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偽りの祈り

 神官長の「公式見解」は嘘で塗り固められていた。


 キアンの真実視(アシャ・サイト)は、その構造を残酷なまでに暴いていた。壇上の神官長が語る言葉の一つひとつが赤い色彩を纏い、空中に漂う。聖火消滅の予兆は数ヶ月前からあった。炎の揺らぎ、温度の低下、灰の変色──神殿の上層部はそれを把握していながら、隠蔽していた。神官長の言葉の裏に、保身と体面維持の赤い色彩がべったりと張りついている。赤の中にも濃淡がある。意図的な嘘は深い赤に灼け、自分でも気づいていない嘘は淡い赤に染まる。神官長の言葉は、深い赤だった。


 キアンは意図してそれを視たわけではなかった。力が勝手に視る。知りたくなかった情報が、嘘の色彩として視界に流れ込んでくる。神官長の額に浮かぶ脂汗、祭衣の襟元を無意識に引く指、壇上から聴衆を見渡す視線の中に混じる恐怖──すべてが読み取れてしまう。観察眼と真実視が重なり、神官長という人間の構造が透けて見えた。


 知ってしまった。


 知ってしまったが、言えない。言えば自分の力が露見する。異端者として排除される。火の神殿は善悪を裁く場だ。善悪の秩序を司る神殿の中で、「嘘が視える目」を持つ孤児が何を言ったところで、信じてもらえるはずがない。むしろ危険視される。嘘をつけば喉が灼ける。黙っていれば──知っていて黙ることの重さが、胸の底に沈む。ずしりと重い。食べたものが消化されないまま胃の底に残っているような、不快な重さだった。


 嘘つきは黙ることに慣れている。だがこれまでの沈黙は自分を守るためだった。今の沈黙は──誰を守っているのだろう。神官長を守っているのか。自分を守っているのか。それとも、知ってしまった真実から目を逸らしているだけなのか。廊下を歩きながら、すれ違う神官たちの会話が赤い色彩を帯びて耳に入る。聖火復旧の見通しについて語る声の大半が赤い。知っている。みんな知っている。簡単には戻らないことを。だが口にしない。口にすれば不安が広がるから。組織的な沈黙。個人の嘘とは違う、集団の嘘がこの神殿を覆っていた。


 夕刻、裏庭でアタルがキアンを待っていた。小さな焚き火のそばに座り、枝を折っている。乾いた枝がぱきりと音を立てる。キアンが近づくと、アタルは顎で向かいの石を示した。


「座れ」

「修練か?」

「おまえの言い方をすれば、そうじゃ」


 アタルの指導が本格的に始まった。真実視の最初の制御法──「視ることを止められないなら、視たものの扱い方を学べ」。アタルの声は色を持たない。透明な声が、夕暮れの空気の中で焚き火の爆ぜる音と混じり合う。


 方法は単純だった。焚き火の炎を見つめ、真実視の「感度」を意識する。炎は嘘をつかない。自然物は常に白い真実の色で澄んでいる。揺れる炎、燃える薪、立ち昇る煙──すべてが白だ。嘘のない存在は白い。その白を基準にして、人間の嘘の色彩を相対的に捉える。白を意識すると、赤い色彩の氾濫が一段階遠のく。洪水の中に立つのではなく、洪水を岸から眺める視点。


「白を基準にせよ。赤を追うな」


 アタルの言葉に色はない。嘘でも真実でもない、空白の声がキアンの耳に届く。焚き火の熱が頬に当たり、指先が温まっていく。冷え切った手が、ようやく血の巡りを取り戻す。


 キアンは不器用に炎を見つめた。白い光。揺らがない真実の色。それを基準に据えようとすると、周囲の赤い色彩が薄まる──ような気がした。気のせいかもしれない。だが「気のせいだ」と思った瞬間、喉は灼けなかった。嘘ではなかった。確信はない。だが否定もできない。その曖昧さの中に、制御の最初の芽があった。


「下手な嘘だな」


 アタルが唐突に笑った。キアンが何か嘘をついたわけではない。だが修練中の集中が切れたことを、アタルは見抜いていた。キアンの視線が炎から逸れ、裏庭の向こうに見える孤児院の棟に移ったことを、この老人は正確に察していた。


「嘘を否定するつもりはない。下手な嘘を見過ごすつもりもないがな」


 嘘を否定しない大人。それはキアンにとって新鮮だった。孤児院では嘘は罰の対象であり、大人たちは「嘘をつくな」と繰り返す。嘘をつくなと言いながら、自分たちも嘘をついている。その矛盾を、キアンは子どもの頃から見抜いていた。アタルは違った。嘘を見抜いた上で笑う。嘘の質を指摘する。嘘を許容するのではなく、嘘と共にある。それは許しでも拒絶でもない、第三の態度だった。


 居心地が悪い。だが──嫌ではなかった。焚き火の熱が頬に当たり、アタルの色のない声が耳に入る。このひとときだけは、頭痛が薄れる。色彩の洪水が、焚き火の白い光に押し返されるように遠のいていく。


 修練は短時間で終わった。アタルが「今日はここまでじゃ」と告げ、焚き火を消そうとしない。消そうとしないのではなく、消す必要がないかのように火はいつまでも穏やかに燃え続けている。薪が尽きても、炭が冷めても、炎だけが同じ形で揺れている。不思議なことだった。だが今のキアンには、不思議を追及する気力がない。


 孤児院に戻ったキアンは、仲間たちとの距離が広がっていることを実感した。


 相手の嘘が視えてしまうから、適切な反応ができない。笑うべきところで笑えない。同意すべきところで同意できない。嘘で回していた人間関係が、嘘が視えることで維持できなくなる。皮肉だった。嘘つきが嘘を視る力を得たせいで、嘘で築いた居場所を失っていく。食堂の長卓で、キアンの隣に座る者が一人減り、二人減った。避けられているわけではない。だがキアンの沈黙が居心地の悪さを生み、自然と人が離れていく。


 神殿の屋上に一人で座った。


 夕暮れの空は赤かった。嘘の赤ではない、太陽の赤。自然の色彩には嘘がない。空だけが正直だった。地平線に沈む太陽が雲の縁を金色に染め、空の高いところでは藍色が広がり始めている。風が吹いた。乾いた風が髪を攫い、頬の汗を乾かす。屋上の石は日中の熱を蓄えていて、座ると背中が温かい。遠くから祈りの声が聞こえる。夕べの祈祷だ。祈りの半分が赤く灼けているのを、ここからでも感じ取れてしまう。


 アタルが屋上に現れた。いつの間に登ってきたのか、足音がしなかった。隣に腰を下ろし、同じ方角を見つめる。二人の間に言葉はなかった。夕暮れの風だけが、二人の間を吹き抜けていく。


「二つ目の聖火が揺らいでおる」


 遠くの空に、不自然な暗雲が湧いていた。夕焼けの赤に混じって、墨を溶かしたような黒い雲が地平線に広がっている。自然の雲ではない。形が歪で、風に流されず、同じ場所に留まっている。空気の匂いが変わった。乾いた砂の匂いに、微かに焦げた匂いが混じっている。キアンの真実視が、あの暗雲の中に赤い色彩の残滓を感じ取った。遠すぎて確かなことはわからない。だが、あの雲の下では何かが起きている。


「……聖火の消滅は、一つじゃ終わらないのか」


 アタルは答えなかった。答えないことが、答えだった。


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