水の巫女
水の巫女が来た。
火の神殿の接見の間に、白地に青い刺繍を施した装束の女が立っていた。長身で均整のとれた身体つき。黒髪を長い三つ編みにまとめ、水を映したような深い青の瞳が、薄暗い接見の間の中で静かに輝いている。装束の袖口と裾に施された刺繍は波紋を模しており、歩くたびに青い糸が光を反射して揺れた。背筋がまっすぐで、立ち姿に一切の弛みがない。年齢はキアンより一つか二つ上だろう。まだ少女の面影を残しているが、佇まいには年齢以上の落ち着きがあった。
アナヒド。浄水を司る巫女だと、付き添いの神官が告げた。
キアンは接見の間の隅に立たされていた。壁際の柱に背を預け、上位神官たちのやり取りを遠くから眺めている。聖火消滅の調査のために派遣された水の祭祀部門の巫女──表向きはそう聞かされたが、上位神官たちの会話の断片から、もうひとつの目的を嗅ぎ取っていた。控えの間で交わされた囁き声。「あの孤児の目」「制御できるのか」「危険ではないのか」。自分の耳が拾った言葉の欠片を、嘘つきの勘が正確に繋ぎ合わせる。キアンの「異常な目」の監督。
見張りだ。厄介な任務を押しつけられた、という顔はしていない。むしろアナヒドの表情には静かな決意が浮かんでいる。命じられたからやるのか、自ら望んだのか。キアンには判別がつかなかった。
アナヒドは神殿の上層部と丁寧な言葉を交わしていた。穏やかだが芯のある声。言葉の選び方に知性がにじんでいる。腰に下げた銀の水瓶──銀壺──が、動くたびに微かな水音を立てる。美しい祭具だった。銀の表面に細かな文様が刻まれ、蓋の部分に小さな蒼石が嵌め込まれている。水瓶の中で水が揺れるたび、蒼石が光を帯びて微かに輝く。接見の間の薄暗い光の中で、その輝きだけが水底の宝石のように静かに明滅していた。
キアンの真実視が、アナヒドの言葉を捉えた。白が多い。嘘が少ない。神殿の上層部との会話の中で、アナヒドの言葉は大半が白く澄んでいた。ただし、すべてではない。淡い赤が混じる箇所がある。「喜んでお引き受けいたします」──淡い赤。本心からの喜びではない。命令に従っているだけだ。だがそれは嘘というより、礼儀だった。赤の中にも種類がある。悪意の赤と、礼節の赤は違う。
キアンの第一印象は二つだった。穏やかで近づきやすい。だが目の奥に、自分のものではない悲しみが常に溜まっている。巫女としての責務から来る重圧だろうか。それとも、もっと深い何かだろうか。青い瞳の奥に、水底に沈んだ石のような暗い光が見える。観察眼がそれを拾い上げ、真実視がそれに色をつけようとする。だが色がつかない。悲しみの色は赤でも白でもなく、ただ暗かった。
接見の後、アナヒドがキアンの前に歩み寄った。近づくと、微かに水の匂いがした。河の水ではない。もっと澄んだ、山の湧水のような匂い。エワルの中の水が、装束に移り香のように染みついているのだろう。
「あなたがキアンですね。私はアナヒド、水の祭祀部門の巫女です。しばらくあなたの──」
声が近い。接見の間では遠景だったアナヒドが、今は手を伸ばせば届く距離に立っている。水の匂いが強くなった。エワルの水が揺れる音が、微かに聞こえる。青い瞳がキアンの顔を正面から見つめていた。視線を逸らさない。その真っ直ぐさが、嘘つきには居心地が悪い。
キアンは反射的に嘘で距離を取った。嘘つきの条件反射だ。見知らぬ相手には、まず嘘で壁を作る。それが十六年間の生存術で身についた、無意識の防衛行動だった。
「別に何も見えてないし、普通の孤児だよ。監督なんて必要ないって」
アナヒドが微かに顔を歪めた。
一瞬のことだった。眉間に皺が寄り、唇が薄く引き結ばれ、すぐに元の穏やかな表情に戻る。だがキアンは見逃さなかった。嘘つきの観察眼は、表情の微細な変化を捉えることに長けている。目の端の緊張、頬の筋肉の引きつり、呼吸の乱れ──すべてを一瞬で読み取る。
痛がった。
なぜキアンの嘘でアナヒドが痛がるのか。理由はわからないが、確かに痛そうだった。身体的な痛みではない。もっと内側の、心の表面が引っかかれたような痛み。この巫女は──嘘を「感じる」のか。
神殿の中庭で、アナヒドはキアンに改めて向き合った。午後の陽が中庭の石畳を白く照らし、アナヒドの三つ編みが風に揺れている。石畳の隙間から伸びた雑草が、風に吹かれて揺れる。中庭の隅に植えられた石榴の木が、葉を茂らせている。
「改めて。私はあなたの監督を命じられています。あなたの力が危険でないかを確認するために」
「だから、力なんてないって」
喉が灼けた。声が途切れる。アナヒドがまた微かに眉を寄せた。今度は痛みを隠そうとしなかった。あるいは、隠しきれなかった。
キアンは喉を押さえながら、アナヒドの表情を観察した。痛がっている。キアンが嘘をつくたびに、この巫女は痛みを感じている。共感力だ。巫女の感受性が、キアンの嘘を「痛み」として受信している。嘘の色を「視る」キアンと、嘘の痛みを「感じる」アナヒド。鏡のような対称性だった。
嘘つきと共感者。最も居心地の悪い組み合わせの誕生だった。キアンの嘘は、これまで誰にも痛みを与えなかった──少なくとも、キアンはそう思っていた。嘘は空気のように軽く、水のように流れ、誰も傷つけない。そのはずだった。だがアナヒドの前では、嘘の一つひとつが棘になる。棘が相手に刺さるのが、見える。
「……わかったよ」
キアンは降参するように両手を上げた。掌を見せるのは、武器を持っていないことの証。嘘つきにとっては、嘘を手放すことの象徴でもあった。
「俺の言うことは全部嘘だと思っておけ。そのほうが──たぶん正しい」
自虐であり、防衛線だった。先に自分で言ってしまえば、相手に見抜かれる恐怖がなくなる。アナヒドは少しだけ目を見開き、それから静かに口を開いた。
「……痛い自己紹介ですね」
その声は白かった。真実だった。
その夜、キアンはアナヒドの言葉を反芻した。孤児院の寝台の上で天井を見つめ、闇の中で「痛い自己紹介」という言葉を何度も転がした。隣の寝台では年下の子が寝息を立てている。その寝息に色はない。眠りの中では人は嘘をつかない。夜だけが、キアンにとって色彩から解放される時間だった。
痛い自己紹介。嘘が相手に痛みを与えるという感覚は、キアンにとって初めての体験だった。嘘は武器であり盾であり、生きるための道具だった。それが他者に痛みを与えるものだとは考えたことがなかった。嘘は便利で、効率的で、生存に不可欠な技術だった。痛みとは無縁のはずだった。だがアナヒドの歪んだ表情が瞼の裏に焼きついている。あの一瞬の眉間の皺。唇の引き結び。嘘がもたらす痛みの、最も正直な証拠。キアンの嘘は十六年間、誰かを傷つけていたのか。気づかなかっただけなのか。それとも、アナヒドの感受性が特別なのか。答えは出なかった。
嘘は──痛い。
誰にとって。




