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灰色の視界

 覚醒から一週間が過ぎた。


 キアンの真実視は精度を増していた。制御できないまま、力だけが研ぎ澄まされていく。神殿の日常会話が、ほぼすべて嘘の色で灼けて見える。朝になれば食堂の喧噪が赤い色彩に染まり、昼には回廊を行き交う神官たちの言葉が赤と白に明滅し、夜には寝台の上で闇の中にまで色彩の残像がちらつく。眠りだけが唯一の逃げ場だった。


 敬虔な祈りの半分は形式的な虚礼だった。朝の挨拶の三割は社交辞令で、孤児たちの「元気だよ」は痩せ我慢の赤に染まり、神官たちの「聖火はすぐに戻る」は保身の暗い赤で灼けていた。厨房の老婆が「今日の粥はいつもよりおいしくできたよ」と言う声は淡い赤──味が変わっていないことは本人も知っている。だが子どもたちを安心させたいのだ。優しさから生まれる嘘。それすらも赤く灼ける。


 世界はこんなに嘘で満ちていたのか。


 キアンは灰色に見える世界を歩いた。赤い色彩が視界を覆い、白い真実の光はまばらにしか見えない。頭痛が常態化し、こめかみの奥で鈍い痛みが脈打つ。情報の過多に脳が悲鳴を上げていた。食事の味がわからなくなった。粥を口に運んでも、穀物の甘みも塩の味も感じない。色彩の洪水に感覚が飽和して、味覚にまで手が回らないのだ。疲れた。目を閉じても色は消えない。眠りの中でだけ、ようやく世界は暗くなる。


 聖火が消えた影響は、神殿の外にも広がり始めていた。


 周辺の集落から不安の声が上がっている。門前町の市場で、商人同士の口論を見かけた。以前なら些細な値引きの応酬で済んだはずの交渉が、互いの顔を真っ赤にしての怒鳴り合いに発展している。隣人を疑う目つきが増えた。夜道を歩く者が減った。夕暮れを過ぎると通りから人影が消え、家々の扉が早々に閉ざされる。聖火は善悪の指針だった──善い行いをすれば聖火に守られ、悪しき行いをすれば聖火に灼かれる。その指針が消えた今、人々は何を基準に善悪を判断すればいいのかわからなくなっている。道端で子どもが転んでも、手を差し伸べる者が減った。善行が報われる保証が消えたのだ。


 キアンの真実視は、その混乱を残酷なまでに映し出した。「自分は善人だ」という自認が赤く灼けている者。「聖火がなくても大丈夫だ」と強がる者。「きっとすぐ元に戻る」と根拠のない希望を語る者。すべてが赤い。嘘だ。白い真実は少なかった。「怖い」と正直に言える者は少なく、ほとんどの人間が嘘の皮で自分の恐怖を覆い隠していた。


 聖火って──こんなに大きなものだったのか。


 消えて初めてわかる。聖火は単なる炎ではなく、人々が「善く在ろう」とする理由そのものだった。理由が消えれば、善意も消える。残るのは不安と疑念だけだ。キアンは市場の片隅で、老人が子どもに向かって怒鳴りつけているのを見た。子どもが盗みを働いたわけではない。ただ老人の荷物に手が触れただけだ。以前なら笑って許されたことが、今は怒りの種になる。疑念は怒りを呼び、怒りは人と人の間に壁を築く。


 夜。アタルが神殿の裏庭で小さな焚き火を起こしていた。


 キアンは引き寄せられるように近づいた。裏庭は冷え込んでいたが、焚き火の周囲だけが温かかった。乾いた薪が爆ぜる音。橙色の炎が闇を揺らす。炎の光が裏庭の土壁を照らし、壁に這う蔦の影が揺れている。煤の匂いと、乾いた木の香り。聖火の間の白檀とは違う、素朴で温かい匂いだった。


 アタルは焚き火の傍に腰を下ろし、枝を折って火にくべていた。枯れ枝がぱちりと音を立てて炎に呑まれ、一瞬だけ明るくなる。キアンはその向かいに座った。焚き火の熱が顔に当たる。冷えた頬が、じわりと温められていく。


「あんた、こんなところで何してるんだ」

「老人は寒がりでな。焚き火がないと眠れん」


 色がない。嘘か本当かわからない。アタルの言葉はいつもそうだ。赤も白もない透明な声が、焚き火の爆ぜる音と混じって夜の空気に溶けていく。


 アタルが火の扱い方を見せた。素手で燃えさしの枝を動かし、炎の形を整える。素手で。灼けた枝を掴んでも、アタルは眉ひとつ動かさなかった。枝の先が赤く光り、火の粉が指の間を舞っている。焦げた匂いが鼻をつく。だがアタルの手には火傷の跡どころか、赤みすらない。


「……熱くないのか」

「年季が違う」


 アタルは微笑んだ。節くれ立った指が炎の中を平然とかき分ける。変だな、とキアンは思った。年季で火に素手は触れない。どれほど熟練した鍛冶師でも、素手で燃えさしは掴まない。だが追及する気力は残っていなかった。頭痛が酷い。一日中浴び続けた嘘の色彩の残響が、こめかみの奥でまだ脈打っている。


「聖火が消えて……みんなおかしくなってる」


 キアンは焚き火を見つめたまま呟いた。喉は灼けない。これは嘘ではないから。炎の光がキアンの琥珀色の目に映り、揺れている。


「おかしくなったのではない。もともとあったものが、表に出ただけじゃ」


 アタルは枝を火にくべながら言った。炎が一瞬大きくなり、アタルの顔を下から照らす。日に灼けた褐色の肌に刻まれた皺が深く影を落としている。


「聖火は善悪を分けるためにあったのではない。暗闇の中で人が歩けるように、あったのじゃ」


 キアンにはその言葉の意味を噛み砕く余裕がなかった。善悪を分けるためではなく、歩けるように。何が違うのか。だが考えるだけの思考の余白が、今のキアンにはない。ただ焚き火の温もりが、消えた聖火とは異なる何かを宿しているような気がした。小さな炎だが、揺らがない。風が吹いても消えない。不思議な火だった。裏庭を吹き抜ける夜風が髪を揺らし、キアンの頬を冷やすが、焚き火の炎だけは微動だにしない。


 しばらく二人は無言で火を見つめていた。炎の爆ぜる音と、遠くで虫が鳴く声だけが裏庭を満たす。夜空に星が出ている。星の光は白い。嘘のない光。自然物は嘘をつかない。星も月も、焚き火の炎も、裏庭の土も石も──すべてが白い真実の色に澄んでいる。人間だけが赤い。人間だけが嘘をつく。キアンは気づかぬうちに目を閉じていた。焚き火の温もりの中で、色彩の洪水が遠ざかる。アタルの傍にいると、真実視の負荷が軽くなる。なぜかはわからない。だがこの老人の周囲だけが、色彩の嵐の中の凪だった。


 翌朝、神殿の中庭で神官長が全員を集めた。聖火消滅について「公式見解」を発表するという。


 神官長が壇上に立った。白い祭衣に身を包み、胸の前で両手を組んで荘厳な声で語り始める。外敵の攻撃であること。対策は万全であること。信徒は安心してよいこと。新たな聖火を灯す儀式が準備中であること。集まった信徒と孤児たちは神官長の言葉に頷き、安堵の溜息を漏らす者もいた。


 キアンの目には、その言葉のほぼすべてが赤く灼けて見えた。


 嘘だ。神官長は何かを隠している。


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