み、制御が崩壊する。色の洪水が脳を灼き、思考が溶けていく。視界が歪み、足元がふらつく。


 吐き気がせり上がり、キアンは路地の壁に手をついた。冷たい石壁の感触が掌に伝わる。もう片方の手で口を押さえ、胃液の酸っぱい味を堪える。額に脂汗が浮き、視界がぐるぐると回る。色彩の洪水が脳を灼き、思考が溶解していく。市場の喧噪が遠くなり、自分の荒い呼吸だけが耳に残った。


「おまえはまだ、視ることと受け入れることの違いを知らぬ」


 アタルが傍に立っていた。いつの間にか。キアンが市場に出ることを知っていたかのように。白い衣が路地の薄暗い光の中で浮かんでいる。アタルの声に色はない。透明な声が、色彩の嵐の中で唯一の静寂を提供する。


「視ることは、すべてを判断することではない。視たものを、ただ視たままにしておく技術がある」


 視たものを判断しない。嘘を視ても、それを「嘘だ」と断じない。赤い色を視ても、それに反応しない。ただ視たままにしておく。キアンにはまだその技術がなかった。視れば判断してしまう。嘘つきの習性だ。嘘を見抜いたら、利用するか回避するか、即座に判断を下す。それが十六年間の生存術で叩き込まれた反射だった。


 その夜、キアンは悪夢を見た。


 幼い頃の記憶だった。断片的で、脈絡がない。暗い部屋。天井が低い。壁が土で、隙間から冷たい風が吹き込んでいる。誰かが泣いている。女の声だ。嗚咽を噛み殺すような、低い泣き声。大人の声が怒鳴っている。男の声だ。複数の。扉が蹴り開けられる音。火の光──聖火ではない、もっと荒々しい、制御されていない火。松明の赤い光が壁を舐め、影を踊らせる。誰かが連れていかれる。叫び声。女の声。「やめて」。手が伸ばされ、すぐに闇に呑まれる。小さな手が──自分の手だろうか──闇の中で宙を掻いている。


 目が覚めた。


 汗だくだった。寝台のシーツが体に張りつき、心臓が早鐘を打っている。こめかみが脈打ち、手が震えている。孤児院の暗い天井を見上げ、呼吸を整えた。隣の寝台で眠る子どもの寝息が、規則正しく聞こえる。それだけが現実の音だった。


 記憶の正体がわからなかった。孤児院に来る前の記憶はほとんどない。「捨てられた」としか聞かされていない。三つか四つの頃にはもう孤児院にいた。それ以前のことは霞がかかったように曖昧で、手を伸ばしても指の間から零れ落ちる。思い出そうとすると頭痛がする。真実視の頭痛とは違う、もっと深い場所の痛みだ。


 だが今の夢は──零れ落ちる前の、かたちのある記憶だった。泣いていた女の声。怒鳴る男たちの声。松明の光。連れていかれる誰か。断片ではあるが、そこには確かに「出来事」があった。捨てられたのではなく、何かが起きたのだ。何が起きたのか。誰が連れていかれたのか。女の声は──母の声だったのか。考えるほどに記憶は霞み、掴もうとする指の間から砂のように零れ落ちていく。


 翌日の修練の後、キアンはアタルに問うた。焚き火の炎が二人の間で揺れ、橙色の光がアタルの褐色の顔を照らしている。


「俺の過去について、何か知ってるか」


 アタルは長い沈黙の後、答えた。炎が爆ぜる音が、その沈黙を埋めた。


「おまえの過去は、いずれ自分の目で視ることになる」


 はぐらかしではなかった。知っていて言わない態度。確信を持って沈黙を選んでいる。アタルの声に色はない。真実かどうかすら読み取れない。キアンはアタルの「知りすぎている」不自然さを、初めて明確に意識した。


 この老人は何を知っている。


 まだ追及はしなかった。信頼と疑念が同居する関係。アタルを問い詰めれば何かが壊れる気がした。十六年間、嘘で築いた関係のバランスを保つ感覚が、キアンにはある。壊れやすいものに触れないこと。それも嘘つきの生存術の一つだった。アタルの知りすぎた眼差しが焚き火の向こうで揺れている。炎がその褐色の顔を照らし、深い皺の影が動く。この老人の沈黙には、喋ることよりも多くの情報が詰まっている。


 夜明け前、キアンは屋上に出た。


 真実視で神殿を見下ろす。星はまだ空にあり、東の地平線が薄く白み始めている。冷たい風が肌を刺し、息が白く凍る。


 神殿は嘘の色で灼けていた。


 思っていたよりも遥かに多くの場所が、赤い色彩に覆われている。聖火の間、礼拝堂、神官長の居室、書庫、倉庫──建物のあちこちに、嘘の残滓が染みついている。壁に沁みた染料のように、赤い色が石に染み込んでいる。人が嘘をついた場所には色が残るのか。それとも、嘘が構造化された場所そのものが赤く灼けるのか。


 この神殿は聖火を守る場所のはずだ。真理(アシャ)を奉じる場所のはずだ。


 なのに、なぜこんなに嘘で満ちている。


 キアンは屋上の冷たい石に座り、嘘に灼ける神殿を見下ろし続けた。遠くで朝の祈りの声が聞こえる。その声の半分が、赤く灼けているのがわかった。


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